北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


再審請求「意見書」(2006年10月30日)

再審請求「意見書」(2006年10月30日)
再審請求「意見書」の目次

平成14年(た)第2号 再審請求事件

請 求 人                              

                      札幌市東区東苗穂2条1−1−1

                      札幌拘置所支所在監

                   大森 勝久

                                  平成18年10月30日


  
 札幌地方裁判所刑事第1部  御中


  
目 次

 (「目次」の頁数は裁判所宛文書のものであって、本文書の頁数ではありません。 大森)

 第1、 山平鑑定の不存在−新証拠で証明    ・・・・・・・・・   5 頁

  1、 はじめに               ・・・・・・・・・   5 頁
      
  2、 竹之内鑑定で山平鑑定の不存在が証明  ・・・・・・・・・   5 頁

  3、 指紋検出照合依頼書・指紋検出及び石原証言で山平鑑定の不存在が証明 
                                     ・・・・・・・・・   8 頁

  4、 写真撮影報告書で山平鑑定の不存在が証明  ・・・・・・・  10 頁

  5、 山平新証言(ビニールシートを切り取っていない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的に主張したもの ・・・・・・・12 頁

  6、 山平新証言(8月9日以降は関与していない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的に主張したもの ・・・・・・・・・ 14 頁 

 7、 高山捜査報告書と新通信用紙の矛盾から山平鑑定の不存在が証明・・・・・・・  15頁

  (1) 高山捜査報告書(弁19)の内容         ・・・・・・・・ 15 頁 

  (2) 新通信用紙と高山捜査報告書との絶対的矛盾 ・・・・・・・ 16 頁

  (3) 8月8日から9日の時点で新通信用紙は存在していなかった・・・・・・・・・・  16 頁

  (4) 原通信用紙も8月8日、9日時点で存在していなかった・・・・・・・・・  17 頁

  (5) 8月8日の山平鑑定も存在しなかった  ・・・・・・・・・  18 頁

  (6) 高山捜査報告書の記載は虚偽である    ・・・・・・・・・・・・  18 頁


 8、 山平新証言(高山一覧表が自分書いたもの)は、山平鑑定の不存在を示唆したもの ・・・・・・・・  20 頁


  9、 山平新証言(新鑑定方法)は山平鑑定の不存在を間接的に主張したもの・・・・・ 21頁


 第2、 山平確定審証言、山平鑑定書、原通信用紙の再評価   ・・・22 頁

  1、 はじめに                      ・・・22 頁

  2、 山平鑑定書の記載内容−鑑定不存在を示唆、証明力を否定 ・・・23 頁 

  (1) 8月8日から鑑定実施と記載した          ・・・23 頁

  (2) 鑑定の証明力を否定した               ・・・24 頁

  3、 原通信用紙の記載内容−信用性を否定し山平鑑定の不存在を示唆した・・・・ 25 頁

  (1) ポリバケツを記載した              ・・・ 26 頁 

  (2) 軍手を記載した                 ・・・ 27 頁  

  (3) 20点もの資料を記載した            ・・・ 27 頁  

  (4) Cl、ClO3、Na、Kをバラバラに記載した     ・・・ 29 頁 

  (5) あり得ない検査結果を記載した           ・・・ 29 頁

  (6) 日時欄、受信取扱者欄を空白のまま決裁に出した   ・・・30 頁

  (7) まとめ                      ・・・31 頁


  4、 鑑定の不存在を示唆する山平証言について  ・・・・・・・・32 頁

  (1) 鑑定依頼について                ・・・ 33 頁             

  (2) 鑑定資料の状態について             ・・・ 33 頁

  (3) 中間報告について                ・・・ 35 頁

  (4) 原通信用紙について               ・・・ 35 頁

  (5) まとめ                     ・・・ 37 頁

  (6) 鑑定してないことを自己暴露してしまった証言   ・・・ 38 頁
 
  5、 検察官が8回公判で山平氏の反対尋問をしなかった理由 ・・・・・・・・41 頁

  6、 まとめ                   ・・・・・・・・43 頁

  
 第3、 再審請求審に臨む山平氏の姿勢       ・・・・・・・・・44 頁


 第4、 再審理由の存在             ・・・・・・・・・ 45 頁 
第1, 山平鑑定の不存在−新証拠で証明
(この章の目次)

  1、 はじめに               
      
  2、 竹之内鑑定で山平鑑定の不存在が証明 

  3、 指紋検出照合依頼書・指紋検出及び石原証言で山平鑑定の不存在が証明 
                                     
  4、 写真撮影報告書で山平鑑定の不存在が証明 

  5、 山平新証言(ビニールシートを切り取っていない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的   に主張したもの 

  6、 山平新証言(8月9日以降は関与していない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的に    主張したもの  



 7、 高山捜査報告書と新通信用紙の矛盾から山平鑑定の不存在が証明

  (1) 高山捜査報告書(弁19)の内容          

  (2) 新通信用紙と高山捜査報告書との絶対的矛盾 

  (3) 8月8日から9日の時点で新通信用紙は存在していなかった

  (4) 原通信用紙も8月8日、9日時点で存在していなかった

  (5) 8月8日の山平鑑定も存在しなかった  

  (6) 高山捜査報告書の記載は虚偽である   
  
  8、 山平新証言(高山一覧表が自分書いたもの)は、山平鑑定の不存在を示唆したもの 

  9、 山平新証言(新鑑定方法)は山平鑑定の不存在を間接的に主張したもの



第1、 山平鑑定の不存在−新証拠で証明

  1. はじめに
  
   これまでに提出した再審請求書、同補充書、意見書をふまえた上で、本「再審請求意見書」を提出する。

  私は除草剤を未だ入手していなかった。1審の最初から無実を主張してきたが、虚偽の山平鑑定によって除草剤を所持していたと認定されてしまい、これが核心的証拠となって、有罪にされてしまった。

  2審判決は、「これらを総合し、積み重なることにより、本件爆破事件が被告人によって爆発現場まで運ばれて設置され、時限装置の作用により爆発したことについては、証拠上疑いを容れない程度にまで明らかになったということができる。」(98丁裏〜99丁表)と結論づけた。

  1、2審とも、私が本件爆発物を製造したと認定し、この間接事実の認定が本件公訴事実認定のための不可欠の事実になっている。除草剤がなければ、当然のことながら本件爆発物の製造はできない。要するに、除草剤の所持を認定できるかどうかが問題なのである。それは、山平鑑定が信用できるか、それとも虚偽であって不存在なのかということである。

  山平鑑定は不存在である。本意見書では、山平鑑定の不存在について論じていくこととする。


  2.竹之内鑑定で山平鑑定の不存在が証明
  
  (1)確定審証言は200mlビーカーのまま濃縮

  山平氏の54回25頁の証言、8回57頁の証言、23回13頁の証言、同52頁の証言から、200mlビーカー大体1杯の水溶液をビーカーのままウォーターバスで濃縮していったことが明白である。検察官から手順の説明を求められても、山平氏はビーカーから蒸発皿に移しかえて濃縮した等の証言は一切していない(詳しくは補充書(七)32〜34頁参照)。

  (2)23回証言における濃縮時間

  山平氏は、「ですから10ミリリットルぐらいの溶液でしたら、1時間か1時間半ぐらいで濃縮されると思いますけれども。」(23回52頁)と証言していた。

   この答えは、実際に鑑定を行っていないために、13頁の証言(10mlのうちから1mlを取り出して、最終的に10倍ぐらいまで濃縮して炎色の検査をした)と矛盾するものになっている。しかし今は、そのことは措いておきたい。

  前記の証言は、10mlを1ml(10倍)に濃縮するのに1時間から1時間半ぐらいだというものになる。短い方の60分を取ったとしても9mlを蒸発させるのに60分だから、1ml当たりの時間は、60分割る9mlで6.67分となる。

  この所要時間と、検察官意見書(平成15年12月19日)の添付資料8、「実験立ち会い報告書」(平成14年12月2日)の各ケースの所要時間と比較してみよう。

  (1)〜(4)は200mlビーカーを用いて、中の水溶液量を変えて、ウォーターバスで濃縮した実験であり、(5)〜(8)は蒸発皿を用いて、水溶液量も変えて、ウォーターバスで濃縮した実験である。(5)(6)は100ml蒸発皿を使用し、(7)は200ml蒸発皿、(8)は600ml蒸発皿を用いている。

  (1)は、200mlビーカーに水溶液175mlを入れて濃縮したところ、210分経過した時点で試液量は90mlになっていたという。つまり210分間で175−90=85mlが蒸発したことになる。1ml当たりの所要時間は210分割る85mlで2.47分である。(この(1)は竹之内鑑定資料の4とほぼ同じ条件のものである。竹之内鑑定では、120分後に175mlのものが130mlになっていたから、120分で45mlが蒸発したから、1ml当たりの所要時間は120÷45=2.67分である)。

  (1)〜(8)の所要時間と蒸発量、1ml当たりの所要時間を表示してみると、以下である。小数点以下3桁を四捨五入した。
      
所要時間 
蒸 発 量
1mlを蒸発させる所要時間 
(1)
(2)
(3)
(4)
210分
210分
210分
115分
85.0ml
82.0ml
90.0ml
50.2ml
2.47分
2.56分
2.33分
2.29分 
(5)
(6)
(7)
(8)
 77分
  55分
  153分
   83分 
 80.4ml
 51.0ml
168.0ml
 189.7ml 
0.96分
1.08分
 0.91分
 0.44分 

  山平氏の濃縮スピードの1ml当たり、6.67分の数値は、(5)〜(8)の蒸発皿のスピードに比べて、6.18倍から15.16倍も遅い。200mlのビーカーで濃縮した(1)〜(4)と比べても、2.61倍から2.91倍も遅い。約3倍も遅い。鑑定不存在の証左である。

  これらから、確定審における山平氏が、200mlのビーカーのままで濃縮したと証言していたことは明白である。またなによりも、実際には鑑定をしていないことが証明されている。

 (3)竹之内鑑定(再弁17)で山平鑑定の不存在は証明

  ここで繰り返すことはしない。再審請求補充書(一)の第5の4「山平鑑定の時間的不可能性」、および補充書(七)の第4「山平鑑定の時間的不可能性」で証明し尽くされている。


3. 指紋検出照合依頼書・指紋検出及び石原証言で山平鑑定の不存在は証明

 (1)山平・本鑑定は8月8日付で鑑定嘱託(再弁13号証)がなされている。そして、山平・本鑑定の資料37点のうち、ビニールシート、カーテン地を含む32点は、同じ8月8日付で指紋検出照合依頼がなされている(再弁1号証)。1審検698によれば、8月9日に道警本部刑事部鑑識課において指紋検出作業が行われた。8月8日は日曜日である。

 (2)化学鑑定を先に行えば、付着量がすくないため、資料全面を純水をふくませた脱脂綿でくまなくふきとることになり、指紋は消えてしまう。一方、指紋検出作業を先にした場合は、その後においても化学鑑定は支障なく行うことができる。指紋検出を先に行うのは自明の理である。

 (3)検察官はビニールシート、カーテン地を請求人が所持していたことは間違いなく、従って指紋検出を最優先に実施する必要がなかったと主張したが、捜査機関は共犯の存在を考えるのであり、検察官の主張は全くの誤りである。

 (4)1審91回公判で、捜査の指揮をとった石原啓次は、8月7日、中島分室で投棄物を検分した後、警備課長と協議の上、8月7日の夜に、「押収物については指紋検出を依頼するように、更にそれが終わったものについては、道庁事件との関連で鑑定に出すように、更に先ほど申したように実況見分は終わり次第作成するように、そういった指示をしております。」(91回38頁)と証言した。

 (5)疑問をさしはさむ余地はない。石原は正しき捜査方針を決定し、指示した。だから同じ8月8日付の鑑定嘱託書(再弁13号証)があるが、37点の資料のうち、ビニールシート、カーテン地を含む32点は、まず指紋検出に回されたのであった。そして指紋検出は8月9日であるから、この32点は、誰であっても8月8日には鑑定はできない。山平鑑定は不存在なのである(補充書(一)38頁(1)「指紋検出の時期からみた山平鑑定の虚構性について」、補充書(七)45頁1「指紋検出の時期からみた山平鑑定の虚構性」参照)。

 (6)37点のうち、軍手、網かご3個、木炭末の5点は8月8日付の指紋検出照合依頼から除外されている。石原の指示に基づいて除外されたであろう。その理由は、軍手、網かご3個は火薬の調合に供されたであろうと考え、ひと足先に8月8日に鑑定させようと考えたからである。私が逃走をはかろうとしていたからだ。

 (7)この5点を8月8日に鑑定したのは本実である。後述することにするが、山平氏は8月8日は、たまたま日直のために出てきていたのみであったが(23回58頁)、5点の鑑定をすることになった本実に命ぜられて、手伝いのようなことをしたのだと思われる。本実は、このすぐ後に「科研」の室長になった人物である。だから山平氏は、8月8日には、鑑定資料は上記の5点しか来ていないことを知る立場にあった。このことが大きな意味を持ってくることになる(後述)。


4. 写真撮影報告書で山平鑑定の不存在が証明

 (1)写真撮影状況報告書(再弁2号証、3号証)によれば、山平・本鑑定の資料37点等は、8月8日午後9時から午後11時まで、中島分室において写真撮影されている。

 (2)この37点は、8月7日午前中、私が投棄し、そのすぐ後に佐藤国夫によって領置されて、同日昼前に中島分室へ運び込まれ同日午後、葛西、石原、那須野らの検分を経て、同日午後7時30分過ぎから、佐藤国夫によって正式に領置手続(検674)されたものである。

 (3)私は取調中に、写真撮影報告書に写っている写真の一部を検事から見せられている。爆取3条違反容疑で逮捕取調べを受けていた時であり、検事勾留の2回目の後半頃であった。取調べに当たっていた遠藤部長検事から示された。番号でいうと、4.5.13.14.15.16.18.19.20.21.23.24の写真である。その他にも、木炭入りの茶箱や硫黄入りのジャーの写真も見せられている。 

  それらの写真は、隅をとめて写真帳になっていた。写真撮影報告書と全く同じ写真であり、領置年月日、場所等を記した用紙と一緒に撮られた写真であった。

  私は取調べ中、それらの写真を見て、私が捨てたままの状態であると直感した。問題のビニールシート、カーテン地等が写っているのは14の写真だが、ビニールシートとカーテン地も、私が折りたたんで、青色ビニール袋と黒色ビニール袋の二重のビニール袋の中に収納したわけだが、ビニール袋から取り出したところという状態で写っていると思った。折りたたんだ状態や汚れの感じが、捨てた時のままだと思った。16の写真には計量カップが写っているが、それも木炭末でうっすらと汚れたままだと思ったのを覚えている。

  14.16の写真でいえば、領置年月日は8月7日であり、私は当時それを見て、尾行がついていてすぐに押収されてしまったのだと愕然としたことも記憶に残っている。その時は、8月7日に押収して、その日に撮ったのだと思っていた。

 (4)山平氏は8月8日にビニールシートとカーテン地、計量カップ等の鑑定をしたと証言していた(23回)。計量カップは、純水を浸した脱脂綿でぬぐえば汚れはきれいに落ちてしまう筈だ。しかし16の計量カップは薄黒く汚染されており、検査が虚偽であることが明らかである。軍手やカーテン地などは脱脂綿でぬぐっても、水に直接浸しても木炭の汚れは落ちないが、計量カップは材質からしてそのようなことはない。

 (5)山平氏は確定審において、8月8日、ビニールシートの裏面の最も汚染のひどい部分を25cm×50cm位切り取って鑑定したと証言していた(54回65頁、127頁)。

  とすると、14のビニールシートはわざわざ領置した時と同じ状態に折りたたんで撮ったということになるが、およそそのようなことはありえないことだ。なぜならば、「8月7日領置」の用紙と一緒に写っており、この意味は、「領置した時のビニールシートの状態を示す写真」ということになる。ところが、領置時には切り取られていないのに、この写真のものは領置時とは違って切り取られているから、これは領置時の写真ではなくなってしまうからである。

  だからもし、本当に切り取られていれば、切り取られた状態も写して、説明をつけることになる。しかしそのようなことはされていないから、ビニールシートは切り取られておらず、この山平証言は虚偽であるということである。最も汚れている部分を切り取って、工夫をこらして鑑定したという鑑定の核心部分が虚偽であるということは、8月8日の山平鑑定そのものが虚偽、不存在であるということである。

 (6)なお、13の写真には軍手と網かご3個等が、黒色ビニール袋から取り出した状態ということで写っている。時間から考えて、それらは、本実によって付着物の採取(8月8日)を終えたものだと考えられる。しかし軍手、網かご3個は資料そのものを切り取るなど改造したわけではなく、13の状態で撮ることは何ら問題にならない。 

  写真の23.24は硫黄入りの茶箱だが、本実は8月8日に、この茶箱に付着していた11グラムの黄色粉末を資料とする鑑定を科研において実施している(再弁22号鑑定書。再弁20号、8月8日付鑑定嘱託書)。この写真も同じ理由で問題にならない。

  微細に見れば、どの押収物も持ち運び、移動の際に付着物はいくらかは離脱しているわけである。資料そのものが改造されてなければ、13.23.24の写真も問題はないわけである。


5. 山平新証言(ビニールシートを切り取っていない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的に主張したもの

 (1)山平氏は1審54回公判で次のように証言していた(要旨)。

  鑑定嘱託者に了解を得て、ビニールシートの裏側の一部を切り取った(64〜65頁)。X線回折をかけようと思い切り取った(65頁)。ここが一番汚染が強かったと思ったから(66頁)。裏地の止め糸を通して中に入り込んでいる可能性があったので切り取った(66〜67頁)。切り取ったものを更に二つぐらいに切った(67頁)。切り取った部分は水にひたし、突っついたりしてしぼり出すようにしてやった(126〜127頁)。そのときはピンセットを使って行った(127頁)。これらの証言は、ビニールシートの裏面を示された上で行ったものである。

  2審8回でも、シートの切り取ったものは水につけたと証言した(61頁)。

  これらは、単に表面、裏面を脱脂綿で拭うだけでなく、なんとか付着物を検出しようと一層の努力を払ったところであり、山平鑑定の核心的部分である。

 (2)ところが山平氏は再審請求審における証言(山平新証言という)で、自分はビニールシートを切り取っていないと証言したのである。

  「私はビニールシートは切り取ってません。一切、資料は破壊しておりません。」(10頁)。(ビニールシートの裏面を示されて質問されて)「いや、やっていません。」(12頁)。「切ってるのは、私、見てましたから。月曜日ですね。本さんたちが鑑定来てるんですけど、そのとき切ったりなんかしているのは、私見てますから。」(13頁)。
  
 (3)まさしく、確定審証言の全面否定である。ビニールシートは8月9日に本実たちによって切り取られたのである。この山平氏の新証言は、前記4の(5)(すなわちビニールシートは切り取られていないこと)に合致していて、信用できる。それは同時に、山平氏が確定審において虚偽を証言していたことが明確になったということだ。
  
 (4)山平鑑定の核心部分を完璧に否定したこの新証言は、間接的に、山平鑑定自体が虚構であること、不存在であることを自ら主張したものに他ならないのである。

  確かに山平氏は、新証言においても、8月8日にビニールシートやカーテン地や軍手等の鑑定を行い、中間報告をしたと証言していた。彼の立場からすれば、直接的表現で「私は鑑定はしていない。幹部の命令により、仕方なく嫌々鑑定書を捏造し、電話通信用紙を捏造し、虚偽の証言をしてきた」とは証言できない。そのような直接的な証言をすれば、仲間からの非難があるだろうから、そのようなことは避けたいという思いがあるにちがいない。また世話になった役所でもある。そしてまた、もしそのような直接的表現で証言すれば、自分が偽証罪で逮捕されることも大いに考えられるのである。だから、間接的に山平鑑定の不存在を主張したのであった。


6. 山平新証言(8月9日以降は関与していない)は山平鑑定の不存在を自ら間接的に主張したもの

 (1)山平氏は1審54回公判で次のように証言していた。

  「資料がたくさんございましたので、初めは二人でやりましたけれども、結果的には軍手の付着物については本実がほとんど全部やりまして、後のものにつきましては私が全部やりました。」(6頁)。「私も軍手は一部手をつけましたけれども、最終的には本実が全部まとめたわけです。」(63頁)。

  8月8日に着手して8月20日に終わったが、この鑑定一本でやったが、これだけの時間かけるということは結構時間をかけたと思う。急がされたから、これだけの時間でできた。普通にやってればもっと時間がかかる(130〜131頁)。

 (2)すなわち山平氏は、8月9日以降も軍手を除く36点の資料について毎日毎日鑑定を続けていき、8月20日に鑑定は終了したと証言していたことになる。

 (3)ところが山平新証言では、8月9日以降は自分は一切タッチしていないのだと言う。

  「そうすると、あなたの御証言によれば、8月9日以後も鑑定作業がつづけられたということになるんですね。」。「私以外の人がやっています。私はやっていないけど・・・。」(121〜122頁)。「当然、本さんはやってますよ。ただ、本さんが1人でやったかどうかって言われたら、それは私は分かりません。助手使ったかもしれないし。」(123頁)。「いずれにせよ、あなたはやってないと」「やっておりません」(123頁)。

 (4)この山平新証言は、自身の鑑定実施期間という基本的なことを全面否定するものである。それはすなわち、自ら、山平鑑定は全く信用性がなく、不存在なのだと間接的に主張したということなのである。


7. 高山捜査報告書と新通信用紙の矛盾から山平鑑定の不存在が証明

 (1)高山捜査報告書(弁19)の内容

  @ 高山報告書は、高山智二の証言によれば、8月8日の晩から書き始めて書き終わったのは9日の昼頃であった(2審8回高山28頁)。同報告書は、私に対する爆発物取締罰則違反被疑事件の8月10日付逮捕状請求書の疎明資料に使う目的で作成された(29頁)。

  A 同報告書は「3.本件爆発物取締罰則違反判明の状況」の(3)で、「網かご、軍手、敷物、カーテン地からは塩素酸イオンを検出」と記載している。

  B 同報告書は「二.爆発物取締罰則第三条に違反すると認められる理由」の(三)で、「被疑者がこれら(塩素酸塩類含有除草剤、木炭、硫黄粉末)を所持していたことは、前記遺留領置物件のとおりであり、除草剤については現物の存在は発見できなかったにしろ、除草剤の配合、使用等に直接用いられたとみとめられる軍手(鑑定結果 塩素酸塩類イオン検出)が存在していることは、所持していたことを裏付ける決定的な事実であると認められる」と記載している。

 (2)新通信用紙と高山捜査報告書との絶対的矛盾
   
  再審請求審において新証拠として提出された高山通信用紙(カガミと添付一覧表)を「新通信用紙」(再弁28)という。その一覧表を「高山一覧表」という。山平通信用紙(カガミと添付一覧表)を「原通信用紙」といい、その添付一覧表を「山平一覧表」という。

  @ 新通信用紙のカガミには、「敷物、布、軍手から塩素酸イオンが検出された」と記載されていて、高山捜査報告書に記載されている「網かご」はない。

  A 新通信用紙の添付一覧表=高山一覧表の「敷物、布」欄には、「ClO3+」の他に「Na+」「K−」の記載があるのに、高山捜査報告書では単に「塩素酸イオンを検出」と記載されているだけで、陽イオンの記裁判はない。

  B 新通信用紙では「布」と記載されているが、高山捜査報告書の方は「カーテン地」と表現されている。

   以上のように、両者の記載内容は絶対的に矛盾している。

 (3)8月8日から9日の時点で新通信用紙は存在していなかった。

  @ 新通信用紙は、取扱者が「高山」で、時間は8月8日午後3時0分であるから、高山捜査報告書を書く前に、新通信用紙は高山の手元にあったことになる。高山捜査報告書は、8月8日の晩から翌9日の昼頃までかけて作成された。

  A ところが、新通信用紙には「網かご」はないのに、高山報告書では、網かごから塩素酸イオンを検出と記載されている。新通信用紙が高山の手元にあれば、この間違いは絶対に起こり得ない。即ち、8月8日、9日の時点で新通信用紙は存在していなかったのである。後日、捏造されたのである。

  B 新通信用紙が8日、9日の時点で存在していれば、敷物、布からはナトリウムイオンが検出され、カリウムイオンは検出されなかったのであるから、高山捜査報告書には、「除草剤所持を裏付ける決定的な事実」として、必ず記載されることになる。しかるに高山捜査報告書には、単に敷物、カーテン地から塩素酸イオンを検出と書かれているだけである。これでは塩素酸ナトリウムの付着は推認され得ない。即ち、新通信用紙は存在していなかったのである。後述するが、控訴審になってから捏造されたのである。

 (4)原通信用紙も8月8日、9日時点で存在していなかった。

  @ 新通信用紙は、カガミから明白であるように、発信者山平真からの電話通信用紙の「受けの通信用紙」として、再審請求書において証拠開示されたものである。原通信用紙(山手通信用紙)(2審検173)は、
8月8日午後2時30分の発信であり、新通信用紙の受信は8月8日午後3時0分である。

  A 新通信用紙と原通信用紙を比較してみるとき、新通信用紙は、山平や本実がボールペンや鉛筆で加筆する前の万年筆書きの原通信用紙の内容と完全に同一であることがわかる。つまり、新通信用紙は原通信用紙と同時期に作成されたものであることがはっきりする。高山一覧表と山平一覧表を比較してみれば、改行箇所も全く一致しており、高山一覧表は山平一覧表を見て書いていったことも明白である。

  B (3)より、高山報告書が作成された8月8日から9日にかけて、新通信用紙が存在していなかったことが明らかであるから、対をなす原通信用紙も存在していなかったということである。原通信用紙も、控訴審になってから捏造されたものなのである。

  (5)8月8日の山平鑑定も存在しなかった

  @ 山平氏は23回公判で原通信用紙について次のように証言していた。「これは、51年の8月8日、日曜日だったんですけれども、私は朝から鑑定を行って、大体夕方、まあ、暗くなってから、今までのやつをまとめて書いたものです。」(4頁)。「帰宅する前に役所で書いたものでございます。」(5頁)。

  A 8月8日に鑑定を行い、その結果を8月8日に記載したのが、原通信用紙なのであり、山平鑑定と原通信用紙は表裏一体である。山平氏は@でそのように証言してきた。

  しかし(4)より、8月8日や9日に原通信用紙は存在していないのであるから、8月8日の山平鑑定も不存在であることが証明されるのである。山平氏は虚偽の証言をしてきたのである。もちろん、山平鑑定書(検700)も捏造である。

  (6)高山捜査報告書の記載は虚偽である。

  @ 前記2,3,4,5,6,7より山平鑑定の不存在、原・新通信用紙の不存在は明瞭である。従って、高山捜査報告書の「網かご、軍手、敷物、カーテン地からは塩素酸イオンを検出」は、虚偽を記載したものである。

  A 本実は、8月8日に指紋検出に回されなかった軍手、網かご、木炭の5点の鑑定を実施している。本実鑑定書(検700の軍手部分)によれば、軍手からはX線回折によって塩素酸カリウムと塩化ナトリウムが検出されている。溶液内検査では、塩素イオンが陽性、塩素酸イオンが陽性、そして炎色反応で、ナトリウムとカリウムが検出されている。

   本実は、X線回折の結果は翌日の8月9日ぐらいに出てると思うと証言していた(55回26頁)。

  B 本実は、8月8日に溶液内検査の結果を電話で中間報告したことになる(55回27頁)。その場合、塩素酸イオンが検出され、ナトリウムの炎色反応があっても、塩素イオンも陽性であるから、NaClが想定され、カリウムの炎色反応も陽性だから、KClO3が想定される。だから、本実は除草剤の可能性は中間報告していないはずである。X線回折の結果も、時間的に9日の午前中には得られて中間報告されたはずだ。

  C 従って、高山報告書の「除草剤の配合、使用等に直接用いられたと認められる軍手(鑑定結果 塩素酸塩類イオン検出)が存在していることは(除草剤を)所持していたことを裏付ける決定的な事実であると認められる」の記載も、意図的な虚偽記載である。

  D 指紋検出へまず回されたビニールシート、カーテン地を含む32点の資料も、8月9日の早くから、指紋採取を終えたものから、どんどん鑑定されていったことは疑いないところである。

  山平新証言は、8月9日に本実たちが鑑定に来ていること、ビニールシートを切ったりなんかしているのを見ていること、分析資料を作っているのを見ていることを、明らかにした(13,14頁)。32点は、8月9日早くから、汚れのひどいビニールシートとカーテン地から、山平氏を除く本実たちによって鑑定されていったのである。本実は55回で、自分は軍手のみをやったとの趣旨をのべていた(2〜3頁)。これは虚偽証言である。

  E ところが、ビニールシート、カーテン地からも塩素酸イオンは検出されなかったのである。もし検出されていれば、ビニールシートとカーテン地も本実が実施したという鑑定書が作成されることになったはずである。8月9日付の本実の中間報告の通信用紙も作られたはずである。

  F 一方、私は8月8日には、午前10時過ぎ頃に北24条で尾行してきた警察官を問い詰めている。同日午後1時半頃には質屋を訪れ、アパートを出るのでテレビなどを買ってもらえるか尋ねている(1審16回、警察官・朝日敬治13頁)。そして夕方6時すぎに売りに行っている。これらは尾行している警察官が現認している。本人尋問でも証言した。

  G 警察は、逃走を図ろうとしている私の身柄を一刻も早く確保しなければならなかった。そのため、早く逮捕状を取るために、幹部の指示によって、高山捜査報告書を、7の(1)のABのように虚偽記載することにしたのだ、と断定できるのである。

  H 高山捜査報告書の記載が、「ビニールシートとカーテン地から塩素酸イオンとナトリウムを検出し、カリウムは検出されなかった」となっていないことが、逆に、山平鑑定の不存在を証明している。また誰の鑑定であれ、ビニールシートとカーテン地からNaClO3の反応はなかったことを、逆に証明しているのである。


8. 山平新証言(高山一覧表は自分が書いたもの)は山平鑑定の不存在を示唆したもの

 (1)再審請求審において、高山一覧表を示された上で、山平氏は自分が書いて届けたものであると証言した(120頁、155頁、163頁)。

 (2)しかし、山平一覧表と高山一覧表を比較してみれば、誰であっても一見して異筆だと判る。ましてや山平氏は本人であるからなおさら瞬時に判る。それに山平氏は、法廷証言の前に検察庁で高山一覧表を見ている(153頁)。

 (3)両者が異筆であることは、新証拠の筆跡鑑定書(再弁30)で証明されている。

 (4)山平氏はなぜ、異筆だと明確に認識し、かつ裁判官や弁護人にもすぐに嘘だと判ってしまうのに、この証言をしたのであろうか。論理的に言って答えはひとつしかない。 

  山平氏が「高山一覧表は自分が書いたものだ」と敢えて嘘の証言をしたのは、高山一覧表・新通信用紙は信用性のないものであって、捏造されたものだ、と間接的に主張したかったからである。それは、元になった山平一覧表・原通信用紙も信用性ゼロの捏造物である、ということを意味する。

 (5)原通信用紙が信用性なしの捏造物であるということは、表裏一体の関係にある山平鑑定も実施されていないということである。この証言は、山平鑑定の不存在を示唆した証言なのである。

 (6)山平氏は、検察庁で高山一覧表を見せられたときには、法廷で証言したようなことは検察官には言っていなかった。検察官を欺いて、法廷で突然言い出したのである。「ビニールシートを切り取っていない」、「8月9日に本実たちが切り取った」、「私は8月9日以降は鑑定していない」の証言も、検察官との打ち合わせでは述べず、法廷でいきなり証言したものであった。後述する「9」の「新鑑定方法」も同じである。

  これらに、山平氏が強い意志を持って、確定判決の事実認定に使われてしまった山平鑑定書・山平証言・原通信用紙の信用性を全否定し、山平鑑定が不存在であったことを(間接的に)主張しようと、再審請求審に臨んでいることがはっきりと示されている。


 9. 山平新証言(新鑑定方法)は山平鑑定の不存在を間接的に主張したもの

 (1)山平氏は再審請求審において、確定審で証言していた鑑定方法とことごとく相反する新しい鑑定方法を証言した(詳細は再審請求補充書(八)、(九)参照)。
 
 (2) 山平氏は、刑事訴追のおそれが強くあるため、「私は山平鑑定はしていません。原通信用紙も控訴審になってから指示されて仕方なく作ったものです」とは証言できない。また仲間から非難されることも避けたいだろう。
  
 (3)そのため山平氏は、あえて確定判決で事実認定された鑑定方法とことごとく相反する新しい鑑定方法を証言することで、間接的に「山平鑑定は全く信用性がない。山平鑑定は虚構だ、不存在だ」と主張しようとしたのである。

 (4)新鑑定方法が科学的にデタラメであることは、新証拠である再現実験ビデオ(再弁31)で証明されている。

  山平氏も、新鑑定方法が科学的に全くの偽りであることは十分自覚の上で証言したのである。素人でもすぐ判ることだから、山平氏が判らないことはありえない。
第2, 山平確定審証言、山平鑑定書、原通信用紙の再評価
(この章の目次)   

  1、 はじめに                      

  2、 山平鑑定書の記載内容−鑑定不存在を示唆、証明力を否定   

  (1) 8月8日から鑑定実施と記載した          

  (2) 鑑定の証明力を否定した               


  3、 原通信用紙の記載内容−信用性を否定し山平鑑定の不存在を示唆した

  (1) ポリバケツを記載した               

  (2) 軍手を記載した                  

  (3) 20点もの資料を記載した              

  (4) Cl、ClO3、Na、Kをバラバラに記載した      

  (5) あり得ない検査結果を記載した           

  (6) 日時欄、受信取扱者欄を空白のまま決裁に出した   

  (7) まとめ                      


  4、 鑑定の不存在を示唆する山平証言について  

  (1) 鑑定依頼について                             

  (2) 鑑定資料の状態について             

  (3) 中間報告について                

  (4) 原通信用紙について               

  (5) まとめ                     

  (6) 鑑定してないことを自己暴露してしまった証言   

  
 5、 検察官が8回公判で山平氏の反対尋問をしなかった理由  

 6、 まとめ                   



第2、 山平確定審証言、山平鑑定書、原通信用紙の再評価

  1、 はじめに

   第1で、新証拠によって、山平鑑定の不存在が証明された。山平氏自らが、間接的に山平鑑定の不存在を明らかにするべく新証言を展開してきたことも見てきた。

   だとすれば、山平氏は確定審においても、在職中ゆえに大きな制約が加わっているとしても、山平鑑定の信用性を喪失させて山平鑑定の不存在を示唆する姿勢を貫いていたのではなかろうか。

   確定審中の私たちは、予断ゆえに、そういう視点で眺めてみることが全くなく、そのために気付くことができなかったのだが、改めて検証してみると、山平氏は一貫してその姿勢を貫いてきたことが明らかになったのである。もちろん、山平氏は、幹部の命令があるため、形式的には「鑑定した」という立場に立つしかなかった。しかし、信用性や証明力を喪失さすべく、様々に工夫してきたのであった。以下、具体的に述べていくことにする。一部で、再審請求審の山平証言にも言及することがある。

  

  2、 山平鑑定書の記載内容−鑑定不存在を示唆、証明力を否定

  (1)8月8日から鑑定実施と記載した

  @ 山平氏は8月8日は日直のため出てきたのであったが、急遽指紋検出に回されなかった軍手、網かご3個、木炭末の5点の鑑定を8日に実施することになった本実の下で、手伝いをしたと認められる。

  黒色ビニル袋の中に木炭末があるのを発見し、薬包紙に包んでおいたとの山平証言(54回142頁)は、発見した云々は虚偽であるが、木炭末(多分薬包紙に包まれて持ち込まれたはずだ)を現認していることを示している証言として意味を持つ。山平氏は本実の鑑定の手伝いをしたのである。

  それ故に、山平氏は8月8日に持ち込まれた資料は前記の5点のみであって、ビニールシート、カーテン地を含む32点は来ていないことを知っていた。

  A 山平氏は、山平鑑定書に開始を8月8日と記載した。54回証言で、8月8日にビニールシートとカーテン地から始めたと証言した。これは、山平鑑定の不存在を示唆せんがための記載に他ならない。第1により、8月8日には32点は来ていないことは客観的に証明されている。

 (2)鑑定の証明力を否定した

  @ 山平氏は「鑑定経過」に、カリウムの炎色検査の有無を記載せず、鑑定経過にナトリウムの炎色反応があったことは記したが、「鑑定結果」にはナトリウムの検出を書かず、単に塩素酸イオンが検出されたと記載している。

  A この「鑑定結果」が意味するところは、ビニールシートとカーテン地に塩素酸塩類が付着していた、ということだけである。山平氏も8回97頁で、弁護人の質問にあっさりとそうであることを自認している。塩素酸ナトリウム(除草剤)が付着していたとの証明力はゼロである。

  B カリウムの炎色検査の有無が記載されてないから、素直に読めば、検査はしなかったという風にしか読めない。

  C そして「経過」欄に、「塩素イオンの反応は疑陽性である」とあるから、ナトリウムの相手は塩素イオンだろうとなる。NaCl(汗、食塩)である。炎色反応検査は、塩素イオンの検査をした溶液をもっと濃縮してから実施するから、ナトリウムが明確に出るのは当然のことである。そうすると、塩素酸イオンの相手はナトリウムではないのではないか。もしカリウムの炎色反応検査を実施していれば、カリウムが検出されていたのではないか。つまり塩素酸カリウム(マッチの頭薬)が付着していたのではないか、となる。軍手からX線回折で、塩素酸カリウムと塩化ナトリウム(汗)が検出されているから、なお更である。

  D Cの点について、山平氏は54回111頁で、ナトリウムが食塩(NaCl)のナトリウムでないということは否定しない旨、証言している。8回86〜89頁では、微量のNaClと微量のKClO3(マッチ)が付着した場合も、同じ反応になると証言している。

  E 以上のように、山平氏は(1)で信用性を否定する記載をし、さらに証明力を否定する記載をしていったのである。これは意図的に行ったことである。

  F なお、原通信用紙が、山平鑑定書の作成時点(51年8月28日)で存在していなかったことは明白である。

 原通信用紙のビニールシートとカーテン地欄の内容は、塩素酸ナトリウムの付着と塩素酸カリウムの非付着を意味するものである。しかし、山平鑑定書が意味するものは(2)であり、原通信用紙と完全に矛盾している。原通信用紙がもし存在していれば、山平鑑定書の記載も同じものになる。すなわち、原通信用紙は当時、存在していなかったことが証明されるのである。

 G 山平氏は、幹部に命ぜられて(実際に32点の鑑定をした本実も命ぜられたが、拒んだために、最後に残った山平氏はより強力に命ぜられて拒めなかったと考えられる)、鑑定書を捏造することになったものの、犯罪加担を拒み、上述した如く、信用性を喪失させ、証明力を否定する記載内容の鑑定書をまとめ上げたのである。

 H 「白色粉末ようのものの付着」について。

  山平氏は「経過」で、「顕微鏡的にはさらに白色粉末ようのものの付着が認められた」と記載した。これは、幹部を欺くために敢えて書いたものであることは明白である。山平氏は、当然、塩素酸ナトリウム(除草剤)は顕微鏡で見ると、無色透明の結晶性の物質であることを十分認識した上で、この記載をしたのである。そのことは再弁24,25で証明されている。


  3、 原通信用紙の記載内容−信用性を否定し山平鑑定の不存在を示唆した

  警察幹部は、弁護側の控訴趣意書の山平鑑定批判(65頁〜68頁の中ごろまで)の内容をふまえ、そして弁護側が2審の1回で高山捜査報告書を証拠申請し、3回で高山証人を、4回で山平証人を証人申請したことを受けて、山平鑑定書を補強する目的で、山平氏に原通信用紙の捏造を命じたと断じて間違いない。

  捏造の目標は、ビニールシートとカーテン地から塩素酸イオンとナトリウムが検出され、カリウムは検出されなかったことを証拠立てることである。

  しかし山平氏は、遵法精神と良心を有していた。表面的には命令に従いつつも、記載内容に工夫をこらすことによって、原通信用紙が捏造されたものであることを示唆し、またそれをもって山平鑑定の不存在をも間接的に明らかにしていこうとしたのであった。以下に具体的に述べてゆく。

 (1)ポリバケツを記載した

  @ 山平氏は一覧表の冒頭に、敢えてポリバケツを記載した。

  言うまでもなく、鑑定資料にはポリバケツはない。資料にないものが鑑定に回されることはあり得ないから、山平氏はポリバケツを冒頭に記載することで、原通信用紙の信用性を否定しようとしたわけである。

  A 捏造時期は51年の8月から約8年間経っている。幹部は関係証拠をよく把握できなくなっており、ポリバケツの記載をチェックできなかったわけである。

  B この種の領置物はポリバケツとポリ容器の2つしかない。前者は、51年8月19日に大家の二宮氏から任意提出されて、同日付で領置されたものである。ポリ容器の方は8月7日に領置されている。しかし両者は大きさと形状が著しく異なっており、常識的に後者を「ポリバケツ」と言う者はいない。山平氏が、8月19日領置のポリバケツを念頭において記載したことは明らかだ。当然のことながら、8月8日に検査することは不可能だ。山平氏は、原通信用紙の信用性を否定しようとしたのである。

  C 再審請求審における証言を見てみよう。山平氏は8月8日に検査をしたというポリバケツないしポリ容器について、「ふたがあったんですけど」(137頁)と述べて、ポリ容器(ふたなし)ではないことをほのめかした。つまり、ポリ容器が誤って紛れ込んできたのではないとほのめかした。

  D 同審において山平氏は、ポリ容器の現物(検728)とポリバケツの写真を示された上で、一覧表にポリバケツと書いた資料はどちらだったのかと問われると、「いや、記憶で答えられないです」(138頁)と答えたのであった。
  もし、実際に検査をしていれば、著しく大きさと形状が異なる二つだし、山平氏はこの事件で他には鑑定をしていないから、必ず特定できる。記憶で答えられないとのこの新証言は、検査自体が不存在であることを間接的に主張したものに他ならない。山平鑑定の不存在を主張したものに他ならないのである。

  E もしも山平氏が積極的にデッチ上げをする立場であれば、ポリバケツなど記載しない。仮にもしミスで記載してしまったとしても、「検査したのは検728のポリ容器でした」と明確に、嘘の証言をした筈だ。このように考えてみれば、山平氏がどういう姿勢で確定審と再審請求審に臨んでいるかが鮮明に浮かび上がってくるであろう。
  
 (2) 軍手を記載した

  @ 山平氏は一覧表に軍手を記載することで、原通信用紙の信用性を否定することを狙った。

  A 1審54回で山平氏は、8月8日に自分はビニールシートとカーテン地から始めていき(62頁)、その日にこの2点から塩素酸イオンが検出されたとの中間報告をしたと証言していた(61頁、63〜64頁、138頁)。山平氏はこのように、ビニールシートとカーテン地の2点のみの塩素酸イオン検出の中間報告をしたと証言していたのであった。軍手は本実が「ほとんど全部やりまして」(6頁)と述べ、自分は軍手の溶液内検査などはやっていない旨述べていたのである。

  B 山平氏は一覧表に軍手を入れることによって、54回公判証言との矛盾を作り出し、証言の信用性および原通信用紙の信用性の両方を否定しようと狙ったのである。山平鑑定の不存在の間接的主張である。

  C さらに山平氏は8回公判において、本実は8月8日は出て来ていないと証言した(30頁)。だから8月8日は、自分が軍手の溶液内検査も行い、塩素酸イオンが検出されたことも、中間報告したのだと証言した。本実が休んでいたという明明白白の嘘を敢えて証言したのは、この原通信用紙の信用性がないことを訴えるためであった。

  D 山平氏がもし、積極的に山平鑑定をデッチ上げようとする側の人間であれば、山平一覧表に軍手など記載しないし、ましてや本実は8月8日は休んでいたと証言する筈はない。54回証言と整合するように原通信用紙を捏造したであろう。

 (3) 20点もの資料を記載した

  @ 山平氏は一覧表に20点もの資料を記載して、検査が時間的に不可能であること、つまり信用性ゼロの捏造物であることを示唆しようとしたのであった。実際、竹之内鑑定で証明された。

  A 山平氏は54回公判では、どのような証言をしていたのか。138頁から140頁の問いと答えを読めば、すぐわかる。全体で12日間鑑定にかかったし、残業もしたが、8月8日はビニールシートとカーテン地の2点のみを鑑定した、と証言していたのである。弁護人の「それにしてはさっきの二つのシートとカーテン、この中間報告をできる段階になるまでのことが早すぎるんだけども」の問いに対する、山平氏の「その付着物の水溶液についてやったものですから、それは一日でやろうと思えばできます」(140頁)の答えは、この2点の塩素酸イオン反応までの時間を言ったものなのである。

   原通信用紙は、54回証言とも絶対的に矛盾しているものである。

  B もし山平氏が、幹部の意を忠実に実行する立場の人物であれば、このような原通信用紙は捏造しない。54回証言と整合するように作成する。すなわち、ビニールシートとカーテン地の2つのみで、検査項目も塩素イオンと塩素酸イオンとナトリウムとカリウムの4つのみである。

 (4) Cl、ClO3、Na、Kをバラバラに記載した

  @ 「敷物、布」欄のイオン検査の記載は、順にCl、NO3、NO2、ClO3、 ClO4、Na、Kとなっている。

  A この記載は科学的に誤っている。正しくはCl、ClO3、Na、Kの4つのイオン検査はひとまとめにして記載されなくてはならない。塩素酸イオンの有無は、まず塩素イオンの有無を検査し、存在する場合にはそれを除去してからでなければ検査できない。Cl、ClO3、Na、Kの4つは、ひとまとめに記載されてこそ、はじめてNaClO3なりKClO3の有無が正しく表示され得るのである。

 B 山平氏は敢えてこうした記載方法をすることで、原通信用紙の信用性を否定してみせたのである。山平鑑定は不存在なのだと示唆したのである。

 (5) あり得ない検査結果を記載した

  @ 20点の資料は軍手を除き他は全て一つ一つが独立した資料である。山平氏も23回公判で、ヘラ2点、スプーン4点は水溶液を6つ作って別々に検査したと証言したし(26頁)、コップ大4個、小3個も、1つ1つ別々に検査した旨、証言した(28頁)。

  A ところが山平氏によれば、へら2,スプーン4は全て同じ結果だったので一覧表ではまとめて記載したし、コップ大小7つも全て同じ結果なのでまとめて記載したと言う(26頁)。

   コップ7つは、塩素イオンが7つとも、痕跡程度で疑陽性よりもまだ弱いという反応で一致していたことになるが、こんなことはあり得ない。

 B 山平氏はあり得ない検査結果を記載することで、信用性を否定しようとしたのである。

 (6) 日時欄、受信取扱者欄を空白のまま決裁に出した

  @ 23回における山平証言によれば、万年筆で記載した部分は8月8日の記載であり、ボールペンで書かれている51年8月8日午後2時30分発の部分は、翌日の朝、決裁に出した後に、上司から、日付と抜けているとこ書いてくれといわれて、8月9日に書いたものである(4〜8頁)。

  A 受信取扱者欄は、鉛筆で薄く「警ビ課長   高山へ」と記載されているが、再審請求審における山平氏の証言によれば、その部分は、8月9日に本実が電話をかけて、やりとりして、本実が自分で書いたものなのである(111頁、127頁)。

  B これらで分かることは、山平氏は中間報告した日時欄と相手欄を空白のまま決裁に出したということであり、相手欄を記載(下書き)したのは山平氏ではなく、本実であったということである。

   中間報告の日時と相手は、電話通信用紙の重要な「要件事実」である。それを空白にしたまま決裁に上げることで、山平氏は原通信用紙が捏造であることを、間接的に主張しようとしたのであった。

  C もし、日時欄を埋めてくれといわれて、山平氏がそこを万年筆で書いたとすれば、また本実が「警ビ課長   高山へ」と鉛筆で薄く下書きしたものを、消して、山平氏が万年筆で清書したとすれば、当初「空白」のまま決裁に出した事実の立証ができなくなってしまう。

  だから山平氏は、意図的に筆記具をボールペンに替えて日時欄を記載した。受信取扱者欄は、敢えて下書きした本実の字のままで押し通すことにしたのである。他者が記載した事実によって、原通信用紙の信用性はさらに一段と否定されるからだ。山平氏が、このように計画的に行動していった事は、証拠によって明らかになっている。

  D なお、受信取扱者欄に「警ビ課長   高山へ」と下書きしたのは本実であるが(下書きなのは「ビ」となっていることでも明白)、それは本実が主体的に行ったことではない。幹部が本実に、「ここはこのように記載せよ」と指示したのである。それを受けて、本実が鉛筆で下書きして山平氏に渡したわけである。再審請求審で山平氏は、「ええ、そして、(本さんは)月曜日に電話して、何か警備の人とやり取りして書いた(「帰った」は誤記)んですよ」(111頁)と証言したが、本実は電話して幹部の指示をあおいだのである。

  E 「8月8日午後2時30分」についても、当然、山平氏は鑑定も中間報告もしてないから書けないのであり、幹部から、そのように書くよう、指示されていたわけである。しかし空白のまま決裁に出したのである。

 (7) まとめ

  山平氏は山平鑑定を行っていない。当然、中間報告もしていない。しかし、どこからも1粒の除草剤も発見されず、付着していたという鑑定結果も得られなかった。8月9日以降に来た32点の資料も、9日以降に本実たち(山平氏は除く)が鑑定したが除草剤の付着はなかった。私の二宮方の居室の付着物の鑑定は、検771の倉川の鑑定書(8月20日実施)と、検777の岡本の鑑定書(8月18日実施)であるが、やはり除草剤の付着はなかった。このため、幹部は爆取3条違反事件のためにも、なによりも道庁事件で逮捕するために、除草剤付着の鑑定書を捏造する必要に迫られることになった。本実氏たちはそれを拒んだために、最後に残った山平氏が狙われることとなったのである。

  山平氏は表面的には幹部に従いつつも、山平鑑定書の記載内容を工夫することで、信用性を否定したり、証明力を否定する鑑定書を作成した。控訴審に入り、幹部は原通信用紙の捏造を山平氏に命じた。山平氏は従うふりをしつつ、前記した如く、その信用性を否定する記載内容にしていったのであった。それは、山平鑑定書の信用性を間接的に更に否定するものでもあった。鑑定不存在を更に間接的に明らかにするものであった。

  しかしながら、当時の私たちは山平氏こそがデッチ上げ鑑定の帳本人だと思い込んでしまったために、山平氏の鑑定の不存在を示唆する記載内容、証言内容を正しく把握することが全くできなかったのであった。

4、 鑑定の不存在を示唆する山平証言について

  山平氏は確定審証言においても、鑑定を実施したとの表面的立場をとりつつも、鑑定の不存在を間接的に主張する証言をしていったのである。既に指摘したものは割愛するが、以下に述べていくこととする。一部では再審請求審での証言にも言及する。

 (1) 鑑定依頼について

  @ 山平氏は、名前は覚えていないが警備の係員から口頭で鑑定の依頼があった(8回2頁)、前日(8月7日)の晩に、明日出てきてやってくれないかと依頼があったと証言した(8回123頁)。

  A この証言は、警察の指揮命令系統に真っ向から反するものであり、鑑定の不存在を示唆した証言である。本来ならば、自らが所属する科研の長たる本実からの命令となる。

  B 再審請求審では、山平氏は、前日の土曜日の午後2時頃、本実から電話で、例の検査をやってくれと依頼があったと証言した(26頁)。この証言は、確定審証言が虚偽であること、確定審の事実認定が誤りであることを、自ら主張したものである。

  C もちろん、山平氏は前日に本実からも鑑定依頼は受けていない。山平氏は23回で、裁判官から、本実が8月8日一緒に鑑定にあたったか、休んでいたかについて尋問された中で、極めて重要な事を口走ってしまっている。

  「そういえば前の土曜日の晩に7時になって出てきて、そして一緒に日直やってた阿部というのがいるんですよね」(23回5頁)。

  この意味は、山平氏が出てきたのは7日の晩の7時なのか、8日になって出てきたのかはっきりしないが、明確なのは、山平氏は8月8日は日直のために出ていたのであって、鑑定依頼を前日に受けて出てきたのではないということである。これは、山平鑑定不存在の明白な証拠である。

  (2) 鑑定資料の状態について

  @ 山平氏は、鑑定資料37点は8月8日、袋に入れずに、ダンボール箱に一括してまぜて持ってきたと証言した(54回73,74頁)。23回では、8月8日の朝、37点の資料は来たが、資料番号はついていなかったと証言した(23回63頁)。

  A この証言は、鑑定の信用性を全面的に否定するものである。鑑定の不存在を明確に主張するものである。

  まず、既に述べたように、8月8日には鑑定資料は5点しか届かなかった。山平鑑定の資料たるビニールシートとカーテン地など32点は届いていない。届いてないものは鑑定できない。

  もう一点は、鑑定資料は必ず1つ1つ袋に入れて、鑑定資料番号を付けて届けられるのであるが、山平氏はこの鉄則に反する状態で資料は届いたと証言することで、山平鑑定の信用性を否定してみせたのである。

  鑑定資料には、全く同じ形状のものが多く含まれている。鑑定資料番号が付いていなければ、区別不可能となってしまい、鑑定を始められないのだ。計量コップ大4個、小3個は互いにどのように区別するのだろう。スプーン3個も互いにどう区別するのか。

  B ちなみに、8月8日に本実が実施した5点の鑑定は5点とも形状が異なるし、数も5点と少なく、区別は容易である。ビニール製網かごは大と小で大きさが異なっている。

  C 山平氏は再審請求審では、8月8日に出勤すると、既に鑑定資料は床上に置いてあったと証言した(7〜8頁)。誰もいない研究室に(8頁)、既に置いてあったという。確定審証言と異なる証言を敢えてすることで、信用性を否定しようとしたわけであるが、誰も居ない所に置けば資料紛失のおそれがあること、床上におけば汚染のおそれもあることから、山平氏はこの点からも、「信用性はないのですよ」と暗に言わんとしたわけである。

  D 山平氏は54回で、自分が木炭末を発見した、当初木炭末は資料には含まれていなかったと証言した(141〜142頁)。この証言も、敢えて嘘を証言することで、山平鑑定の不存在を示唆せんとした証言なのであった。木炭末は8月7日付の領置調書(再弁8)の14番にちゃんと載っている。

 (3) 中間報告について

  @ 山平氏は54回で、8月8日に警備課長に中間報告したと証言した(137頁)。実務上、一介の科研の吏員が警備課長に直接報告することなど絶対にあり得ない。山平氏はあり得ないことを敢えて証言することで、中間報告自体の信用性を否定せんとしたのである。それは鑑定そのものの不存在を示唆するものであった。 

  A 高山も実質上の捜査指揮官の石原啓次も中島分室に詰めていた。高山捜査報告書が既に作成されていた。だから幹部は、54回の山平証言に際しては、中間報告の相手と場所として、「中島分室の高山」を指示していたことは間違いない。ところが山平氏は、それを拒んで@のように証言していったのである。

 (4) 原通信用紙について

  原通信用紙は遅くとも2審の8回公判の前までには、捏造されて検察官に送られていることは既に述べた。8回公判では、原通信用紙はまだ証拠申請もされていなかったから、原通信用紙に関する尋問は予定されてはいなかったが、山平氏は弁護側主尋問において、自ら進んで「電話回答書」が作成されていることを明らかにして(8回8頁)、原通信用紙が信用できないものであることを示唆するべく、以下のように証言していった。

  @ 山平氏は、電話回答書=原通信用紙は、鑑定書・鑑定嘱託書と一緒につづってある旨を証言した(8回31頁、23回23頁)。

  この証言は決定的である。原通信用紙がまさに真正なものであるならば、山平鑑定書はあのような記載内容にはなっていないし、54回証言も全く別のものになる。すなわち山平氏は、@を敢えて述べることで、つまり嘘を述べることで、原通信用紙は信用できないものであること、控訴審に入ってから捏造されたものであることを、示唆しようとしたのである。

  A 山平氏は、電話通信用紙は半けい紙1枚のものだと証言した(8回31頁)。本当は、一覧表2枚が付いていて、合計3枚のものである。この証言も、それが信用性のないものであることを暗に主張したものである。

  B 山平氏は、中間報告した時間は2時30分で、相手は中島分室にいる高山であることを十分知っていたが(自分が原通信用紙を捏造したから)、8回公判では敢えて、夕方かもうちょっと暗くなってから中間報告したと証言し(7頁)、同じ道警本部庁舎の警備の係員に報告したと証言した(7頁)。名前は今記憶ないとした(8頁)。この証言も、原通信用紙が信用性のないものであることを示唆する証言であった。

  弁護人が、あなたから報告を受けたという高山は、大体2時から3時だと述べていたがと問いかけても、山平氏は多分夕方ではないかと言っていた(25頁)。

  C 山平氏は8回で、微量のNaClと微量のKClO3が混在していた場合も同じ反応になると証言した(8回86〜89頁)。

  これは、原通信用紙の敷物、布欄の記載が信用できないことを自認した証言である。また8回の、最終的には10倍くらいまで濃縮して炎色検査をした(67〜68頁)という証言も、虚偽であることを認めたものである。山平氏は鑑定をしていないのだ。

  炎色反応でカリウムを陰性だと記載する意味は、化学的には、カリウムの検出限界濃度以上に濃縮して検査したところ陰性であったということである。KClO3は存在していないということである。

  計算上、塩素酸イオンが陽性であった溶液を10倍に濃縮すれば、必ずカリウムの検出限界濃度以上になるのである。

 (5) まとめ

  @ 山平氏がもしも、積極的にデッチ上げを推進するつもりであれば、(1)〜(4)で述べたような証言は決してしない。もちろん、山平鑑定書の内容も、まさしくNaClO3が付着していて、KClO3は付着していなかった、と化学的に断定できるような内容で捏造した。その場合には、もはや原通信用紙の捏造は不要なので、捏造されることもなかった。 

  A 山平鑑定書の内容は次のようになる。「ビニールシートとカーテン地の水溶液の塩素イオンの反応は陰性であった。塩素酸イオンの反応は陽性であった。ナトリウム、カリウムの検出限界濃度以上に濃縮後、炎色反応を試みたところ、ナトリウムが検出され、カリウムは検出されなかった。その他の火薬類の付着はなかった。」また「8月8日に届いた資料は5点であり、8月9日に残りの32点が届いた」ということも記載されることになる。

  B 法廷証言もAを受けて、「ビニールシートとカーテン地は他の30点とともに8月9日に来た。8月9日、直ちにビニールシートとカーテンの鑑定を行い、昼頃に、塩素酸イオンが検出された、と中島分室の高山へ中間報告した」と証言することになった。

  高山捜査報告書は、8月9日の昼頃までかかって作成したものであるから、その頃までに中間報告をすれば、整合するのである。

  C 除草剤付着というデッチ上げを真実らしく見せるためには、その他のことは事実どうりに証言するのが原則である。例えば、鑑定資料が届いた日を虚偽記載したり虚偽証言すれば、その嘘がばれてしまえば、本命のデッチ上げも、嘘が明らかになってしまうからだ。

  D 以上のような視点から眺めてみれば、山平氏が鑑定不存在を、間接的に明らかにしょうと努力・工夫してきたことが鮮明になるであろう。

 (6) 鑑定してないことを自己暴露してしまった証言

  @ 山平氏は23回で、塩素酸イオンの中間報告に関して、「間違いないなと、何回も繰り返して塩素酸イオンもやってますけれども、間違いないなということで電話回答しております」(49頁)と証言している。

  これは、実際に鑑定をしていないがゆえに、自らの証言と矛盾することを言ってしまったものであって、結果的に山平鑑定の不存在を自己暴露した証言である。

  山平氏がそれまでに証言してきたことは、200mlの水溶液を10ml位に濃縮し、それを大体1ml、小試験管にとり、塩素酸イオン検査に使った。塩素酸イオン検査に使ったのは1ml位だ(54回144頁)というものである。8回公判では、10ml位まで濃縮して、試験管10本程度に小分けして、各種のイオンの反応検査を実施した。塩素酸イオンの反応を見るのに3ml位は使っている(8回57〜60頁)と証言していた。以上のようであるから、間違いないなと何回も繰り返して塩素酸イオンの検査をするだけの資料溶液はないのである。

  A 山平氏は23回公判で、裁判長から炎色反応の結果を再度電話しているのではないかと追求される中で、「もう1回溶液を作り直したりして調整したり、そういうことでやろうということで・・・」と答えてしまっている(56頁)。

  濃縮して得た10mlの溶液は、各種イオンの検査に使い切ってしまうのであり、もはや、もう1回溶液を作り直すことは出来ないのである。またビニルシートとカーテン地も長時間かけて隅々まで付着物を採取したのであり、もう1回採取して溶液を作ることも出来ない。この証言も鑑定をやっていないが故に、口走ってしまったものであり、山平鑑定の不存在を自己暴露した証言であった。

  B 山平氏はAと同じ答えの中で、「ですから、炎色反応は明日またきちっとやろうということで、一応結果は出てますけれども」(56頁)とも言っていた。44頁でも、結論(ナトリウムの検出)が出ても明日また再確認をするためと同旨の証言をしている。

  この証言は、もちろん非化学的な証言である。炎色反応で陽性と出ていれば(ビニールシートとカーテン地)、確定であり、もはや検査する必要はない。だから溶液を作り直すことはない。研究者の山平氏には当然理解されていることである。

  この証言は、裁判長に痛いところをつかれたために、誤魔化すために言ったものであろうが、非化学的なことを証言したわけであり、結果的に山平鑑定の信用性を自ら否定したことになるものである。

  C 山平氏は23回で、弁護人に「炎色反応を見るために溶液を更に濃縮してみたということでしたね」「その濃縮するのにどのくらいの時間がかかりますか」(51〜52頁)と問われると、「炎色反応だけ見るということであれば、・・・ですから10ミリリットルぐらいの溶液でしたら、1時間か1時間半ぐらいで濃縮されると思いますけれども」(52頁)と答えている。

  この証言も鑑定を実施していないことを結果的に自認したものである。弁護人が問うたのは、山平氏が13頁で証言したばかりの、10mlからml位を取って、最終的に10倍くらいの濃度まで濃縮した、その所要時間なのである。実際に鑑定を行っていれば、絶対間違うことはないが、していないために、山平氏は10mlを濃縮していくものとして答えてしまった。

  D 既に第1の2の(2)でのべたことであるが、10mlを1mlに濃縮するのに60分かかるとすれば、1ml当たり6.67分もかかることになり、普通の3倍弱もの時間となる。これでいけば、200mlの溶液を10mlに濃縮するのに、6.67分×190mlで、1267分つまり21.12時間もかかることになる。はからずも、山平鑑定がなされていないことを、自ら暴露してしまった証言であった。

  E 山平氏は23回公判の45頁で、非常に重要なことを口走ってしまった。

  裁判長は山平氏に、炎色反応でナトリウムが出ているのに報告しないのか、捜査側からすれば、ナトリウムが出るかカリウムが出るかということは、皆さん関心があったところではないのかと追求した。すると山平氏は、以下のように答えたのであった。

  「私は道庁の爆破事件の時は北大に〔研修生として〕いて、おりませんでしたし、ちょうどそのとき、8月のこの鑑定をするときに北大のほうの分析のほうの研究論文を一生懸命やってたもんですから、こういうことについてあんまり知らなかったということですね。塩素酸ナトリウムだというような話は聞いたかもしれませんけれど、私、そういうことに対しての知識はほとんどなかったんです。そういう事件に関して」(45頁)。

  山平氏は、51年3月の事件当時は北大にいて、捜査(鑑定)に従事していないし、8月のときも研究論文に一生懸命取り組んでいたのであった。そのような実績も乏しく、本件事件の知識もほとんどない山平氏に、科研の長たる本実が、最も除草剤が付着する可能性が高いビニールシートとカーテン地を含む36点の鑑定を任せる筈はないではないか。最も能力が優れていて、本件に関する予備知識も豊富な人間が担当するのは明らかである。実際、8月8日には本実が5点を鑑定したし、山平新証言により、8月9日以降の32点の鑑定も、本実たち(山平氏は除く)が実施していったことも明らかになっている。

  この45頁の証言がポロッと出てしまったのは、心理学的に分析すれば、「犯罪荷担などしたくない。私は鑑定などやっていないんだ。嫌だ嫌だ。」と常に思っていたからである。

  1,2審で41点の鑑定書が証拠請求されたが、山平氏の名前が出てくるのは、700番の鑑定書のみである。つまり山平氏は8月7日以前も8月9日以降も一切の鑑定にタッチしていないのである。

 5、 検察官が8回公判で山平氏の反対尋問をしなかった理由

 (1)検察官が8回山平証人尋問で反対尋問をした箇所は、114頁の1点だけである。なぜであろうか。極めて不自然である。ここにはとても重要なことが秘められているのである。

 (2)4の(4)「原通信用紙について」で述べたように、8回公判で山平氏は、自ら進んで電話回答書の存在を明らかにした。そして中間報告の時間は、夕方かもうちょっと暗くなってからだと証言し、相手方を同じ道警本部庁舎の警備の係員で名前は記憶ないと証言した。半けい紙1枚のものだとも証言した。これらは、原通信用紙と一致しない証言である。

  さらに山平氏は、8月8日は本実は休んでいた。だから軍手の検査も自分がやり、中間報告もしたと真っ赤な嘘も証言した。原通信用紙は鑑定書や鑑定嘱託書と一緒につづって保管しておくものであるとも証言した。

 (3)もしも検察官が、この時点で原通信用紙を見ていないのであれば、一も二もなく、(2)の点について反対尋問した筈だ。だから、検察官が原通信用紙を既に持っていて、十分検討していたことは明白である。

 (4)ではなぜ、検察官は反対尋問をしなかったのか。

  @ 原通信用紙は捏造されて検察官へ送られた。その時期は8回公判の直前ではない。8回公判前の証拠申請するだけの十分な時間的余裕がある時期に送られたといえる。

  A しかし検察官は、原通信用紙の記載内容にいくつかの点で疑問や不審を抱いたのである。鑑定資料にはないのにポリバケツが冒頭に記載してあるとか、山平氏は軍手の検査はしてないのに軍手も記載されているとか、鑑定資料数が多すぎるとかだ。その他にもあるだろう。だから証拠申請は控えることにしたのである。

  B だから検察官が、8回公判の前の山平氏との打合わせで、山平氏に原通信用紙を示して色々質問したことは疑いがない。まず山平氏の真意を探るためである。その際の山平氏は、本実は休んでいたなどとは言ってない筈である。本実がやった軍手の検査結果を自分が記載したものだと説明したであろう。もちろん、原通信用紙は鑑定書・嘱託書と一緒につづって保管しておくものだとは説明しなかった。別の所に置かれていたものだ、みたいに言ったであろう。中間報告の時間や相手は記載どおりに説明した。

   検察官は山平氏に、原通信用紙はまだ証拠申請もしてないものだから、弁護側の尋問の際にも、その存在については伏せておいてほしいと言ったであろう。後日に証拠申請し、あなたにも再度証人出廷して頂くことになるだろうと言ったことだろう。山平氏も了解した旨を述べただろう。

  C しかし山平氏は法廷で、自ら原通信用紙の存在を明かして、(2)のように証言したのであった。検察官は仰天してしまった。尋問の方針が立たなくなった。もし尋問して、答えを固定化することになったり、更に変な答えを引き出すことにでもなれば、マイナスはより大きくなると考えて、反対尋問をしないことにしたのだといえる。

  以上のように推認する以外の合理的解釈は他にはない。

 (5)検察官は8回公判終了後も、原通信用紙を証拠申請する利益とリスクについて検討を加えていった。申請すれば山平氏も再尋問しなくてはならない。なかなか結論は出なかった。それが、証拠申請が8回公判から9ヶ月も後の18回公判になった理由である。検察官は、リスクを伴うにしても「カリウムの不存在」をどうしても原通信用紙で立証しなくてはならないと結論を出したのであった。山平氏についても、警察の幹部に頼んでよく「指導」をしてもらった上での証人申請となったので、22回後の期日外での申請、23回での証人尋問となったのであった。

 (6)検察官のこのような行動も、原通信用紙の捏造と山平鑑定の不存在を物語っている。

 6、 まとめ

 (1)1,2審当時の私たちは、山平氏を強く敵視しており、山平氏が鑑定の不存在を(間接的に)主張しようと様々な工夫をこらしているとは考えてもみなかった。

 (2)だから、原通信用紙を証拠申請すべきか否かで悩んだ検察官の心配も杞憂に終わり、大成功を収めることとなった。

 (3)1,2審当時、私たちは1〜5で述べたことに気付けなかった。しかし山平氏は1〜5で論証した如く、一貫して山平鑑定の不存在を間接的に主張するべく努力・工夫をしてきたのであった。この事実は、山平鑑定不存在の決定的な証拠である。

 (4)山平鑑定書は、実は山平鑑定不存在の証拠であったし、原通信用紙もなお更に、山平鑑定不存在の証拠であった。

 (5)検察官は2審においては原通信用紙を証拠申請して大成功を収めたが、再審請求審において、原通信用紙は検察官の命取りの証拠になった。原通信用紙から、新通信用紙を開示し、それを弁護側が証拠申請して山平鑑定の不存在の証拠になっていったのである。
第3、 再審請求審に臨む山平氏の姿勢
  1、 山平氏の努力・工夫にもかかわらず、2審判決においては、山平鑑定書・原通信用紙・山平証言が有罪認定の核心的な証拠にされてしまった。山平氏は大きなショックであったことであろう。

  2、 山平氏は定年退職し、役所からの直接的な拘束は無くなった。それゆえ山平氏は、再審請求審においては、より目的意識的に、前記証拠の信用性を否定し、山平鑑定が不存在であることを(間接的に)証明するべく工夫をこらして証言していったのであった。それは第1の5,6,8,9で明らかである。直接的表現で山平鑑定の不存在を証言できなかったのは、それをすれば自らが偽証罪で逮捕されるおそれが強くあるからである。

  3、 山平氏の本質的姿勢は、捜査段階・確定審・再審請求審を通して一貫している。 
第4、 再審理由の存在
 1、 本件爆発物の製造は公訴事実ではないものの、1,2審とも私が本件爆発物を製造したと認定した。この間接事実の認定が、本件公訴事実の認定のための不可欠の事実になっている。

  2、 本件爆発物の製造の事実が認定できなければ、本件公訴事実を認定することができない。2審は山平鑑定などから私が除草剤を所持していたと認定し、除草剤の他の「本件爆発物との結びつき」や「その余の状況事実」を「総合」して、本件爆発物の製造を認定した。しかし除草剤がなければ本件爆発物を製造できないから、除草剤の他の「本件爆発物との結びつき」や「その余の状況事実」の有無を論じても意味がない。除草剤の所持を認定できるかどうかに尽きる。
  当再審請求審において、山平鑑定の不存在が証明されている。私が除草剤を所持していたとの認定は破綻したのである。

  3、 私は、本再審請求において、刑事訴訟法第435条1号(証拠書類の偽造、変造)、2号(証言、鑑定の偽造)および6号(無罪を言い渡すべき明らかな証拠の発見)の再審事由を主張した。

   山平氏が、51年8月8日に鑑定を実施して、ビニールシートとカーテン地から、塩素酸イオンおよびナトリウムイオンを検出したとの事実は存在しない。従って、同条各号の再審理由があることが明らかである。すみやかに再審開始決定がなされなければならない。


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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)