北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第1回〜10回

第1回 山平鑑定を検証する証拠調べを求める意見書提出(2009年11月15日記)
 北海道庁爆破裁判の再審請求手続きは、現在は最高裁判所へ特別抗告中です。5ヶ月程前になると思いますが、弁護人が、山平鑑定を追試験する2つの鑑定を、実施するよう求める意見書を、最高裁へ提出しました。

 私が混合火薬の主剤になる除草剤を所持していたとする”証拠”は、ただひとつ山平鑑定があるのみです。「ビニールシートとカーテン地の2点から、除草剤(塩素酸ナトリウム)付着の反応があった」と認定されたのです。しかし山平氏は8月8日に、ビニールシートとカーテン地の鑑定を行っていません。それは、翌日9日に別の人物が鑑定したのでした。しかしながら警察にとっては、不都合な鑑定結果しか得られませんでした。そのために幹部は、山平氏に鑑定書の偽造を命じたのです。山平鑑定は不存在なのです。

 だが山平氏は率直に従いませんでした。抵抗しました。除草剤付着の証明力がないように工夫して鑑定書を作成しています。また中間報告をしたという電話通信用紙(これは控訴審に入ってから、幹部の命令で捏造したものですが)については、信用性が否定されるように工夫して作成しています。一審および二審の山平氏の証言内容もまた、そうしたものでした。とりわけ、再審請求審(札幌地裁)における山平氏の新証言は、実質的に山平鑑定を否定したに等しい内容でした。だけど札幌地裁は、検察官の主張だけを受け容れて、私たちの再審請求を棄却し、札幌高裁も、私たちの即時抗告を棄却したのでした。

 今回最高裁に証拠調べを求めた鑑定のひとつは、ビニールシートとカーテン地を再鑑定することです。再鑑定すれば白黒がはっきりするのですから、最高裁は認めるべきです。実施すれば、付着していないことが明らかになります。

 請求したもう一つの追試験鑑定は、山平鑑定は本当に、証言にある午後2時30分までに全ての検査が終わるかどうかを検証するものです。山平氏の証言によれば140回のイオン検査をしたことになります。これだけでも8時間14分が必要となり、朝9時から開始した場合、付着物の採取や水溶液づくり、そして水溶液の濃縮時間をいくら短縮しても、2時30分までに終えるのは不可能です。山平氏はこのように自分の鑑定の信用性を否定するように証言していたのです。

 私たちは即時抗告審(札幌高裁)で、この時間的不可能性を証明する新証拠として、鈴木回答書を提出し、鈴木氏の証人調べを求めたのでした。しかし札幌高裁は証人調べをせず、何の根拠も示すことなく、ただ「山平鑑定は信用できる」として、鈴木回答書と私たちの主張を退けて、棄却決定を出したのでした。裁判の目的は、事案の真相の究明のはずなのにです。

 最高裁に証拠調べを請求した先の2つの鑑定が実施されるならば、山平鑑定書の偽造と山平鑑定の不存在が証明されますから、除草剤所持の証拠はなくなります。

 そうなれば、確定判決(一審の札幌地裁の死刑判決)の「事実認定の証拠構造(本件では、二審の札幌高裁において、すべての事柄について改めて証拠の評価と事実認定がなされましたから、二審の事実認定が確定判決の証拠構造になっています)」の核の「本件爆発物の製造」が認定できなくなり、証拠構造は音を立てて崩壊します。当然、「再審開始」となります。さらには、他の証拠と合わさって私の除草剤不所持(当然、本件を実行できない)の無罪証拠となりますから、文句なしに「再審開始」となります。証拠の偽造の点においても「再審開始」となります。

 関心のおありの方は、詳しく論じてあります意見書等も掲載してありますので、そちらをご覧ください。 

 再審請求手続きにおいては、新たな動きはまれにしかありません。ですから、月に1回ほどのペースで、この「コラム欄」に、裁判に関することや非思想的な雑感や獄中の生活などについて、書いていきたいと思います。私の思想的な主張に関心のおありの方は、リンクを設定してあります「大森勝久評論集」や「日本と世界の安全保障研究会―大森勝久」のホームページをご覧ください。


                 2009年11月15日記   大森勝久



《編者のお節介コーナー》

1、本文中の赤字は、クリックするだけでそのコーナーに即リンクできます。

 2、除草剤(塩素酸ナトリウム)・・・・・・・・当時、除草剤の主成分は高純度の塩素酸ナトリウムでした。それが手製爆弾の混合火薬に欠かせない主原料となっていました。

 3、再審請求について・・・・・・・・再審請求は最初の公判(第一審)が行われた札幌地裁に対してなされました。不当にも再審請求は棄却されてしまいました。そのため、次の手順として札幌高裁に「即時抗告」したのですが、これも棄却となり、ついに最終段階である最高裁への「特別抗告」となったのです。

  なお、再審請求から特別抗告に至るその経緯や各段階で提出した書面が本ホームページを構成しており、それらはトップページからリンクしております。念のため、ここでもその主要なものをリンクさせておきますので、是非ご参照ください。


  再審請求  再審請求「意見書」   即時抗告申立書    特別抗告申立書   

・ 付 記

 「冤罪File」bO8.2009年12月号(季刊)という雑誌に、本事件に関して一審から今日までの裁判内容についての記事があり、よくまとめて書かれています。関心のおありの方は、是非ご一読ください。 
第2回  刑事裁判とは?ー 「社会通念」の誤り(2009年12月6日記)
 無罪を争う裁判に限定していきますが、刑事裁判に関する「社会通念」は、基礎的な法律知識があやふやですし、誤っています。
 
 もしも全ての証拠が収集できて、その全てが法廷に出されるのであれば、有罪か無罪かは、誰でも瞬時に分かります。しかし実際は、収集できる証拠は一部分に限定されます。たとえば、犯罪現場を監視しているビデオカメラや、目撃証人は、存在しないのが普通です。しかも法廷に出される証拠は、さらにその一部分です。検察官は、自分に不利、被告人に有利になる証拠は、法廷に出さないのが常です。さらに私の裁判のように、捜査側が数々の証拠を捏造、偽造しているケースもままあります。

 刑事訴訟法は、検察官に、被告人が犯罪事実を行ったことを「証明」する立証義務を課しています。しかし被告人側には、無実であることを「証明」する義務はありません。被告人・弁護人側は、検察官の犯罪事実立証に対して、合理的な疑いを抱かせる程度の反証を行えば足ります。これに成功すれば、無罪判決となります。

 刑事訴訟法は、裁判官に、公平な立場に立って、検察官の立証趣旨とその証拠、および被告人・弁護人側の立証趣旨とその証拠を、恣意を排して公正に分析評価して、事実認定することを命じています。公正な立場で、各証拠の信用性の有無の検討と、証拠の証明力の程度の検討を行うことを要求しています。もし証拠が、捏造や偽造されたものや虚偽の証言であれば、当然にも排除しなくてはなりません。記憶があいまいになってしまっている目撃証言や、捜査官の誘導等によって記憶が変わってしまっているような目撃証言は、信用性なしと評価されなくてはなりません。

 刑事訴訟法は、裁判官に、検察官の犯罪立証は、合理的な疑いを入れる余地がない程に「証明」されたか、否かを判断することを命じています。前記の意味での「証明」があったと判断すれば、有罪判決を出し、「証明」がないときは、無罪判決を出すことを命じています。これが刑事訴訟法によって規定された刑事裁判です。

 ところが刑事裁判に関する社会通念は、たとえば「A被告人のアリバイは完全には立証されたわけではない。そしてA被告人が疑わしい証拠はいくつもあるのだから、有罪判決が妥当だ」といったものです。繰り返しますが、刑訴法は、被告人側に「アリバイ証明」などの無実立証を義務づけていません。そして検察官の犯罪立証は、前記した「証明」レベルが義務づけられているのであり、それに至らない疑わしい程度の立証であれば、法は無罪判決を言い渡すことを命じているのです。「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則です。

 こういう誤った社会通念を利用して、ある場合には、裁判官自身が、証拠の信用性と証明力の分析評価において、刑訴法に違反して、検察官の主張ばかりを鵜呑みにして、恣意的な「証拠評価と事実認定」を行うことによって、有罪の結論を出すケースもあります。冤罪は、捜査機関だけが問題ではありません。

 再審は、(1)無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見した場合や、(2)確定した判決に用いられた証拠が、偽造や虚偽であることが証明されたときには、認めなくてはなりません(刑訴法435条、437条)。

 前回のコラム欄に書きましたように、山平氏は鑑定を行っていません。私たちは、それを明らかにする新証拠を提出しました。山平鑑定は不存在であり、鑑定書は偽造です。山平鑑定が排除されれば、「本件爆発物の製造」という間接事実が認定できず(注1)、当然「本件爆発物の設置使用」という犯罪事実は認定できず、無罪です。本再審請求においては、上記の(1)(2)のふたつの理由で、再審開始決定が出されなくてはならないのです。

  (注1) 公訴事実(犯罪事実)は「本件爆発物の設置使用」だけですが、裁判所はそれを推認するための絶対不可欠の間接事実として、「本件爆発物の製造」の事実を認定したのでした。


                     2009年12月6日記    大森勝久




《編者のお節介コーナー》

 ・「被告人側に無実であることを証明する義務がない」のは当然と言えます。なぜなら、「事件」の捜査権は警察・検察官にしか与えられていませんから、それを持たない被告・弁護側が無罪の証拠を収集することは極めて困難になるからです。挙証責任は飽くまでも検察官にあるのです。

 ・今年も残すところあと僅かになってしまいました。皆様、今年はどんな年でしたでしょうか。いずれにしろ来年は良い年になりますようお祈り申し上げます。

 ・特別抗告申立中の本件ですが、来年こそは再審の扉を開きたいと念じております。

 同様の冤罪事件である布川事件が発生したのは、1967年でした。当初から無実が叫ばれながら、再審開始決定がなされたのは38年後の2005年9月のことでした。この事件においても検察官は、被告人が無罪となるべき証拠を38年間も隠し続けてきたのです。
 しかし検察側はこの決定を不服とし、東京高裁に即時抗告をするのですが棄却され(2008年7月)、その後は最高裁へと特別抗告したものの、当然ながらこれも棄却されて2009年12月15日 再審開始が確定したのでした。
新年の御挨拶(2010年 元旦)
 新年明けまして おめでとうございます このコラムを読んでいただきまして、ありがとうございます。今年がみなさまにとりまして、良いお年になりますことをお祈りしております。



 実は、このホームページを管理してくれている友人から、「新年の御挨拶を書くのはどうでしょう」と提案されまして、急いで筆を執ったのでした。長い間、毎月定期的に発表する文を書くことがありませんでしたから、提案されるまで気がつきませんでした。

  とりとめのないことを少し書きます。

  その友人が、グーグルで「大森勝久、再審裁判」の語句で検索すると、1900件中1番目でこのホームページが出てきますよ、と印刷して郵送してくれました(12月18日現在)。アクセス数はまだ170ですが、未知の方以外にも、私の大学時代そして小中学校また高校時代の知人の何人かも、このコラム等を見てくれているかもしれないという気持ちになったのでした。

  大学では、2年生(1969年)から、誤った左翼の道へ入っていくことになってしまった私でしたが、3年の冬位までは、まだ深くのめり込んでいませんでした。ですから、その頃までの私は、クラスメートにそれなりに好かれていたように思います。

  私は大学のある岐阜市や実家の多治見市(高校まで過ごした)のことを、よく思い出して過ごしています。良い思い出が多くあります。人間の幸せは、自分が人々に必要とされていることだと思います。

平成22年 元旦
大森勝久

(2011年3月31日、一部削除しました)



《編者のお節介コーナー》

 大森勝久さんに直接手紙を出せるのは肉親以外では、私を含め3名までしか認められていません。

 この「新年の御挨拶」をお読みになって、大森さんに伝えたいことなどありましたら私宛てお知らせください。ただ、そのまま本人にお伝えすることができないこともありますので、その点は予めご承知おきください。幾つかの制約がありますので、よろしくお願い申し上げます。

 なお、今回いただきましたメッセージは外部に公開することは決して致しませんので、御安心ください。

    連絡先メールアドレス     omorisaiban@nifty.com


  第3回コラムの掲載は、2010年1月16日頃を予定しております
第3回  鑑定の不存在を間接的に主張していた山平氏(2010年1月7日記)
 山平氏は1審2審当時から、山平鑑定が不存在であることを、間接的に主張していたのでした。ところが当時の私たちは、反発ばかりが先立ってしまって冷静さを欠いていたために、関連証拠を徹底的に批判的に検討していくことができなかったのでした。

  本件の捜査において、捜査主任官(警備課長)の参謀というbQの地位にあった石原警視は、8月7日の夜に「押収物はまず指紋検出依頼に出し、それが終わったものから直ちに鑑定を行う」という方針を出しています。

  8月7日に押収した(私が投棄した物)37点の資料は、8月8日付で鑑定嘱託されたものですが、その中の5点を除いた32点は、同日付で刑事部鑑識課に指紋検出と照合依頼がなされているのです。ですから32点は、指紋検出を先行させることになります。なぜならば、指紋検出後でも鑑定は何ら支障なく行えますが、鑑定を先行させますと、指紋は消えてしまうからです。付着物採取のために、水に浸した脱脂綿で全体をていねいにぬぐいとるからです。

  捜査本部が指紋検出を重視したのは、私に仲間もいるであろうと考えたからであり、それら32点の混合火薬製造器具から得られる私と私以外の指紋が、もし道庁の爆破現場や声明文が入れられたコインロッカーの遺留指紋と一致すれば、私も仲間も犯人だとなるからです。

  32点の中には、「除草剤(塩素酸ナトリウム。混合火薬の主原料)の付着の反応があった」とデッチ上げ認定されたビニールシートとカーテン地が含まれています。この32点の指紋検出は8月9日です(月曜日)。ですから8月8日には、誰であっても32点の鑑定はできません。それらは8月9日以降に、道警の犯罪科学研究所の実質的なトップである本実氏たち(但し山平氏は一切タッチしていません)が鑑定したのでした。

  捜査本部は、混合火薬が最も付着していそうだと見た、軍手と網かご3個、それと木炭末(0.05グラム)の5点のみは、鑑定を優先させたのでした。これらは指紋も検出しずらいものでもあるからです。この5点は、8月8日(日曜日)に本実氏によって鑑定されたものでした。山平氏は8月8日は、偶然にも日直のために出てきていただけでしたが、急きょ、上司の本氏に命ぜられて、非枢要部分の手伝いをすることになったのだといえます。

  だから山平氏は本氏から、この鑑定の資料は本当は37点だが、うち32点は指紋検出を先行させる方針のため、今日はこの5点しか届いていない、ということを知らされたことになります。

  ビニールシートとカーテン地から、もし本当に除草剤付着の反応が検出されたのであれば、その鑑定を実施した本実氏らが鑑定書を作成しますし、法廷でも証言することになります。しかしそうではありません。つまり検出されなかったのでした。それで幹部は、本氏に鑑定書の偽造を持ちかけたのですが、本氏は拒んだのでした。鑑定をした他の吏員も本氏にならいました。そういうわけで、山平氏に白羽の矢が立てられたのでした。

  山平氏も率直に従うことはしませんでした。山平氏は「8月8日に全ての資料37点は届いて、ビニールシートとカーテン地の鑑定をした」と証言したのですが、これは「山平鑑定は偽造であり、不存在ですよ」と間接的に主張したものであったのです。だけど私たちは当時は気付くことができませんでした。

  山平氏はさらに、「37点の資料は番号のついた袋に入れられることもなく、はだかのままの状態で、ダンボール箱に一括して入れられた状態で持ち込まれたのです」と、化学鑑定のイロハに反する態様を証言して、信用性を否定しようとしたのでした。また「木炭末(0.05グラム)は当初は資料には無かった。私が大きな黒色ビニール袋の中に有るのを発見したのです」と、木炭末がちゃんと記載されている8月7日付領置調書に反する証言もして、鑑定の不存在を間接的に訴えていたのでした。微量の木炭末ですから、すぐ分かるように、かつ紛失しないように、白い薬包紙に包んで番号を付けた袋に入れられて持ち込まれるものです。

  なによりも山平氏は、「8月8日には鑑定嘱託書は届きませんでした。口頭で鑑定事項を知らされました。それは塩素酸塩類の付着の有無だけであり、その種類は求められませんでした」と、本件の鑑定目的を達成することができないナンセンスな鑑定事項内容を証言することで、鑑定の信用性を否定し、不存在を明らかにしようとしていたのでした。正式な鑑定事項は「塩素酸塩類の付着の有無とその種類。またその他の火薬の付着の有無」であり、塩素酸ナトリウムか塩素酸カリウムかを明らかにすることを求めていました。「鑑定嘱託書」に明記されています。

  私たちは再審請求審の手続きで、新証拠を提出しつつ、これらを明白に主張したのですが、棄却されてしまいました。


2010年1月7日記
大森勝久

《編者のお節介コーナー》

 ・大森勝久さんは1976年8月10日に、いわれのない爆取3条違反容疑で逮捕されることとなるのですが、爆弾捜査本部は この逮捕状を取るために、高山総合捜査報告書を偽造しました。すなわち軍手、網かご、ビニールシート、カーテン地から除草剤付着の反応があったと嘘を記載したのでした。

 ・第1回コラム(山平鑑定を検証する証拠調べを求める意見書提出)をまだお読みでない方は、是非ご一読ください。
 ・また、本ホームページに掲載しました次の書類も併せてお読みいただければ、なお一層ご理解いただけるものと思います。

再審請求「意見書」(2006年10月30日)

 検察官意見書への批判(2007年1月18日)
第4回 1審2審証言とことごとく異なる山平氏の新証言(2010年1月24日記)
 札幌地裁における再審請求審において、私たちが請求した山平真氏の証人調べが認められて、2004年9月に実施されました。

 山平氏はここで、1審2審(以降、確定審と記します)当時に証言したことと、ことごとく異なる証言を行うことによって、「山平鑑定」は全く信用性がないものであり、存在しなかった鑑定であり、すなわち偽造であるということを、間接的な形で明らかにしようとしたのでした。新証言を以下に具体的に書きます。

 (1)鑑定期間。確定審では、自分が8月8日から8月20日までの毎日鑑定したと証言していました。新証言では、自分がやったのは8月8日の1日のみで、9日以降は一切関わっていないと証言したのです。山平氏は真実を証言したのでした。検察官はさぞかし驚いたことでしょう。山平氏は証言前に2回検察庁に呼ばれていろいろ聞かれていたのです。その時には、検察官に合わせた説明をしていたのでしょう。

 (2)ビニールシートの一部を切り取った人物と時刻。確定審では、自分が鑑定嘱託者(警備課長)の許可をとって、8日に25p×50pの大きさの部分を切りとった。付着物は少なかったが、それでもその部分が一番多かったので、切り取り、直接水に浸すなどして抽出したと具体的に証言していました。ところが新証言では、私は全く切り取っていない。翌日の9日に本実氏たちが切り取っているのを私は見ている、と証言したのです。この新証言も真実を証言したものです。

 (2)と(1)の新証言によって、ビニールシート(とカーテン地)は8日には来なかったこと。9日になって初めて来て、鑑定されたこと。それを行ったのは本実氏たちであることが判ります。なぜならば、ビニールシートのその部分を切り取る作業は、資料が届いた当日に直ちに行う作業であるからです。すなわち、「山平真によって8日にビニールシートとカーテン地の2点から除草剤の付着反応が検出されたことによって、被告人が除草剤を所持していたことは明らかだ」と認定された山平鑑定は、不存在(偽造)であり、確定判決の事実認定が誤りであることが、明白になったのです。

 (3)付着物採取の所要時間と出来上がった水溶液量(ろ液量)。確定審では、付着物の量が少なかったので、ビニールシートもカーテン地も、表も裏も全面を脱脂綿で拭き取っていったので、双方とも1時間も2時間もかかったと証言していました。付着物を抽出した水溶液(ろ液)量は、全面をぬぐい取ったため、両者とも大体ビーカー一杯の200ml位になったと証言していました。
 しかし新証言では、汚れている部分だけを拭き取っただけなので、両者とも10分位で水溶液を得ることができたと証言したのです。水溶液量も、(確定審の10分の1の)20ml位だったと証言したのです。

 (4)濃縮後の水溶液の量。各種の溶液内検査をするためには、水溶液を濃縮しなくてはなりません。それは、物質の検出限界濃度以上に濃縮した上で検出しなければ、存在の有無を判定できないからです。
 確定審では、200mlのものを20分の1の10mlに濃縮して、検査をしたと証言していました。しかし新証言では、20mlのものを3分の1の7mlに濃縮して、検査をしたと証言したのでした。

 (3)(4)ですが、山平氏はビニールシートとカーテン地の鑑定を行っていませんから、確定審の証言も新証言も虚偽のものです。山平氏は、確定審においてどういう証言をしたかはちゃんと分かっています。証言前に警察にも呼ばれてますし、検察にも呼ばれているからです。鑑定書の写しも証言調書の写しもそこにあるからです。しかし、山平氏は敢えて大きく異なる新証言をすることによって、間接的に、「山平鑑定」は信用性がなく、偽造であることを示そうとしたのでした。

 しかも、付着物は微量ですから、表も裏も全面くまなく拭き取らなくては、鑑定ができる必要量を得ることができませんから、(3)の新証言は、「私は山平鑑定を行っていません」と言っているのと同義なのです。また20mlを7mlに濃縮しても、反応結果の有無が得られる濃度まで濃縮されませんから、(4)の新証言も「私はやっていません」と証言したのと同じです。

 山平氏はその他にも、確定審の証言(旧証言)と大きく異なる多くの新証言をしたのでした。ところが札幌地裁は、「時間の経過に伴う記憶の変容、混乱があることはむしろ当然のことである。したがって、上記のような供述の変遷から、山平旧証言の信用性が動揺し、ひいては山平鑑定の存在に疑いが生じるともいえない」と断じて、私たちの再審請求を棄却したのでした。これが、刑事訴訟法が命じる公正な証拠評価ではなく、法に違反する「ためにする」恣意的な評価であることは、明白です。


2010年1月24日記
大森勝久


《編者のお節介コーナー》

 山平鑑定の新証言については、 再審請求「意見書」(2006年10月30日) の第1(山平鑑定の不存在ー新証拠で証明)の中の5と6に詳しく記載されていますので、まだお読みでない方はこちらも併せてご覧ください。 
第5回 捏造された8月8日付「中間報告の電話通信用紙」(2010年2月24日記)
 一審において、札幌地裁は「山平鑑定書」を強引に解釈することによって、私は除草剤を所持していたと認定したのでした。しかし山平鑑定書には、「鑑定経過」欄には、カリウムの炎色反応検査について何も書かれていません。「鑑定結果」欄には、「塩素酸イオンが検出された」と記されているだけです。この鑑定書から言いうることは、「ビニールシートとカーテン地には塩素酸類が付着していた」ということだけです。塩素酸ナトリウム(除草剤)か塩素酸カリウム(マッチの頭薬)か、ということは何も言えません。本実氏の鑑定によって、軍手からは塩素酸カリウムが検出されています。

  私たちは二審の控訴趣意書で、「山平鑑定書に証明力は全くないこと」と、「鑑定書自体がでっち上げであること」を主張しました。検察の方でも、証明力の不十分さについては、十分自覚されていたことです。それで検察から警察に、「証明力を向上させる証拠は他に何かないか?」という話があったのだと思われますが、道警の幹部は山平氏に、「中間報告をした電話通信紙」を捏造することを命じたのです。こうして二審になってから、「中間報告の電話通信用紙」が捏造され、証拠請求されて、取り調べられたのでした。

  たしかに、8月8日午後2時30分の電話通信用紙のビニールシートとカーテン地の欄には、「ナトリウムイオンが陽性、カリウムイオンは陰性、そして塩素酸イオンは陽性」と書かれていて、塩素酸ナトリウムの付着反応があったことになります。しかし山平氏は、次のように工夫することで、この電話通信用紙の信用性は全くないこと、つまり捏造であり、従って山平鑑定自体が存在しないものであることを、間接的に主張したのでした。

  (1) 電話通信用紙の一番上には「ポリバケツ」が記載されているのです。ポリバケツは鑑定資料には含まれていません。8月19日まで私が住んでいたアパートに置かれていたものです。山平氏はこのように書くことで、これは捏造証拠であることを訴えようとしたのでした。

  (2) 山平氏は一審の時、軍手は本実氏が担当し、その他のものを自分が担当した、と証言していました。8日の中間報告についても、自分が担当したビニールシートとカーテン地の2点について行ったと証言してました。本実氏も一審の時に、8月8日軍手の検査をして、中間報告もしたと証言していました。
  山平氏は電話通信用紙に、敢えて軍手も入れたのです。そして二審の証言では、「8月8日は本実氏は休みであった。軍手も自分が検査をしました」と証言することで、電話通信用紙の信用性はゼロであることを訴えたのでした。本実氏は8日は出勤しています。本氏が8日に実施した別の鑑定書もちゃんと存在しているからです。

  (3) 二審に入って、高山警部が証人として出廷して、「8月8日に中島分室において、山平氏から中間報告の電話を受けました」と証言しています。電話通信用紙には、「発信者 山平真。受信者 高山」と書かれています。ところが山平氏は、「中島分室ではなく、自分と同じ道警本部庁舎の警備の人に電話で中間報告をしました。名前はわかりません」と証言して、高山証言と電話通信用紙の両方の信用性を否定したのでした。再審請求審においては、山平氏は、電話で伝えただけでなく、書き写して、直接自分が3階の警備課の人に届けたと証言して、絶対に中島分室(道警本部庁舎から車で15分程の場所にあります)などには報告してないことを強調したのでした。

  (4) 山平氏は一審の時には、全体で12日間鑑定したが、8月8日はビニールシートとカーテン地の2点のみを検査して、中間報告をした、と証言していたのです。しかし山平氏は、電話通信用紙には20点もの資料を書き込んだのです。これによって、信用性を否定しようとしたのでした。

  (5) 計量カップ大4個、同小3個は、計7個を一括して検査すればよいものです。またヘラ2個、スプーン4個も、6個を一括して検査すればよいものです。急ぐ鑑定ですから当然のことです。ところが山平氏は二審において、それらを全て独立した資料として扱い、1つ1つ別々に水溶液を作って、各種の検査をしていった、と証言したのです。このような虚偽の証言を敢えて行ったのは、時間的に不可能であることを弁護側が追及して、電話通信用紙の信用性、そして鑑定書自体の信用性が崩れることを期待したからです。

  (6) 山平氏は二審において、この電話通信用紙は鑑定書と一緒につづっておくものだ、と証言しました。そうであれば、一審の時に鑑定書と共にこの電話通信用紙も必ず証拠請求されます。実際は、されなかったわけですから、一審の時には存在していなかったものであることが明らかになります。山平氏はそのことを暗に訴えたわけです。

 しかしながら、二審当時の私たちは、このように冷静に分析することができませんでした。もしできていれば、二審判決は違った内容になったことでしょう。

2010年2月24日記
大森勝久

 《編者のお節介コーナー》

・北海道警は、1976年8月10日の「爆取3条違反容疑」での不当逮捕につづいて、9月1日に本件の「道庁爆破事件容疑(殺人及び爆取1条)」で大森さんを再び不当逮捕していきました。道庁事件の逮捕状請求のための核心的な資料となったものが、この山平鑑定だったのです。しかし、山平鑑定は存在しなかった鑑定なのです。捏造されたものでした。

・本文中に「マッチの頭薬」とありますが、大森さんがマッチの頭を削っていたことは、本人が後に裁判の中で明らかにしました。

・もっと詳しくお知りになりたい方は次の項目をご覧ください。

再審請求「意見書」(2006年10月30日) の第2の3

山平鑑定書、原通信用紙の再評価 
第6回 捏造された「高山電話通信用紙」と虚偽の「高山総合捜査報告書」(2010年3月17日記)
 (1)警察は控訴審(2審)に入ってから、中間報告をしたという「山平電話通信用紙」を捏造しました(第5回コラム参照)。この時に、山平氏からの中間報告を受けたとする、高山警部名義の「電話通信用紙」も捏造されました。後者を「高山電話通信用紙」と表わすことにします。前者は8月8日午後2時30分発信であり、後者は8月8日午後3時受信です。30分間にわたって検査報告がなされたというわけです。

  両電話通信用紙とも、検査結果を記した用紙2枚が、「別紙」として添付された形態になっています。資料の各検査結果を記した欄は、改行箇所も完全に一致していますから、電話報告を受けて作成したものでないことは、これだけでも明らかです。山平電話通信用紙の「別紙」を見て、写していったわけです。

  高山電話通信用紙は、再審請求審になってから、弁護側の証拠開示要求によって、証拠開示されたものです。私たちはこれを、「山平鑑定の不存在」を証明する新証拠として、証拠調べを請求し、取り調べられたのでした。

  高山電話通信用紙の内容ですが、敷物(ビニールシートのこと)と布(カーテン地のこと)の欄には、除草剤(塩素酸ナトリウム)の反応が検出されたことが、各イオン記号と陽性(+)、陰性(−)の記号で記されています。軍手の欄には、塩素酸カリウムの反応が検出されたことが、同様の方法で記されています。網かごの欄には、塩素酸イオンは検出されなかったことが、同様に記されています。もちろん、山平電話通信用紙の内容も同じです。

  (2)さて、高山警部は、8月8日の夜から9日の昼までかけて、「総合捜査報告書」を作成しています。これは、爆取3条違反容疑で逮捕状を請求する疎明資料にされたものです。もし本当に高山電話通信用紙が存在していれば、上記の内容が忠実に総合捜査報告書にも反映されることになります。警察にとって、何ひとつ不都合のない内容だからです。しかしながら、両者の内容は完全に不一致なのです。

  総合捜査報告書は、「網かご、軍手、敷物、カーテン地からは塩素酸イオンを検出」と述べています。しかし、網かごからは塩素酸イオンは検出されていませんから、完全に不一致です。

  さらに総合捜査報告書は、「除草剤については現物の存在は発見できなかったにしろ、除草剤の配合、使用等に直接用いられたとみられる軍手(鑑定結果 塩素酸塩類イオン検出)が存在していることは、所持していたことを裏付ける決定的な事実であると認められる」と述べているのです。不一致もはなはだしいのです。

  本当に高山電話通信用紙が、この報告書を書くときに存在していれば、「軍手」ではなく、その部分は「敷物」と「布」になります。そして「塩素酸塩類イオン検出」ではなく、「塩素酸ナトリウムのイオン反応を検出」と必ずなります。軍手に付着していたのは、塩素酸カリウムであって、除草剤ではないのですから。

  以上によって、高山電話通信用紙は8月8日、9日当時、存在していなかったことが証明されます。このことは同時に、「発信者  山平真。受信者 高山」と記載されている山平電話通信用紙も、存在していなかったことを意味します。また、もしこれらが有れば、爆取3条違反容疑での逮捕状請求の疎明資料になるものですが、なっていません。存在しなかったからです。両方とも、2審になってから捏造されたのでした。

  (3)8月8日、本実氏が指紋検出に回されなかった軍手、網かご3個、木端末の5点の検査をし、中間報告をしました。翌9日本実氏たちは(但し山平氏は入っていません)、指紋の検出が終わった敷物(ビニールシート)やカーテン地(布)など残り32点の検査を実施しました。中間報告もしました。しかし、除草剤付着の反応があったと報告があった資料は、ひとつもありませんでした。

  警察は、私がアパートを引き払い北海道を出ようとしていることを、8月8日の夕方には把握していました。それゆえ北海道警は、爆取3条違反容疑で私の身柄を確保するために、本実氏の中間報告を無視して、虚偽の「高山総合捜査報告書」を作り上げたわけです。しかしこの「総合捜査報告書」の記載内容が、逆に、「山平鑑定の不存在」(捏造)を証明しているのでもあるわけです。私は8月10日に爆取3条違反容疑で、離道のためフェリー乗船待ちしていた苫小牧港で逮捕されました。逮捕状の発布は8月10日の正午でした。

・追記 トップページの「本ホームページについて」を、今回かなり書き改めました。

2010年3月17日記
大森勝久

 《編者のお節介コーナー》

・もっと詳しくお知りになりたい方は次の項目をご覧ください。

再審請求「意見書」(2006年10月30日)の第1の7

高山捜査報告書と新通信用紙の矛盾から山平鑑定の不存在が証明

(註) 「新通信用紙」とは今回コラムの「高山電話通信用紙」のことです。

・爆取3条とは、明治17年に太政官より布告された「爆発物取締罰則」の第3条(爆発物の製造等)のことで、当時盛んだった自由民権運動を取り締まるために制定されたという時代背景もあり、議会で承認された正式な法律ではありません。その3条にはこう記されています、「爆発物若しくはその使用に供すべき器具を製造輸入所持し又は注文をなしたる者は3年以上10年以下の懲役又は禁錮に処す」。
第7回 私はかつての違法な逮捕・起訴・確定裁判を恨んではいません(2010年4月19日記)
 (1)前回までのコラムで、混合火薬の主剤である除草剤に関する、いくつもの証拠の捏造を明らかにしてきました。捏造証拠には他にも、目撃証言やモンタージュ写真あるいは「発見リン止めネジ」(本件爆発物の時限装置に使われた旅行用時計のリン止めネジ1本が、私の布団袋の中から発見されたというもの)等々、実に多くあります。今後、コラム欄でも書いていきたいと思います。多分、日本の刑事裁判史上、これほど多くの証拠が捏造された事件はないでしょう。
  私の逮捕と起訴そして有罪判決は、これらの捏造証拠なしには不可能でした。このことは明白です。

  (2)先日、足利事件の菅家氏が、再審で無罪確定しました。しかし私の場合は、実際に、反日武装闘争をめざしていたのです。私は爆弾闘争をめざし、材料を集め、木炭は微粉末化の作業に一部取りかかっていました。爆弾の容器として消火器も手に入れていました。事前に捨てたので押収はされませんでしたが、時限装置も作っていました。主剤になる除草剤(塩素酸ナトリウム)こそ、未だ入手できていませんでしたが、混合火薬の代用にしようと考えて、マッチの頭薬(塩素酸カリウム)を削って集めることも一部やっていました。攻撃対象の候補をいくつかピックアップして、調査することもしていました。

  もし1976年7月2日、岐阜県可児町(当時)において、友人のD氏が警察の職務質問を受けて、持っていた除草剤などの爆弾材料を捨てて逃走する事件が起こらず、それによって北海道警が私の存在を岐阜県警から知らされることがなかったならば、私は遅かれ早かれ、準備を終えて爆弾闘争を実行していきました。

  私は8月10日、逃走するために、苫小牧港でフェリー待ちしているところを逮捕されました。もし北海道警が「高山総合捜査報告書」で、除草剤の付着反応があったと虚偽記載して、爆取3条違反容疑で逮捕状を取らなかったならば、私は警察の尾行を振り切って地下へ潜り、偽名でアパートを借り、爆弾闘争の準備を再開させて、いずれ実行していったことでしょう。

  (3)北海道警は、私が投棄した物や、D氏が可児町事件で投棄した物を分析して、「大森は北海道庁爆破事件の犯人に違いない!」と思ったことでしょう。また、「もし仮に犯人ではないにしても、反日爆弾テロをやろうとしている人物であることは、証拠上明らかだ」と考えたはずです。

  しかし、逮捕するための証拠がありませんでした。北海道警察は「このような危険人物をみすみす逃してしまうことは許されることではない」と考えて、数々の証拠を捏造していくことになったのだと思います。

  (4)これをどう考えるかです。確かに、刑事訴訟法に違反する逮捕と起訴と確定裁判(一審、二審、三審)でした。しかしそれがあったからこそ、私の近い将来の爆弾テロの被害から日本社会を守ることができました。私自身も、人を殺傷する罪を犯すこと、それを積み重ねていくことを阻止してもらったことになります。左翼時代の私は、これらを激しく糾弾していましたが、保守主義に転向してからの私は、この逮捕・起訴と確定裁判を恨む気持ちはまったく無くなっています。日本社会にとっても、私にとっても、良いことでした。

  私が左翼思想の誤りに気付くことができて、転生していけたのも、獄中で一人で考えつづけることができたためでした。刑の確定は1994年の9月ですが、私の左翼からの転向は97年から98年頃でした。

  (5)左翼時代の私は、日本の法体系を否定し、日本国自体も否定しながら、一方では、でっち上げ粉砕を主張して、裁判闘争を行っていました。典型的なダブルスタンダードでした。日本の法体系を否定・破壊する立場に立つ私に、「法を守って、公正な裁判をしろ!」と要求する資格はまったくありませんでした。

  (6)現在の私は、2002年から再審請求を求めて裁判を行っています。もちろん、日本の法体系を守る立場で行っています。

  私の最大の関心事は、かつて誤った運動をしてきてしまったことの反省に立って、ロシア・中国・北朝鮮という全体主義侵略国や、国内の左翼や反米民族派の攻撃から、この自由な日本国家社会を守っていく、保守主義の言論活動を行っていくことです。別のホームページ(大森勝久評論集)で行っています。そのためには、刑の執行を阻止しなくてはなりません。私自身としての再審請求裁判やこのホームページの位置付けは、主としては、そのようなものとしてあります。


2010年4月19日
大森勝久


追記  再びトップページの「本ホームページについて」の最後に少々加筆をいたしました。
第8回 北海道警は犯人とされた2人連れが、無関係であることを知っている!(2010年5月11日記)
 (1)私の確定裁判では、目撃証人藤井氏(会社役員)が目撃したA男とB男の2人連れが、実行者だと認定されています。目撃に関する事実認定の骨子は次のようです。「目撃証人藤井は、道庁構内を並んで歩いているA男B男を目撃した。A男はバッグを持ち、B男は紙袋を持っていた。2人はそのまま道庁の玄関に入っていったが、証人藤井は数分後、2人が手ぶらで道庁玄関から出てくるのを目撃している。そして歩道に出る門のところで2人とすれちがっている。証人藤井は、被告人はA男に非常によく似ていると証言している。藤井証言のみから、A男が被告人だと結論づけることはできないが、非常によく似ている等々の証言の根幹部分は、相当に高く信用できる」。

  確定裁判所は,道庁職員による爆発地点に置かれたバッグの目撃状況(その有無と形状等と時間)に関する証言を、正反対にねじ曲げて証拠評価することによって、藤井証人が目撃したA男B男が犯人だと認定しています。

  (2)つい先頃、警察庁長官(国松氏)暗殺未遂事件が15年の時効を迎えたことは、報道機関によって大きく報道されましたので、記憶に新しいことだと思います。警察庁の幹部も記者会見していました。

  私の事件も死者2名、重軽傷者95名を出した大きな事件です。一般の刑事事件でも、死者が出た事件では、「時効が1週間後に迫っている」とか、「本日時効となった」というニュースが流れます。警察が情報を報道機関に提供しているからです。ところが本事件では、そのような報道は一切ありませんでした。1976年3月2日に発生した北海道庁爆破事件の15年の時効は、進行の停止期間(1976年9月23日の起訴から、1994年9月6日の判決確定の間)がありましたので、その分だけ延びましたが、2009年2月11日に時効完成となりました。

  でも一切の報道はありませんでした。道警の幹部が「犯人のもう1人を逮捕できずに、時効になってしまったことは、誠に遺憾です」と記者会見することもありませんでした。

  (3)道警がもし本当に、A男B男が犯人だと信じていれば、上記のことは絶対にありえません。すなわち道警は、A男B男が犯人でないことを知っているということなのです。

  道警は、道庁の爆発地点(エレベーターの横)にいつ頃バッグ(バッグの中に消火器爆弾が入っていた)が設置されたのかを捜査しています。A男B男が道庁から出ていった後の爆発地点には、まったく別の物体が置かれていたという道庁職員I氏の証言があります。さらにその後に、そこを数回通ったが、何も置かれていなかったという別のO氏の証言もあります。こういう捜査によって、道警は藤井氏が見た2人連れは、犯人ではありえないことを認識していたのです。

  あるいは道警は、藤井氏が見たA男B男に該当する人物を、道庁職員等や、道庁に出入りする業者を捜査する中で、見つけ出して、無関係であることをつきとめていたのです。道警は、1976年7月2日の可児町事件をきっかけとして、岐阜県警から私の存在を知らされて(第7回コラム参照)、7月20日頃から私の内偵を行いました。私の写真を入手しても(その直後に入手)、道警は私の写真を藤井氏に見せることもしなかったのです。A男B男を既につきとめていたことの証左です。

  (4)道警の行動によって、A男B男が犯人でないことが証明されます。藤井氏の目撃証言が、まったくの虚偽であることも証明されます。これによって、確定裁判の「証拠構造」が根底から崩壊します。

  私が「爆弾を製造していた」という間接事実が認定されても(製造と言いましても、一部を手掛けていたのと、完成させたでは、まったく意味がちがってきますが)、その爆弾は、本件の道庁に仕掛けられた爆弾だと認定できなければ、有罪判決は出せません。確定裁判は、製造関係の情況証拠と藤井証人の目撃証言等を「総合評価」することで、「被告人は本件の爆弾を製造した」との間接事実を認定していました。

  しかし、道警の行動によって、上記のことができなくなります。証拠構造は解体するのです。もちろん公訴事実である、私が「本件爆弾を道庁に設置して爆発させた」ことは、認定不可能です。さらに、これまでのコラムでも書きましたように、私は火薬の主剤の除草剤を未だ入手していなかったのです。爆弾そのものを製造できません。

  (5)最高裁判所は、原決定(札幌高裁の棄却決定)と札幌地裁の決定(棄却決定)を破棄して、札幌地裁に差し戻す決定をしなくてはなりません。

2010年5月11日記
大森勝久
第9回 学生時代ののことをよく思い出しています(2010年6月16日記)
 今回は裁判以外のことを書きます。

 今年の3月末、2人の友人が1泊2日の日程で岐阜市へ行って、100枚近い写真を撮ってきてくれました。私の第2のふるさとである大学時代を過ごした岐阜市に、友人にも行ってもらい、40年ほど前に私が行った懐かしい場所に立ってもらい、そうすることによって、一部分であっても、ふるさとを友人とも共有したい、と思ったのです。友人はこれに応えてくれたわけです。

 私は大学時代を思い起こすことがよくあります。もちろん、学生運動関連のことではありません。誤った運動に深入りしていくようになってしまった4年生以降の私は、みんなから浮き上がってしまった存在になっていました。でもそれ以前であれば、時期にもよりますが、まずまず好かれていたと思います。私が思いだすのは、その時期のことです。岐阜市は私の大切な第2のふるさとです。

 やはり望峰寮の同級生や先輩、教養課程の同じクラスの者、そして数学科のメンバーが懐かしく思い出されます。

 元寮生で水泳部で一緒だった体育科のI君。彼とは女子高の宿直のバイトを一緒にやったり、長良川の水泳教室のバイトを一緒にしました。寮で同室だった史学科のA君。寮を出た後のアパートも近かったから、よく彼のアパートへ遊びに押しかけたものです。彼の実家へも行きました。元寮生で同じ数学科のA君は、アパートも同じでした。時々私の部屋でビールを飲んだこともありました。3つ年上だったから、もう定年退職したのでしょう。

 寮の先輩でアパートでは隣だった英文科のSさん。いつもビートルズを聴いていた人でした。詩も得意で、読み聞かされたことも何度かありました。元寮生で同じ数学科のI君。どんな先生になったのでしょうか。彼とは卒業後、偶然、岐阜市内の屋台で顔を合わせたことがありました。元寮生でやはり同じ数学科のS君。彼の関西の実家へ遊びに行ったことがありましたね。大阪万博の時でした。刺身をいっぱいごちそうになりました。

 元寮生で化学科のN君。彼ともよく一緒に飲んだりしました。元寮生同士はよく4,5人集まって、長良北町のホルモン屋で飲んだものでした。その1人がN君でした。彼の実家へ何人かで遊びに行ったこともありました。元寮生で、いつもギターを奏いていた哲学科のW君。彼に少しコードを教わったので、私は卒業後、それを思い出して、知人にもらったギターを鳴らしたことがありました。こうしてみると、やはり一番親しくしていた人達は、元寮生ということになります。私は2年の夏まで寮生活をしました。

 数学科の女性陣では、数学科のコンパの時にKさんとは、I君と私の3人で楽しく話をしたことを覚えています。彼女は1つ年上であることを、その時知りました。それで落ち着きがあったのですね。TKさんは、岐大の受験日の時から目を引いた人でした。黄色い服が似合っていました。2年の終わり頃に一度少しだけお話しさせてもらったことがありました。Oさんはしっかりした人でしたね。テニス部に所属していました。卒業後、美濃加茂市で偶然すれ違ったことがありました。

 3年になってからおつき合いをした、別の学校のNさん。彼女と会った公園や喫茶店や食堂なども、今回友人に訪ねてもらいました。喫茶店や食堂は、元寮生や数学科の友達ともよく行ったところです。「三愛」という喫茶店は、ブティックに変わっていましたが、2階の窓枠は昔のままでした。Nさんは今も岐阜市に住んでいるのでしょうか。

 皆さんが、幸せな生活を送ってくれていたらいいなーと思います。高校3年の時に一方的に思いを寄せていた方も、幸せでいて欲しいと思います。

2010年6月16日記
大森勝久

(2011年3月31日、一部削除しました)
第10回 岐阜や多治見の夏を思い出します(2010年7月12日記)
 私が一番好きな夏がやってきました。毎年のことですが、屋上の運動に出た時に「あっ、夏だ!」と思う境目の日があるものです。光の色や空の青さ、体が感じる暑さ、また空気の匂い、そういうものが、体と心が覚えている夏の感覚を、一瞬で呼び起こしてくれるようです。その時、同時に懐かしい遠い日の情景やその時の感情も甦ってきます。いろいろな情景が浮び上がってきます。岐阜と多治見です。

 夏といえば花火大会ですね。札幌では7月中旬から月末にかけて、週末ごとに計3回、豊平川で行われます。ここには音が聞こえてくるだけですが、私は毎年それを聞きながら、岐阜市の長良川の花火大会の情景を思い起こして楽しんでいます。もうすぐです。(追記。今年の札幌の花火は不況のために1回だけでした)

 当時の長良川の花火大会は、7月末頃と8月初旬の2回行われていました。大学1年の夏は、大学は休みに入っていたので帰省した人もかなりいましたが、寮に残っていた1年生と先輩たち合わせて20,30人で見物に出掛けました。北側の堤防上の道路は、容易に前へ進めない程の人ごみでしたが、私たちは大学の女子寮の人たちに会わないものかと、1Km以上も先の金華橋まで歩いたものでした。

 引き返してきた途中で、やはり同じようなことを考えていたでしょう、女子寮の20人程の集団とすれ違ったのですが、誰も挨拶のひとつも出来ない情けなさでした。当時の大学生はそんなものでしたね。私たちは諦めて、堤防の斜面に座って花火を見物したのでした。蚊が多くて困ったことを覚えています。

 2年の夏は、私は既に寮を出てアパート暮らしをしていましたが、私たちは仲の良い元寮生や寮生5,6人で、勇ましく出掛けて行きました。素敵な出会いがないものかと、堤防上の道を往復しながら、歩きながら花火も見たのでした。何も期待したような良い事は起きるはずもありませんでしたが、みんな満足気でした。3年の夏は、彼女のNさんが出来ていたので、私はもう男の友人を誘うこともなく、彼女と2人だけで、金華橋より下流の南側の河原の砂地になった所に座って、花火を楽しんだのでした。邪魔をする蚊はいませんでした。

 毎年、夏だと感じる最初の日に甦ってくる情景のひとつが、この豊かな清流を湛える広い昼間の長良川と、その南側の濃い緑の木々に覆われた金華山と、麓にある長良橋です。何度も眺めた景色です。もうひとつは、多治見の母校の高校のすぐ後ろにある虎渓山の登り道です。私はよく一人で虎渓山の山頂まで登りました。15分もあれば十分の距離です。高3の夏、一方的に思いを寄せていた別のクラスの人が、数人の女子達と共に虎渓山へ登っていたことがあったのです。昼休みだったと思います。私は勇気を出して、ドキドキしながら随分後ろから登っていたのですが、その時の濃い夏の葉の色になった両側の低木群と、白い雲が浮んだ青い夏空の登り道が、懐かしい甘い感情とともに甦ってくるのです。

 人間には自然も不可欠だと思いますが、札幌拘置支所は2001年2月に新庁舎になったときに、外の景色が全く見えない施設に変えられてしまいました。屋上で運動をするのですが、2.2m×6.5m程の長方形の運動場は、周囲は4.5m位のコンクリートの壁ですので、鉄格子がはまった空が見えるだけです。それでも空を見るのはとても嬉しいものです。そして昨年から私は、5月〜9月の5ヶ月間に限り、月に1回、緑が一杯の開放空間である中庭で運動をすることができるようになりました。幸せな気分で一杯になります。

 人間は、人と交わり自然にも触れて生きていく生きものですが、私の記憶の中には、岐阜や多治見の貴重な思い出が沢山ありますから、また写真も一杯ありますから、それで現在の不足分を補っていくことができます。人間は過去の歴史を持って現在を生きているのだ、ということがよくわかる気がします。


2010年7月12日記
大森勝久

(2011年3月31日、一部削除しました)


戻る



北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)