北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第71回〜82回

第71回 「"発見"押収ネジは捏造されたもの」を立証する新証拠
●警察幹部は「佐藤写真撮影報告書」のネガフィルムをひそかに廃棄していました(68回コラムの再論)
 「佐藤写真報告書」は、里警部が8月10日に私の元居室の布団袋の中から"発見"押収したリン止めネジをカラー写真で撮影したものです(他のもの12枚も撮られていますが)。裁判所の証拠の開示勧告によって、同報告書のネガフィルムも開示されることになりました。しかし、8月10日以前と以降に撮られた他の写真のネガフィルムはちゃんと開示されたのですが、このネガフィルムのみが有りませんでした。検察庁へも届いていなかったのでした。

 道警のある人物(石原警視か彼に近い人物)が、ひそかに廃棄してしまったわけです。廃棄した理由は明らかです。ネガフィルムを拡大すれば、8月10日押収のリン止めネジにはドライバー傷はついていないことが判明してしまうかもしれない、と恐れたからです。証拠物の(検)766番のリン止めネジには、ドライバー溝にすぐに判るドライバー傷が3ヶ所に付いています。

 石原警視はリン止めネジを外部から持ち込んで"発見"を捏造させたのですが(実行者は里警部)、事態が急展開した捜査でしたから、石原警視は慌てており8月8日か8月9日に市内の時計店でシチズンのトラベルウォッチを購入して、リン止めネジをはずして里警部に持たせて"発見"を捏造させたのでした。しかし石原警視はその後に、多分8月22日か23日に、工作者(大森)は時限装置を作るために、ドライバーでリン止めネジをリンからはずしまた絞める作業を何回もやったはずだから、ネジにドライバー傷が付いていなければならないことに気付きます。傷が無かったら警察が捏造したと疑われてしまいます。それで、石原警視はそのリン止めネジに傷をつけたか、別のリン止めネジに傷をつけてスリ替えたのです。それが(検)766番のネジになっています。

 「佐藤写真報告書」のネガフィルムのみが廃棄されていたことが判明したことによっても、8月10日押収のネジには傷が無かったことが明らかになりました。

【お詫びと訂正】 私は第68回コラムで、「佐藤写真報告書」のbWとbXの写真("発見"リン止めネジを撮った写真)のみ、現物ではなくコピー写真に差し替えられていましたと書いてしまいましたが、そうではありませんでした。ちゃんと現物写真が添付されています。弁護人と私との連絡がうまくいかなくて、間違ってしまったのでした。お詫びして訂正いたします。


証拠申請されなかった「松田写真撮影報告書」−不正証拠であるためです
 今回の裁判所の開示勧告によって、8月30日付け「松田写真報告書」とそのネガフィルムも開示されました。8月10日に押収したネジの拡大写真2枚が添付されている報告書です。撮影日は8月18日となっています。

 (1)拡大写真を眺めてみると、ドライバー溝に傷が付いているように見えます。つまり捜査側にとって重要な価値を持つ証拠です。もし真正な証拠であれば、当然1審の第3回公判で、他の多くの証拠とともに証拠申請されねばならないものです。しかし申請されなかったのです。ずっと隠されてきて、今回の開示勧告で初めて出てきた証拠です。しかも道警は検察庁へも送っていなかった証拠だと判断できるものです。不正証拠ゆえに証拠申請されなかったのでした。

 (2)もし8月10日押収ネジが傷が付いているネジであれば、それを拡大して撮らした「松田写真報告書」が不正証拠になるはずはありません。しかし、このネジには傷はないことは、以前も書きました8月21日付け「中島・本鑑定書」(単に中島鑑定書と言ってきたものです。8月16日から18日に実施)で、証明されていますし、「佐藤写真報告書」のネガフィルムが廃棄されていることでも明らかです。「松田写真報告書」が証拠申請されなかったことも、8月10日押収ネジには傷はなかったことを逆に証明しているのです。

 (3)どうなっているかといいますと、次です。石原警視は8月18日に松田氏に8月10日押収ネジの拡大写真を撮らしたのでした。傷のないネジです。しかしその後、石原警視は8月22日か23日に、傷が無かったらヤバイことに気付いて、傷をつけたネジを再び松田氏に撮らしたのです。しかし単独で撮らしたら松田氏が怪しみますので、「実はネジとあわせて撮る証拠物が2つあったが、私がミスをして撮らしていなかった。すまないが、8月18日の札を使ってもう一回ネジとこの2つを撮ってほしい」と言って撮らしたのでした。

 その2つとは、「コップ洗浄ブラシ」と「物入れ」です。開示されたネガフィルムの方にはこの2つも写っています。しかしこの「コップ洗浄ブラシ」は8月7日に押収された4個のコップ洗浄ブラシの1つです。私が市内のゴミステーションに8月7日に捨てたものです。そして既に8月8日に写真撮影されたものです。「物入れ」は押収されてもいないものです。2つとも拡大写真で撮る意味がないものであることはすぐ分ります。2つは、再度ネジ(傷がある)を8月18日の札を使って撮らすための口実として使われただけでした。

 石原警視は、松田氏が「報告書」を作成する段階になったときに、「2つはやはり不要と判断したので、ネジの写真2枚のみを添付する報告書にしてほしい」と指示したのです。こうして「松田報告書」には2枚のネジの拡大写真のみが添付されたのでした。石原警視は8月18日に撮らした傷の付いていないネジの写真とネガフィルムは、ひそかに廃棄しました。

 (4)石原警視はこの「写真報告書」を、もし弁護側が傷の問題を追及することになった場合にそなえて用意しておいたのです。追及がなければ、検察庁へも送致しない考えでした。そして私たちは1審、2審段階では傷のことに気がつくことができませんでした。上告審は証拠調べがありません。

 最初から検察庁へ送致してしまうと、検察官は当然証拠申請します。そうすると松田氏が公判で証人尋問されることになります。そうなれば、今書いたようなことが明らかになってしまうおそれが強いために、石原警視は送致しなかったのです。

リン止めネジに傷をつける偽造をしたこと(あるいはスリ替えたこと)が、8月10日のネジ"発見" 押収が捏造であることの証拠です
 8月10日に本当に布団袋の中からリン止めネジが発見されているならば、そのネジになにか不正の工作をすることなどありえません。「佐藤写真報告書」のネガフィルムを廃棄したこと、「松田写真報告書」を隠して証拠申請させなかったことは、8月10日押収ネジには傷はなかったこと、傷が後日偽造されたことを明らかにする新証拠です。それはとりもなおさず、8月10日のリン止めネジ"発見"押収が捏造であることを証明する新証拠なのです。


2015年7月19日記
大森勝久
第72回 岐阜・夏の長良川
一年間位裁判のことばかりを書いてきたので、今回は別のことを書くことにしました。札幌は7月中旬からは夏日が続いているのですが、その前が涼しかったためでしょう、蝉の鳴き声を初めて聞いたのは8月13日でした。チィゼミでした。今日は16日ですが、鳴き声はその日に聞いただけです。蝉の声を聞くと「夏が来た」という気になる私ですので、今年の夏は残念な思いです。多治見の実家はすぐ裏が小高い山でしたので、一日中蝉しぐれでした。

 大学時代を過した岐阜市でも、アパートのそばが神社で木が多くありましたから、毎日アパートまで蝉の鳴き声が聞こえてきました。アパートの庭の木で鳴くのもいました。南向きの窓からは夏色になった金華山(329m)を 望めました。1.7q程先です。金華山の手前(北側)を長良川が流れています。今回は私がとても好きな写真を4枚掲載してもらうことにしました。
                                    
  
  (1)の写真↑。長良橋の上流側(東側)の南側堤防のすぐ下の場所から北側を撮ったものです。赤い屋根の屋形船が何艘もあります。小さくて見ずらいですが長良橋の下流の浅い所で多くの人が泳いでいますし、河原にも多くの人がいます。橋脚のところにもかなりの人影が見えます。
   
 (2)の写真(上、右側)。同じ場所から上流方向を撮ったものです。北側に大きいホテルが3つ見えてます。一番左がすぎ山ホテル、一番右がグランドホテルだったと思います。グランドホテルは3つの中では一番新しいホテルです。グランドホテルの真北方向約600mに私の大学・岐阜大学の教育学部と教養部の長良キャンパスがありました。今は全学部の教育・工学・農学・医学部が統合されて長良橋よりかなり下流の場所に移転しています。見える山は百ヶ峰(ももが峰)といい、そのふもとに2年の6月末頃まで入っていた教育学部の男子寮(望峰寮)がありました。
                                     
 
  (3)の写真↑。長良橋の上から上流方向を撮ったものです。100人以上の人が川に入って遊んでいます。私もよく泳ぎに来たものです。私は大学3年の1年間だけ水泳クラブに入っていました。よく横断したものです。彼女とも2度ここで泳ぎました。当時(1970年)は、ここまで乗り入れてくる車はもっと少なかったですね。これらの写真は岐阜の友人が1983年8月に撮ってくれたものです。1994年7月に同じ所を撮った写真では、誰も泳いでいませんでしたから、遊泳禁止条例が作られたのでしょう。岐阜市は馬鹿なことをしたものです。
   
 (4)の写真(上、右側)。これは長良橋を渡り切って北端から金華山入れた東南方向を撮ったものです。山頂に岐阜城が小さく見えます。山腹(右端)にロープウェイの塔が白く見えています。私はロープウェイには一度しか乗ったことがありません。大学2年の時に数学科一同(29人)で山頂まで行ったときのことです。登山道を歩いて登ったことは3度ありました。1回は彼女と3年生の時ときに。(1)(2)の写真に屋形船が写っていますが、鵜飼(5月〜10月)をするのはこの流域です。アパートからも金華山はこのような姿で遠望できました。

 アパートから街の中心部へ出るときは、バスで長良橋を通ります。1年、2年生の2年間は家庭教師のアルバイトで週2回はバスで通りました。(1)〜(4)は何度も目にしたとても好きな光景です。私はほとんど毎日、冬でもこれらを含めて岐阜の写真を眺めて楽しんでいますが、夏に見る写真はやはり格別です。ふるさとはいいものです。

2015年8月16日記
大森勝久
第73回 証拠の分析・評価は科学によって行われなくてはなりません 
「8月10日発見押収のリン止めネジ」は外部から持ち込まれた捏造証拠です
 (1)8月10日(逮捕当日)、私の(元)居室の布団袋の中から「発見された」とされる押収リン止めネジには、目立ったドライバー傷はありませんでした。そのことは、裁判所の「証拠開示勧告」に従って検察官が開示した「8月21日付け中島鑑定書」(8月16日から18日に検査)によって証明されています。中島氏は1審48回公判でも「特徴のないネジである旨」を証言していますし、「発見者」の里警部も「特徴なし」と証言しています(46回公判)。

 しかし、法廷に証拠物として出てきたリン止めネジには、目立つドライバー傷が3ヶ所についていたのです。吉村新鑑定書です。事実上の捜査指揮官である石原警視がその後に傷をつけたのです(第71回コラム参照)。

 8月10日に「発見された」というのが真実であれば、仮に目立つ傷がついていないネジであろうとも、そのネジに違法な工作をすることはありえません。道警は8月7日には私がゴミステーションに捨てたダンボール箱を押収して、工具類や器具や書籍などを手に入れていましたから、これらと合わせれば私が時限装置を作っていたことの立証はできるからです。「発見押収ネジ」に違法工作をした事実こそ、「発見押収ネジ」が捏造物であることを証明する事実なのです。

 (2)裁判所が「開示勧告」したものの中には、写真のネガフィルムもありました。8月10日前に撮った写真のネガフィルムも、8月10日に撮った白黒写真のネガフィルムも、8月10日以降に撮った写真のネガフィルムもちゃんと開示されました。しかし、8月10日に撮った写真のうちの、「発見ネジ」等を撮ったカラー写真のネガフィルムのみ、検察庁へも送られてなく、道警にも存在しないということが判明したのでした。つまり、石原氏かその命を受けた信頼された人物が、このネガフィルムを秘密裏に廃棄してしまったということです。その時期は、私たちが「傷」を問題にし始めた上告審(1988年1月〜1994年9月)の時だと考えられます。もしネガフィルムの開示勧告がなされたら、それを拡大されたら発見ネジ(8月10日)には傷がないことが判ってしまうとおそれたためです。このネガフィルムのみが処分されていたことも、「発見押収ネジ」が捏造物であることを証明する事実です。

 (3)道警は「発見押収ネジ」を捏造したことを隠すために、「演技の捜査」を行いました。石原警視は証人として出廷すると、「8月10日に発見押収したネジにつきまして、8月15日なって、何に使われるネジだろうかということで、市内の聞き込み捜査を指示しました」と証言したのです。8月15日、3人の警察官が時計店へ聞き込みに出向いています。この捜査は、「道警ははじめは発見押収ネジの重要性を全く認識していなかったのだ」と、私たちや裁判官また傍聴するマスコミ記者を騙すための「演技としての捜査」でした。

 道警は、中島氏への「発見押収ネジ」の測定等の鑑定嘱託も、やっと8月13日になって行っていますし、「発見押収ネジ」の拡大写真も8月18日に撮っています。8月10日にカラー写真で撮った「発見押収ネジ」等の「写真撮影報告書」も8月28日に作成しています。すべて「発見押収ネジ」の重要性を認識していなかったとアピールするための「演技の捜査」です。そしてこうした捜査を積み重ねて、道警は8月28日付け中島氏への鑑定嘱託、8月29日付け中島鑑定書で、やっと「道庁爆破の時限装置は、2本のリン止めネジ(マイナスネジ)の代わりに互換性のあるケース止めネジ(プラスマイナスネジ)が使われているという特殊なネジの使われ方がされている。したがって犯人の元にはリン止めネジ2本が残ったことになる」と記載するに至るわけです。つまり、道警はここに至って「発見押収ネジ」の重要性を認識したというわけです。だから、道警は「発見押収ネジ」の捏造なんかしていませんよとアピールしたわけです。

 しかしながら、中島氏は私たちに追及されると、道警爆弾捜査本部はもう4月、5月の段階で犯人の元にリン止めネジ2本が残されたことを認識していたことを証言したのでした。だから、もしも「発見押収ネジ」が真実ならば、道警は8月10日付けで中島氏に鑑定嘱託をして、8月11日には「8月29日付け中島鑑定書」と同じものを作成しています。8月10日のうちに、ネジの拡大写真も撮っていますし、8月10日の発見時にカラーフィルムで撮ったネジやその他の「写真撮影報告書」も至急作成させています。

 道警が前記のような「演技の捜査」を行った事実は、「8月10日発見押収ネジ」が外部から持ち込まれた捏造証拠であることを十二分に証明しています。今回、裁判所の開示勧告によって開示された証拠の中には、「演技の捜査」を示す証拠が多くあります。新証拠として申請していきます。なお「松田写真撮影報告書」の新証拠の意義は、第71回コラムで書きましたので今回は割愛しました。

証拠の分析・評価は科学によって行われなくてはなりません
 私が前記(1)(2)(3)で主張したことは科学です。つまり完全に正しいのです。科学とは正しい論理であり、数字や数値のことではありません。数値はどれだけでも誤魔化すことができます。

 日本では、裁判でも国会審議でも政府の報告書でもあるいは学者の論文でも、科学を否定した、事実の無視や歪曲また捏造、そして「言葉の表現」で誤魔化す主張が余りにも多いのです。永遠の真理・正義である<法>、その<法>の支配が無いためです。日本にあるのは、<法>の支配と対立する「法治主義」です。<法>の支配とは、政府も一般国民も<法>に支配されることを言います。真理・正義に支配されるということです。「法治主義」では、人間の方が法律を都合よく解釈してしまいます。法律を否定することもあります。あるいは自分たちに都合のいい法律を作ってしまいます。「人の支配」です。この在り方は科学に反するものです。だから上記のようなことになっているのです。


2015年9月14日記
大森勝久
第74回 山平真氏は間接的に「山平鑑定不存在」(つまり捏造)をアピールしていたのです
山平鑑定とは
 山平鑑定(8月28日付け)とは、私が8月7日にゴミステーションに捨てた37点の物を化学鑑定した結果、ビニールシートとカーテンの2点から塩素酸ナトリウム(除草剤として売られていた)の付着反応が検出され、これによって大森が除草剤を所持していたことが明らかである、と認定されることになった鑑定です。塩素酸ナトリウムは混合火薬(道庁爆破の火薬)の主原料です。

 道警刑事部犯罪科学研究所吏員の山平真氏は、「8月8日から8月20日まで37点の検査をしました。8日は本実と一緒に分担して行いましたが、9日からは自分ひとりで検査をしました」と証言していました(1審)。

 実は、山平氏はこの鑑定は一切行っていないのです。本実氏らが37点の検査をしたのでした。しかし除草剤の付着反応はなかったのです。私の元居室も隅々まで付着物を採取して2度にわたって鑑定をしましたが、除草剤付着反応はなかったのです。8月20日までに判明。捜査の実質的指揮官である石原警視は、本実氏らに除草剤付着反応があったという偽の鑑定書を作ることを求めたのですが、彼らは拒みました。そのため石原氏は、本事件の鑑定に一切タッチしていなかった山平氏(3月2日の事件当時山平氏は北海道大学に聴講生として通って研究をしていました。76年1月から3月です。私の逮捕の8月も北大の研究論文にとり組んでいました)に白羽の矢を立てたのです。8月21日頃と思われます。

 山平氏は捏造鑑定書を作ることに抵抗しています。彼は表面的には「鑑定をやった」と証言してますが、具体的な証言等において、「自分は山平鑑定を実施していません。これは捏造です」ということを弁護側と裁判官にアピールしていたのです。しかし確定審(1審2審上告審。1977年2月〜1994年9月)の段階では、私たちはそのことを認識できませんでした。私は第1次再審請求審(2002年7月〜2011年12月)において、そのことを認識して、私の再審請求書をその立場から作成して裁判所へ提出しました。

山平真氏は「山平鑑定不存在」をアピールしていました
 私は第73回コラムで、証拠の分析・評価は科学によって行われなくてはならないと述べました。この立場で山平氏の証言等を分析して評価してみましょう。

 (1)山平氏は「8月8日の朝に鑑定資料37点が科研(刑事部犯罪科学研究所)に届きました」と証言していました(1審)。これは虚偽の証言です。理由は以下です。

 37点中32点は「指紋検出」の資料にもなっていたのです。そして32点の指紋検出作業は8月9日に実施されました。ですからこの32点は8日に科研に届くことはありえないのです。捜査指揮官の石原氏は、証人出廷して捜査方針について、「まず指紋を検出する。それが終わり次第、化学鑑定に回す」と決定し指示したことを証言しました。化学鑑定を先にやってしまうと指紋は消えてしまいます。しかし指紋検出をした後でも、化学鑑定はできるためです。残りの5点は、指紋検出資料には指定されませんでした。この5点だけが化学鑑定のために8日に科研へ届けられたのです。32点が科研に届いたのは指紋検出を終えた9日でした。なお、指紋捜査は、道警は「共犯の存在」を考えますから共犯捜査上、不可欠の重要な捜査なのです。

 山平氏が上手に捏造鑑定書を作るとしたならば、(1)のような嘘がバレてしまうような証言はしません。「8日に5点が届き、9日に残り32点が届きました」と事実どうりに述べればよいのです。山平氏はあえて(1)の虚偽証言をすることで、「私は山平鑑定をやっていません」と間接的にアピールしていたわけです。山平氏は「8日は最も汚れがひどいビニールシートとカーテンから始めました。本実が軍手を検査しました」と証言していたのです(1審)。しかしビニールシートとカーテンは指紋検出資料の32点に含まれていますから、8日には届くことはありえません。9日に届いたのです。

 (2)山平氏は「8日に届いた資料の1つに大きな黒色ビニール袋(ゴミ袋)がありました。その中に微量(0.15グラム)の木炭末があるのを発見したので、私が白い薬包紙に包んでおきました。それが1点とカウントされて資料は37点ということになりました。最初は36点として届いたのです」と1審で証言しました。これも虚偽を意図的に述べたものです。そうすることで「私は鑑定をやっていません。この鑑定は虚偽です」と間接的にアピールしていたのです。

 この微量の木炭末(0.15グラム)は、既にちゃんと8月7日付け「領置調書」に独立した項目として記載されているものなのです。それが化学鑑定資料として届けられるときは、紛失しないように白い薬包紙に包んで、更にそれをもう少し大きめのビニール袋に入れて「木炭末」と書いて届けられます。黒色ビニール袋(ゴミ袋)の中に裸のまま入れて届けることなどありえません。紛失してしまいます。それに、黒色ビニール袋は指紋検出に回されましたから8日には届きません。

 8日に届いた鑑定資料の5点とは、この木炭末(0.15グラム)と軍手とザル3個です。この検査をしたのは本実氏(科研の所長)です。8日は日曜日です。山平氏は日直のためにたまたま出てきていたにすぎません。しかし8日には上の5点しか届かなかったこと、また木炭末のことを知ったのです。これを利用して前記のように虚偽の証言をして、山平鑑定の信用性をゼロにしようとしたのでした。

 (3)山平鑑定書は8月28日付けです。8月8日から20日に実施となっています。「鑑定結果」欄には「ビニールシート、カーテンから塩素酸イオンを検出」としか書かれていないものです。これでは、塩素酸ナトリウム(除草剤)が付着していたことにはなりません。塩素酸カリウムという物質(これも混合火薬の主剤)もあるからです。「ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性」が加わって、初めて塩素酸イオンが付着していたことになります。これによって、山平氏が捏造に加担することに抵抗していたことがよくわかります。

 「鑑定経過」欄には「ナトリウムイオンの炎色反応が陽性」と記されていますが、カリウムイオンについては何も記載がされていません。普通に解釈すれば、カリウムイオンの検査はしていないということです。そして「塩素イオンは擬陽性」とありますから、ナトリウムイオンの相手の陰イオンは塩素イオンであること、つまり微量の塩化ナトリウム(汗)がビニールシートやカーテンに付着したとも考えられる記載にしてあります。塩素イオンよりもナトリウムイオンの方が検出されやすいからです。

 問題は、塩素酸イオンの相手の陽イオンのことです。もしカリウムイオンの炎色反応検査をしていれば陽性となって、塩素酸カリウム(マッチの頭薬)が付着していたことになるとも考えられる記載にしてある鑑定書でした。

 私は除草剤はまだ入手できていなかったために、マッチの頭薬をつぶすことをしていました。8日に軍手の検査をした本実氏は、軍手に塩素酸カリウムが付着していることを溶液内検査で検出していました。山平氏はそのことも知っていました。だから軍手に付着していたものが、ビニールシートとカーテンにも移ったのである、ということにしようとしたのです。

 そのために山平氏は、「8日資料37点は全て裸のままで一括して大きなダンボール箱に入れられて届きました」と嘘の証言をしたのです。もちろんこのように言うことで、鑑定全体の信用性もゼロにしようと考えたのです。資料はそれぞれちゃんと名前を書いたビニール袋に入れて区別されて届けられるのです。常識です。

山平氏の「電話中間回答報告書」(8月8日2時30分)について
 1審で(3)で述べた鑑定書の記載内容を弁護側が追及したため、石原警視は2審において山平氏に、「電話中間回答報告書」を捏造することを命じました。こうして「電話中間回答報告書」が捏造されたのです。資料名と検査項目と検査結果を記載した「別紙」のビニールシートとカーテンの欄には、「ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性、塩素イオン擬陽性、塩素酸イオン陽性」と記載されました。8月8日午後2時30分に電話で中間回答をしたということにしてあります。

 (4)山平氏はこの「電話中間回答報告書」の信用性はゼロであることをアピールするために、「別紙」の一番上の欄に「ポリバケツ」と記入し、その検査結果も記入したのです。このポリバケツは私が使用していたものですが、8月19日に大家のN氏が任意提出して、同日に領置された証拠物なのです。8日に検査できるはずはありません。

 (5)山平氏は「別紙」に20個の資料名を書き込みました。ポリバケツ、ヘラ2点、スプーン6点、ビニールシート、カーテン、軍手、コップ大4個、コップ小3個、ザル1個、青ビニールザル2個です。さらに山平氏は「1つ1つ別々に水溶液を作り濃縮して各種の検査をしました」と嘘の証言をしました。コップでいえば7つの水溶液を作ったことになります。つまり20の水溶液をつくり濃縮して、それぞれにおいて塩素イオン、塩素酸イオン、過塩素酸イオン、硝酸イオン、亜硝酸イオン、アンモニアイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオンの検査をしたと証言したのでした。

 20点のそれぞれの資料の付着物の採取と溶液づくり(20の水溶液)、濃縮作業と各種検査を一人でやるとすると、中間報告をしたとされる2時30分までに終えることは到底不可能です。山平氏はこのような電話中間回答報告書を作り、また証言をすることで、「山平鑑定は不存在で捏造です」と間接的にアピールしていたのです。

 (6)山平氏は1審の証言では、「8日は最も汚れがひどい(付着が多い)ビニールシートとカーテンを私がやり、軍手は本実がやりました」と証言していました。また「8日の夕方までにビニールシートとカーテンの塩素酸イオンの検出までをやりました」と述べて、この2点も他の検査項目はまだやっていない旨の証言をしていました。もちろん、その他の資料は8日は検査していないということです。20日までかかってやったということです。

 ところが2審になると、山平氏は「電話中間回答報告書」のように8日の2時30分までに大部分の検査を終えたと変えたのです。さらには「8日は日曜日でありました。私は1審の時は平日だと考えてしまい、本実と一緒にやったと証言しましたが、それは私の勘違いでした。8日は日曜日なので本実は休みでした。だから私一人でやりました。軍手も私がやりました」と証言を変えたのでした。本実氏は8日にちゃんと出勤して5点の検査をしています。さらに別の鑑定嘱託にもとづく検査もやっています。

 山平氏はこのように証言を大きく変えることで、電話中間回答報告書は全く信用できないこと、捏造物であること、山平鑑定は不存在であることをアピールしようとしたのです。

第1次再審請求審における山平氏の新証言―真実を証言しました
 山平氏は前述のように、間接的に「山平鑑定」は不存在で捏造物であることをアピールしてきたのですが、裁判所はそれを受け入れることは「不都合」なので、科学を否定して、「山平鑑定書、山平電話中間回答報告書そして山平証言によって、ビニールシートとカーテンに除草剤が付着していたことは明らかであり、大森は除草剤を所持していた」と判示したのでした。そのため、第1次再審請求審に証人として出廷した山平氏は、間接的にですがより一層明白に「山平鑑定不存在」(捏造)をアピールするために証言したのでした。

 (7)山平氏は1審の時、「8日私はビニールシートの付着物を採取するために裏面の一部を切断しました」と証言していました。8日にはビニールシートは届きませんから、もちろん虚偽です。山平氏は今度は次のように真実を明らかにしたのです。「私は8月9日、科研に持ち込まれた鑑定資料を本実ら一同が手分けして検査の準備をするのを見ています。本実たちがビニールシートの一部を切断するのも見ています」と。そして「私は9日以降一切この鑑定にはタッチしていません」とも証言したのでした。

 これは、山平氏がこの鑑定には一切関与していない事実を吐露した証言です。そして5点は8月8日に本実氏がやり、残りの32点も9日に本実氏たちが検査したという真実を証言したものです。もしそこで除草剤の付着反応が検出されていれば、本実氏らの名義で鑑定書は作成されますから、除草剤の付着反応はなかったということです。一切関与していない山平氏が作成した山平鑑定書等は、当然捏造物であるということです。

 私がここに書いたことは科学です。真実です。私は「再審請求書」として裁判所へ提出しました。しかし、裁判所は科学を否定して、この山平氏の新証言を排除してしまいました。


2015年9月17日記
大森勝久
第75回 北海道の紅葉の思い出 
1974年秋国道36号線の紅葉ロードを札幌へ向ってよく走りました
 10月9日(金)は風呂の日でした。窓の隙間(2センチ程)から外の景色を見たのですが、紅葉はまだでした。3連休明けの10月13日(火)は風呂でしたが、紅葉が始まっていました。始まったばかりという状態でしたが、次の風呂の日の16日(金)には紅葉は盛りに入ってきたと思われる程に色があざやかに変わっていました。黄色とだいだい色です。ずっと遠くに見える伏古公園の木々も、黄やだいだい色が3分の1位になっていました。手稲山(千メートルちょっと)が初冠雪しましたから急に冷え込んできたのでしょう。平年より13日早い初冠雪とニュースで言っていました。これから2週間位が一番美しい季節になると思われます。

 ふるさとの多治見や岐阜の紅葉については以前書きました。今回は北海道のことを書いてみたいと思います。多治見や岐阜の紅葉は好きだった人や恋人だった人の思い出と結びついていますから、よく思い出しています。でも北海道ではずっと一人の生活でしたから、紅葉の感動もそんなに深いものにはならなかったといえます。それでも1974年の秋は私は紅葉を楽しむために、何度も苫小牧から札幌へ向って国道36号線を車でドライブしたものです。私は1974年6月末から翌年の6月末まで苫小牧でアパート生活をしていました。

 私はいろいろ調査をする必要があり(土)(日)の2日間を休日にしてもらっていましたので、紅葉が始まる頃から終わりまで天気さえよければ車を札幌へ走らせていました。36号線は千歳市と恵庭市の市街地を除けば両側が森なので、紅葉の中を走る感じでしてとても美しい光景だったのです。

 その他にも目的がありました。ひとつは、当時千歳には米軍基地があり、その近くを走るとカーラジオで基地で流していたラジオ電波が拾えてジャズ、ロック、ソウル、ブルース、カントリー、ポップス、ゴスペルなどの曲が聴けたのでした。私はカーラジオのボリュームを一杯に上げて音楽を聴きながら紅葉ロードを走りました。当時の私は反日左翼でしたから、このような曲を好んで聴いていました。

 もうひとつは、恵庭市を過ぎて「大曲(おおまがり)」という辺りになると、視界が急に開けて遠くに札幌の街がずーと広がって見えてきます。アメリカのような広々とした光景で、私はこの景色を見るのが好きでした。紅葉を眺めながら見ると一層いい気分になったものでした。

 もうひとつは、札幌の「ACT」というジャズ喫茶へ行くことでした。ススキノ横の南3条西5丁目にありました。季節にかかわらずよく行きました。苫小牧にはジャズ喫茶はありませんでした。コカ・コーラかコーヒーを頼んで1時間半以上は居たものです。

 紅葉がピークになったときに江別市にある野幌自然公園へも行きました。長い遊歩道があり黄やだいだい色や赤の紅葉のアーケードを歩きました。森の中にも分け入って行き楽しんだものです。北大のイチョウ並木も見に行きました。

 1975年の秋も車で紅葉を楽しむためにあちらこちら走っていましたが、苫小牧へ向けて走ったのは1度だけだった気がします(この時は札幌に住んでいました)。

 自然の美しさはありますが、それが胸に深く刻み込まれるためには恋人とかの人間関係があることが必要になります。札幌時代(1975年6月末から1976年)よりも苫小牧時代の紅葉の方が印象深いのは、苫小牧時代は青果・鮮魚店の配達の仕事をしていましたから、配達先の王子製紙の女子寮や男子寮やクラブのまかないの若い女性たちや病院の栄養士(女性)たちと顔見知りになり、仕事上の短い挨拶だけでしたがちょっとは人間的な関係があったからだと思います。

 来る10月29日と30日、東京から友人が面会に来てくれます。北大のイチョウ並木と札幌駅前通りの街路樹の紅葉と人波を写真に撮ってくれるようにお願いしてあります。今年はひょっとしたらピークを過ぎてしまうかもしれませんが、なんとかもって欲しいと思っています。


2015年10月18日記
大森勝久
第76回 警察は「発見押収ネジ」を捏造しその後更にドライバー傷が付いたネジにすり替える捏造を行いました 
●私たちは3つの方向から「発見押収ネジは捏造物である」を証明しています
 第2次再審請求では、第1次請求で主張した「山平鑑定は不存在である」(捏造)を引き続いて別の新証拠によって主張するとともに、「8月10日の発見押収ネジは外部から持ち込まれた捏造物である」という新しい主張を行っています。後者を中心に展開しています。本コラムでも「発見押収ネジは捏造」について書いていきます。

 私たちはこれを3つの方向から証明しています。
@ひとつは、「発見状況の不自然さ」を明白にしています。
Aもうひとつは、もともとの発見押収ネジにはドライバー傷は付いていなかったこと、その後にドライバー傷が付いたネジにすり替える捏造がなされて、(検)766番の発見押収ネジになったことを明らかにしています。発見押収ネジが真正なものであるならば、それを別のネジにすり替えることはあり得ません。(検)766番の発見押収ネジにはドライバー溝に3ヶ所にくっきりとしたドライバー傷がついていますから、もともとの発見押収ネジには傷はなかったことを明確にすれば、それは外部から持ち込まれた捏造物だとなります。
Bもうひとつは、「演技の捜査」が長々と展開された事実を明白にしています。警察は8月10日の発見押収ネジを捏造しましたから、「警察はそのネジの重要性を認識していなかった」とアピールするための「演技の捜査」を長々と展開したのです。重要性を認識していなかったのだから捏造するわけがないじゃないか、というわけです。

  @については40回コラム、42回、43回で書きました。Aは47回、50回、51回、58回、65回、66回、67回、68回、71回で書きました。Bは47回、49回、69回、70回、73回で書きました。

布団袋が開示されました−高さ(深さ)は80cmではなく68cmでした/道警は布団袋を検察庁へも送っていませんでした
 私たちは警察の8月16日付け「検証調書」にある布団袋の寸法、高さ(深さ)80cmを基に「再現実験」をしてきました。里警部は「布団袋を2人に持たせて浮かせて、自分が手を中に入れて布団袋の底の中央部をトントンと叩いてゴミを集めました」と証言していたのですが、私たちは「再現実験」で手は全く底に届かないことをDVDに撮り、反論してきました。だけど証拠開示された布団袋の深さは68cmでしたので、手は届きます。私が42回コラムで書きました「手は届かない」の部分は誤りですので撤回いたします。その余の主張は正しいものです。

 なお、警察は布団袋を検察庁へも送致していなかったのです。裁判所の開示勧告を受けて、検察官が道警から「未提出証拠」を提出させて、つまり布団袋も提出させて、開示となったのでした。道警が布団袋を送致しなかった理由はひとつしかありません。布団袋の中にあったとする「発見押収ネジ」は捏造されたものであり、里証言は虚偽であるからです。

もともとの「発見押収ネジ」にはドライバー傷は付いていなかった−新証拠・西川英明警部の8月15日付け「追跡捜査結果報告書」
 西川警部の上記「捜査報告書」も今回の開示された証拠の中にありました。この「報告書」によってもネジにはドライバー傷がついていなかったことが明白です。「演技の捜査」として石原警視は、8月15日に西川警部、鶴原警部補、谷内警部補に市内の時計店への聞き込みをさせました。西川警部の「報告書」には次のように記載されています。

 「徳永時計店に赴き、当該ビス〔発見押収ネジのこと〕が時計の部品として使われているかどうかを質問したところ同店専務徳永行弘は、当該ビスを手に取って調べてから同店店舗に陳列してある各種の時計を持ち出して一致するか点検したあと、″このビスはシチズンのトラベルウォッチの裏ぶた止め金のネジに一致します。(……)″と述べていた」。

 鶴原警部補は1審47回公判で、〈徳永時計店の専務が店の時計を4、5個出してきて、リン止めネジをはずして、そこに発見押収ネジを入れてみると、シチズンの2種の時計にぴったりと合った。それで徳永の専務からリン止めネジ1本を借りた〉旨を証言していました。

 (1)もしこの「発見押収ネジ」が(検)766番の傷がくっきりと3ヶ所に付いているネジであれば、徳永の専務は「手に取って調べた」のですから、西川警部らに必ず「このネジはドライバー溝に3ヶ所ドライバー傷がありますね」と言って確認させることをします。なぜならば、専務はこの発見押収ネジをドライバーを使って4、5個の時計のリン柱に入れてみる作業をするのですから、その作業によって傷ができたと言われないようにするためです。しかし専務のそういう発言はありません。

 (2)このネジが(検)766番のネジであれば、石原警視はネジを西川警部に渡すときに必ず、「ネジにはこのようにドライバー傷が付いている。聞き込み捜査ではこの傷を変形させないように先方にはしっかりと伝えて検査等をしてもらってくれ」と言います。西川警部は「報告書」の中でそういうことは言っていません。

 (3)そもそも傷がある(検)766番のネジであれば、演技の捜査であってもまず「科研」の中島富士雄吏員に「発見押収ネジ」を渡して、傷の具合をしっかりと検査させ拡大写真を撮らせます。それから時計店への聞き込みです。しかし中島氏が「発見押収ネジ」を検査したのは8月16日から18日です。

 (1)(2)(3)から「発見押収ネジ」にはドライバー傷がついていなかったことが証明されます。西川警部の8月15日付け「報告書」はそれを証明する新証拠です。

「73回コラム」の修正
 私は「第73回コラム」の1節目の(2)で、8月10日に「発見押収ネジ」等を撮ったカラー写真(8月28日付け「佐藤写真報告書」)のネガフィルムは、上告審中にひそかに廃棄されたと考えられますと書きました。でも、これは間違いだと考え直しました。8月28日付け「佐藤写真報告書」が作成された時に、石原警視はネガフィルムは証拠として保管しないことにしたのです。廃棄した。石原警視が実質的な捜査指揮官だからこれが出来ます。


2015年11月12日記
大森勝久
第77回 道警がリン止めネジをねつ造した理由
道警は逮捕・家宅捜索しても道庁爆破事件の直接証拠等有力証拠は得られないだろうと考えて「リン止めネジ」をねつ造しました
 (1)一般的に、犯行後間もないうちに犯人を突き止めて逮捕し家宅捜索する場合は、犯行を直接立証できる証拠(直接証拠)が手に入る可能性は高まります。しかし時間が経過してしまえば、直接証拠を得ることは困難になります。有力な間接証拠についても同様です。犯人は犯行を裏付ける証拠は処分していくからです。

 (2)道庁爆破事件(混合火薬を使った消火器爆弾)は1976年3月2日午前9時02分です。私の逮捕は5カ月以上経った8月10日でした。道警は私の存在をつかんでいませんでした。同年7月2日に岐阜県内で起った「可児町事件」(K氏は夜中山の中の道をショッピングカートをひいて歩いていて、通りかかったパトカーに職務質問を受けて派出所へ連行されたのですが、ショッピングカートを置いて逃走しました。ショッピングカートには混合火薬の主剤である除草剤や木炭粉末、硫黄粉末、乳鉢・乳棒、爆弾教本「腹腹時計」などがあり、K氏が全国指名手配された事件)が発生し、岐阜県警は7月16日に道警に対して、「Kはアイヌ問題に関心を有している。Kと友人の大森とは同志の関係にあるから、大森はKの立ち回り先である」と通報してきたのです。その前の7月9日に岐阜県警は道警に大森の現住の有無を照会し、道警は調査して答えています。

 これによって道警は初めて私の存在を認識したのでした。そして「Kの立ち回り先」として7月20日から私の内偵を開始したのです。私は「可児町事件」を知り、7月8日から姿を隠していました。東京へ出ていました。一旦7月20日にアパートへ戻り22日午前中に会社へ行って支店長に会った後また22日の午後に札幌を出て東京へ向かいました。7月20日21日とアパートで寝たのですが、道警は私の在宅は知りませんでしたので、このときは昼間だけの、しかもゆるい監視だったことになります。

 私はその後8月6日午後4時頃にアパートへ戻ります。道警はこのときには10分後位に窓が開いているのを確認しているので、相当しっかりした監視体制がしかれていたことがわかります。つまり道警は内偵によって、私が7月下旬から在宅していなく姿を隠していることを知り、「大森は単なるKの立ち回り先ではなく、大森自身が爆弾闘争を志向している人物だと考えられる。そうでなければ姿を隠したりしない。大森と道内で発生した爆弾事件との関連性が出てきた」と判断したわけです。

 (3)道警はアパートの向かいの事務所の2Fを夜間監視するために使わせてもらうことにしています(8月6日私の帰宅後)。私は暗くなってから物を車に積み込みました。2本の消火器を入れたナップザックと大きな茶箱1個(硫黄が入っている)です。夜8時過ぎ車を出発させました。道警はすぐ車で尾行しましたが、1本道になり気付かれるおそれがあると思ったとき、自ら尾行をやめたのでした。だから私は尾行はないと思い込んでしまいました。幌見峠へ向かい谷へ向かってそれらを捨てました。道警は私がどこに捨てたかは分っていません。

 翌8月7日は私は朝からダンボール箱3個と茶箱1個(木炭が入っている)、タイガージャー1個(硫黄が入っている)、ナップザック(木炭末の入ったタッパーが入っている)を車に積み、午前8時30分頃に出発し、すぐ近くの繁華街の北24条の交差点近くのゴミステーションにダンボール箱3個を捨てました。車で尾行してきた道警は直後に押収していますが、私は車も多く尾行はないと思い込んでいました。私はそのまま昨夜とは反対側から幌見峠へ向かいました。道警は私が峠へ登っていく道へ入ったところで尾行をやめたので、私はつけてくる車はないと判断して谷側へ残りのものを捨てました。

 (4)ゴミステーションから押収・領置したダンボール箱3個の内容物は、7日午後に道警幹部によって検分されました。木炭末で黒く汚れたビニールシート、カーテン地、軍手、網かごがあり、また黒く汚れた計量カップ、スプーン、ヘラがあり、またテスターやペンチ、ドライバー、接着剤などがありました。混合火薬を作る器具や時限装置を作る工具です。また反日思想を示している雑誌の切り抜きや本、火薬や爆薬 についてまとめたレポート用紙がありました。本にはコメ印記号が多数手書きされていましたが、道庁爆破の声明文には3ヶ所にコメ印記号が手書きされていたので、共通性として「有力な証拠」と見られました。道警幹部は協議して8月7日に、私に対して「北海道庁爆破の容疑あり」としたのでした。

 道警は8月8日の朝から、幌見峠一帯の大捜索を開始しました。7日私が幌見峠へ登っていく道へ入ったのを見ているからです。8日午後2時過ぎに私が6日夜に投棄した2本の消火器と硫黄の入った茶箱(硫黄は周りにこぼれ散っていた)を峠で発見し領置しています。7日に投棄した物は全て8月12日に発見・領置しています。

 また道警は7日にゴミステーションで領置したビニールシート、カーテン地、軍手、網かごなど37点の化学鑑定も実施しました。刑事部犯罪科学研究所の山平真氏を除く本実氏らが鑑定を行い、9日に除草剤の付着反応はないとの結果が出たのでした。幹部はこの鑑定結果は期待はずれだったはずです。

 (5)私は8日の朝、歩いて尾行してきた道警の一人を問い詰めています。9日昼私は東区役所で転出手続きをしました。道警は直後に確認しています。
  幹部の石原警視(実質的な捜査指揮官)はどう考えたでしょうか。道庁爆破の消火器は10型という大型消火器でしたが、8日に幌見峠で発見・領置した私が捨てた消火器2本も10型でしたから、「重要な証拠が手に入った。大森の道庁爆破容疑は更に深まった」と考えたでしょう。しかし7日と8日に領置した証拠は、私が反日爆弾闘争を志向し、実際に混合火薬作りをしているところまでは証明できる証拠ですが、当然のことですが道庁爆破の実行犯を証明できるような証拠ではありません。それらの証拠を私が道庁事件の前から持っていたとしてもです。道庁事件とは無関係に別の爆弾闘争をめざしていたとの見かたが成立つからです。

 石原氏は次のように考えたとみて間違いないでしょう。「大森は8月6日にアパートに戻るとすぐ物を投棄して証拠隠滅を図っていった。尾行して投棄物を押収・領置したが、除草剤はなかった。Kが持っていた混合火薬を作るのに使用する乳鉢と乳棒もなかった。秤や電気ドリル(道庁事件の消火器と時計のリンには電気ドリルで孔が開けられていた)やテープライター(道庁事件の声明文はテープライターで打刻されていた)もなかった。大森は道警が内偵を始める前にも重要な証拠を捨てているはずだ。幌見峠の捜索はさらに徹底的にやらなくてはならない。道外へ逃げようとしている大森を爆発物取締罰則第3条違反容疑で別件逮捕して家宅捜索しても、居室内の除草剤の反応は別として、もはやこれらの重要証拠が居室から見つかることはありえない。大森を道庁爆破容疑で再逮捕(9月1日に再逮捕される)するためには、爆取3条容疑での逮捕日(8月10日逮捕された)当日の家宅捜索で、リン止めネジが発見されたこと(ねつ造)にするしかない」と。

 (6)道警は道庁爆破事件の捜査で、時限装置のシチズンのラベルウォッチ・ツーリスト024のネジの使い方には特徴があって、リン止めネジ2本(マイナスネジ)の代わりにケース止めネジ2本(プラス・マイナスネジ)が使われており、犯人の元にリン止めネジ2本が残されたことを、4月までに把握していました。シチズンのトラベルウォッチには59種類があり、リン止めネジはすべて同一規格ではあるのですが、犯人の元に残されたリン止めネジと同じリン止めネジが、(8月10日)逮捕日に大森の居室の処分し忘れそうな場所から「発見された」ということになれば、それは道庁爆破容疑での再逮捕に向けて「極めて重要な証拠」になります。

 (7)石原警視は多分8月9日に市内の時計店でシチズンのトラベルウォッチを買い、リン止めネジをはずして(だからドライバー溝にはキズがついていないネジ)、それを里警部に渡して適切な場所(布団袋の中ということになった)から「発見された」ということにさせたのでした。

 (8)石原氏は、2回にわたって居室の隅々までガーゼや脱脂綿で拭きとって化学鑑定させたのですが、除草剤の付着反応はありませんでした。8月20日までに判明。それでこれまで一切鑑定にタッチしてこなかった山平氏に命じて、8月7日にゴミステーションで領置した37点のうちのビニールシートとカーテン地の2点から除草剤の付着反応が検出されたという鑑定書(8月28日付け)をねつ造させたのでした(しかし山平氏は抵抗しました。これについては第74回コラムを参照してください)。

 (9)石原氏は佐々木警視に命じて、目撃証人藤井昭作氏を誘導して「3月2日の朝道庁前の道で見たA男B男二人連れ(道庁へ入っていく時はバックを持っていたが、2分後に出てきたときは手ぶらであった)のうちのA男は大森にそっくりである。同一人物であると思う」というねつ造調書(8月18日付け)を作成させました。

 (10)石原氏は8月14日に民間人の書道家金丸氏に筆跡鑑定依頼し、そして「声明文のコメ印と大森の本のコメ印は同一筆跡である」という鑑定書(8月23日付け)を作らせていきました(公判で金丸氏は私たちに追及されると、「筆跡は異なります」と認めざるを得ませんでした)。

 (11)道警は発見リン止めネジや山平鑑定書や藤井調書や金丸鑑定書などを持って、9月1日に私を道庁爆破容疑で再逮捕していったのでした。道警はこれらのねつ造証拠によって初めて逮捕することができたのです。なお(5)に掲げた物はどこからも発見されませんでした。私はそれらを持っておらず捨てていないのですから当たり前です。
 

2015年12月3日記
大森勝久
第78回 弁護士が12月22日再審請求補充書(三)を提出しました
●補充書(三)の章立ては次のようです
 裁判所は以前から「補充書」があれば12月までに提出してほしいと言ってきていました(3月に「決定」を出すつもりなのです)。弁護士は12月22日、補充書(三)を提出しました。章立ては以下のようになっています。

第1 本件ねじはねつ造である
 1、本件ねじの測定値の重要な違い
 2、発見ねじのねつ造とねじのすり替え
 3、ねじに関する不自然な捜査
第2 検察官の平成25年12月25日付再審請求に対する意見書に対する反論
 1、「(1)『山平鑑定の不存在』に対する反論」について
 2、「(2)『本件ねじの不存在』に対する反論」について
第3 最後に

 簡単に内容を抜粋して紹介していくことにします。

「第1の1」の内容(抜粋)
 「中島・本鑑定書〔8月21日付〕の対象ねじと吉村回答書〔8月26日付〕及び吉村鑑定書〔9月13日付〕の対象ねじの測定値が、2ないし3点に渡って重ならないということは、双方のねじが別物であることを意味している」。

「第1の2」の内容(抜粋)
 「吉村回答書には道警本部持参品に『ドライバキズあり』と明示され、また、吉村鑑定書ではさらに詳しく『資料ねじのドライバー溝にはねじしめされる際のドライバーキズがついている』と記載されている」。「ところが、中島・本鑑定書にはこの重要な事実〔ドライバーキズ〕が記載されていない。これは、中島・本鑑定書の対象となったねじにはキズがついていなかったことを強く推定させるものである」。

 「布団袋から発見されたというねじは捜査側によるねつ造である。最初にねつ造されたねじは『新品のねじ』(吉村代59回尋問での検察官の質問中の用語)であった。中島・本鑑定書の対象となったねじはこの『新品ネジ』である。/ところが、8月26日に鶴原が吉村に示して回答を求めたねじには『ドライバキズ』があり、吉村鑑定書の対象となったねじも同様である。これは『どこかで使ったねじ』(吉村第59回尋問での検察官の質問中の用語)にするために、(・・・)キズありねじにすりかえたものである」。

●「第1の3」の内容(抜粋)
 「中島(そして捜査本部)は、事件後間もなく、現場遺留物の時計がリズム時計工業株式会社製造のシチズンコンパクトアラームツーリスト024であることと事件の時限装置にリン止めねじが使われていないことを突き止め、使われなかったリン止めねじの規格等についてデータを得ていたのである。/このような状態の下で請求人の布団袋からねじが『発見』された。そして、8月13日に鑑定嘱託され、発見ねじは『リズム時計工業KK製シチズン・トラベルウォッチ各機種リン止めネジと一致する』(中島・本鑑定)とされたのである。

 (2)ところが、鶴原正規は西川警部から『このねじが何に使われるねじかということを捜査するのが我々の使命だ』と指示され、西川、谷内と共に8月15日に徳永時計店に赴くのである」。

 「捜査本部としては、これは〔発見ねじ〕リズム時計工業KKシチズン・トラベルウォッチ各機種のリン止めねじではないかと考えて、直ちに、その捜査をするべきである。徳永時計店への聞き込みから始めるというのはあまりにも不自然である。/何のために徳永時計店への聞き込みから始めたのか。発見ねじが何に使われるねじなのか捜査本部は全く知らなかったと装うためである。何故、装ったのか。発見ねじは捜査本部によるねつ造であったからに他ならない」。 

「第3」の内容(抜粋)
 「山平鑑定による請求人が除草剤を所持していたとの推認と本件ねじが請求人の布団袋から発見されたとの『事実』は、請求人と本件爆発物とを結びつける原審(1審及び控訴審)の事実認定の核心部分である。/しかし、山平鑑定の不存在は既に主張立証されている。(・・・・)

 また、請求人の布団袋から発見されたというねじ(中島・本鑑定の対象ねじ)と本件ねじ(吉村鑑定の対象ねじ)の同一性についても疑いが生じている。請求人の布団袋から発見されたというねじは捜査官によるねつ造であるところ、これが工作に使用された痕跡がないねじであったため、敢えてこれを本件ねじ(工作に使用された痕跡であるというきずのあるねじ)にすりかえたのである。

 原審の事実認定の中核ともいえる最重要の二点の証拠について、重大なほころびが生じている。

 裁判所におかれては、本再審請求について拙速な判断を下してはならない。慎重に事実審理を尽くして再審開始決定を出すべきである」。― 以上が補充書(三)の簡単な内容紹介です。

●発見ねじのすり替えについて
 次に書くことは補充書(三)では言及していません。77回コラムで述べたように、実質的な捜査指揮官である石原警視は「発見ねじ」をねつ造させました。しかし石原警視はその後(中島・本鑑定書作成の後になります)、ねじにはドライバー傷がついていなくてはならないことに気づきます。彼はどうしたでしょう。ネジにドライバー傷を付けるには、ねじをリン柱にさし込んでドライバーで絞めつけないと傷はできません。この秘密工作を捜査本部内で行うことは、他の捜査員の目がありますから不可能です。唯一可能な方法は、自宅かホテルでこの方法で別のリン止めネジに傷をつけて、そのねじを隠して捜査本部に持ち込んで「発見ねじ」とすり替えることです。

 だから、8月21日付中島・本鑑定書の対象ねじ(傷のない「発見ねじ」)と8月26日付吉村回答書及び9月13日付吉村鑑定書の対象ねじ(傷がある)は別のねじですから、測定値が重ならないことになっているわけです。


2016年1月1日記
大森勝久
第79回 道庁爆破事件と逮捕から40年を経て思うこと
道庁爆破事件と逮捕から40年を経て
 今回は趣を変えて、主として保守派の人々に向けて書いてみたいと思います。

 私は前半の20年間とその前の6、7年間を含めて、反日主義者として根本的に誤った生き方と戦いをしてきてしまいました。私は自己検証を続けてきたのですが、一気に変わったのではもちろんありませんが、信じた反日共産主義思想が実は必然的に独裁国家を作り出す思想であり、日本に対する侵略思想であることを認識できるようになって、洗脳状態から脱却することができました。そして「法の支配」を厳守する真正な自由主義である保守主義の立場に立つことになりました。今から約19年前のことになります。

 私は自らの誤った生き方と戦いの反省も込めて、これからも一人の保守主義者として、日本を正常な国家に立て直し永続させていくために戦っていこうと思っています。私はこれからも、客観的機能としては侵略国家のロシア・中共・北朝鮮の尖兵である様々な反日共産主義勢力(日共系、旧社会党・社民党系、新左翼系、その他)を日本の敵ととらえて、思想的に戦っていこうと心に決めています。また反日勢力やロシア、中共、北朝鮮と全く戦うことができない軟弱な自民党などの保守派を厳しく批判して、戦っていこうと思っています。

当時、道庁爆破を支持したことについて
 道庁爆破は反日武装テロでありその思想も完全に誤っています。私はそれを長く支持してきてしまいました。ただただ深く反省しています。

 反省するということは、若者を洗脳する革命思想(反日共産主義思想)を思想的に批判し解体していく戦いを実践していくということです。革命思想とは独裁支配者を夢見た「悪の天才」が、若者を騙して革命運動に動員するために作り上げた謀略思想なのです。革命思想は、自由主義国・資本主義国日本に「支配国家」「搾取国家」「侵略国家」等の「虚偽レッテル」を貼り付けて全面否定し、かつ革命後の共産主義社会を「無支配、無搾取、平等の人類が解放された社会」という「虚偽スローガン」をもって美化し理想化することで、若者を洗脳して革命に動員するのです。洗脳とは騙すことです。

 若者(インテリ)は理想に燃え、しかし知識量は乏しく、だから思考能力は低いわけですから、革命思想が絶好のターゲットにするのです。革命思想は若者の善意を利用して、前記の虚偽レッテルやスローガンで洗脳します。洗脳されると、主観的には善・正義の意識で客観的には悪を実践していくことになります。すなわち「侵略・支配・収奪・搾取の悪の日本国家を解体し滅ぼし、被抑圧民族や人民を解放して、共産主義社会を建設していくのだ」と信じて、日本に対する侵略戦(反日革命運動)を実行していくことになるのです。そこで客観的になされていることは、日本の破壊であり、日本の国防を否定してロシアや中共や北朝鮮に日本を武力侵略させようとすることであり、そうすることで日本を占領し亡ぼして自由ゼロの独裁国家を誕生させていくことです。

 革命思想(共産主義)というのはまさしく「悪魔の思想」であり、人類史上最悪の謀略思想です。騙しによって、善と悪を逆転させてしまうのです。私もこれに洗脳されてしまいました。主観的善意に基づき、客観的には悪を実践していました。ひとたび洗脳されてしまうと脱却はほとんど困難であり、私の場合は例外ケースです。私は若者を革命思想(反日共産主義思想)の毒牙から守り、日本を守るために、革命思想を解体するために戦っていこうと思います。

●再審請求審について
 北海道警察は8月10日に、私を別件の爆発物取締罰則第3条違反容疑で逮捕し、9月1日に本件の道庁爆破容疑で再逮捕しました。しかし道警は証拠をねつ造することで初めて私を逮捕することができたのです。

 別件逮捕の方では、「大森の8月7日の投棄物の中に除草剤の付着反応があった軍手があった」というねつ造書類(8月9日付け高山総合捜査報告書)がなければ逮捕はできませんでした。そもそも法律にはない「犯罪要件」(「爆発物の製造器具の所持」)での逮捕だったのです。どの家庭にもある消火器や電池や豆電球(懐中電灯に付いたままのもの)を所持していたとしてです。違法逮捕です。爆取3条では起訴されませんでした。

 道庁爆破容疑での逮捕では、道警は別件逮捕中に、発見リン止めネジ、山平除草剤鑑定書、モンタージュ写真、藤井目撃供述調書、金丸コメ印筆跡鑑定書など多くの主要証拠をねつ造して、9月1日に逮捕したのでした。これらのねつ造証拠がなければ、私は逮捕はされませんでした。違法逮捕でした。

 しかし道警は、私が8月6日から9日にかけて市内のごみステーションや峠に捨てた物を尾行して押収して(8月7日、8日、9日、12日)、私が反日武装テロをめざしている危険人物であることを認識していました。「道庁爆破の犯人に違いない」とも考えたでしょう(私は犯人ではありませんが)。だけど、これらの真正証拠だけでは逮捕できる法律がありませんでした。もし道警が逮捕しなければ、私はそのまま本州へ逃げ(私は苫小牧フェリーターミナルでフェリーに乗船するために車に乗って並んでいる所を逮捕されました)、姿をくらまして、いずれは反日武装テロを繰り返していったのです。だから道警は日本国家と国民を守るために、法律を犯して前記した証拠をねつ造して私を逮捕していったのだと思います。

 反日主義者であった頃の私は、道警の証拠ねつ造を攻撃してデッチ上げ粉砕の裁判闘争を戦っていました。しかし当時の私がめざしていたものは反日武装テロであり、日本に対する侵略の戦いでした。そんな侵略者の私に、道警の証拠ねつ造と違法逮捕を批判する資格がないのは明白です。当時の私の裁判闘争等は誤りでした。

 私は反日革命思想が完全に誤っていることを認識できるようになって、愛国者・保守主義者に生まれ変わりました。道庁爆破逮捕に対する考えも全く変わりました。私は逮捕されたことにより、自分の反日武装テロを防いでもらったことになります。また逮捕されずあのまま逃げていれば、私は反日武装テロを実行していくことに心を奪われて、思想を根底から検証する作業は不十分となり、反日共産主義思想の誤りを認識できず、保守主義者へ転生できなかったかもしれません。だから私は道警が多くの証拠をねつ造して違法逮捕したことを恨むこともなくなりました。感謝さえしています。

 裁判官も、私の反日武装テロを防ぎ国家と国民を守るために、藤井目撃証言がでっち上げであることは証拠上明白になったのに、証拠排除することなくそれも使うことによって有罪死刑判決を出したのだと思います。藤井証言を排斥したら有罪判決は出せないからです。

 本来は政治が、私のような真正な証拠によって反日武装テロをめざしていることがはっきりと分かる人物には、終身刑を科すことができるような法律を整備しておくべきだったのです。もしこの法律整備がされていれば、道警は証拠をねつ造せずとも私を逮捕でき、国家と国民を守ることができたでしょう。

 私が言う「法の支配」とは、日本で言われている「法の支配」=「法治主義」とは全く異なる法思想です。古くから伝えられてきた永遠の真理・正義である〈法〉がすべてのものの上位にあり、〈法〉は憲法も政府も国民も支配します。政府と国民は〈法〉を必ず守らなくてはなりません。〈法〉には国際法が含まれます。政府は〈法〉に支配されて外交・軍事、内政をしなければなりません。これが「法の支配」です。

 しかし日本の「法治主義」は、政府を最上位存在だとして、法律は政府が作るものだという考えです。だから政府は自らに都合のいい〈法〉に違反している法律を作ったり、法律を無視したりもします。警察が法律を無視して証拠をねつ造して逮捕したり、裁判官がねつ造証拠だと分かっても信用性ある証拠だと評価するのも、これです。一般の刑事裁判でもしばしばなされるのです。私たちはこうした誤った「法治主義」と日本政府と国民の誤った考え方を徹底的に批判し、また自己批判して、正しい「法の支配」が貫かれる立派な日本国家をつくり上げていかなくてはなりません。

 さて再審請求審ですが、私は19年前に愛国者・保守主義者に変わり共産主義勢力と戦う側になりました。だから裁判所はこれまでのような政治的配慮はやめて公正な立場で、「発見リン止めネジ」や「山平除草剤鑑定書」や「モンタージュ写真」や「藤井目撃証言」などのねつ造証拠を、証拠排除していく正しい裁判ができるはずです。しかし期待はできませんが。

●検察官が「意見書」(平成28年1月25日)を提出しました
 弁護人が平成27年12月22日付で提出した「再審請求補充書(三)」に対する反論として、検察官はわずか3頁の意見書を提出したのでした。核心点について全く反論していない(できない)内容です。
 
 ともあれ裁判所は3月に「決定(判決に当たるもの)」を出すことになります。私たちは札幌高裁に「即時抗告」を申し立てることになります。


2016年2月6日記
大森勝久
第80回 ねつ造証拠(山平除草剤鑑定、発見リン止めねじ)を排除しない裁判所
 札幌地方裁判所は3月下旬に決定を出します。ねつ造証拠を排除せず、逆に支持して「再審請求棄却」の決定を出すことになります。本コラムは毎月初めにアップロードしています。「決定書」を読んでからまとめたのでは間に合わなくなりますので、決定書批判は4月執筆の5月初めアップの第81回コラムで書くことにします。

山平除草剤鑑定はねつ造証拠です
 第2次再審請求は2013年1月に行いました。@「山平除草剤鑑定はねつ造である」とA「発見リン止めネジ(8月10日)はねつ造である」の2点の主張立証をしました。Aは最近のコラムで連続して書いていますが、@は第41回コラム、第53回コラム、第74回コラムがわかり易いと思います。関心のある方は御覧ください。

 「山平鑑定」というのは、私が8月7日にゴミステーションに捨てた37点の物の中のビニールシートとカーテン地(切り取ったもの)の2点から、除草剤(塩素酸ナトリウム)付着のイオン反応が得られたという鑑定です。これによって私は除草剤(混合火薬の主剤)を所持していたと認定されたのでした。8月8日にこの鑑定をやったということになっています。

◎ ところがビニールシート、カーテン地を含む32点は「指紋検出の資料」にもなっていて、「捜査方針」として「まず指紋を検出し、検出を終えたものは化学鑑定へ回す」となっていましたから、32点の指紋検出は8月9日であるため、8月8日には化学鑑定は行うことができないのでした。32点は8月9日に「科研」(刑事部犯罪科学研究所)に届けられたのでした。化学鑑定を先にすると指紋は消失してしまいます。「共犯」の存在を道警は考えていました。しかし指紋検出を先にしても化学鑑定は支障なく出来るのです。37点の中の5点(軍手や網かご3個、木炭末)は指紋検出資料から除外されましたから、8月8日に本実氏が化学鑑定を実施しました。山平氏ではありません。

 山平氏は石原警視からねつ造鑑定書を作成することを命じられたのですが、「8月8日にビニールシート、カーテン地等の鑑定を行った」とすることで、ねつ造であることを間接的に訴えたのです。

◎ 山平氏は第1次再審請求審のときに証人として証言しました(2004年9月。山平新証言)。山平氏は1審、控訴審のときには、「8月8日から8月20日まで鑑定をしました。8日にはビニールシートの付着物を採取するため、さらに40センチ四方を切り取って付着物を抽出採取しました。私が一人でやりました」と証言していたのですが、前記山平新証言では「8月9日の朝、ビニールシートなどが科研に届くと本実氏らが手分けして検査の準備をしているのを見ています。本実氏らがビニールシートの一部を切り取っているのも見ています。私は切り取っていません。私は8月9日以降は一切鑑定に関わっていません」と極めて重要な証言をしたのです。これは37点の鑑定を行ったのは本実氏たちであり、私はやっていませんと、「山平鑑定」を否定する証言です。つまり山平鑑定はねつ造であるという意味です。

◎ 山平氏は控訴審になってから、石原警視から命じられて「山平電話通信用紙」を作成しています。検査の「中間回答」を電話で行ったことを書類にしたものです。それによれば、「添付別紙」(資料名と検査項目と結果が一覧表になっているものです)に記載された20点の資料について、塩素イオン、塩素酸イオン、過塩素酸イオン、亜硝酸イオン、硝酸イオン、リン酸イオン、アンモニアイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオンの検査を行い、その結果を8月8日の午後2時30分発で高山警部に対して電話で報告したことになっています。山平氏は前記山平新証言では、「別紙に書かれている検査結果は2時30分前に終了しています」と証言しました。
 
 これだけの検査を山平氏一人で行うのは、時間的に不可能であることは一見して明らかです。つまり山平氏はこういう形で山平鑑定がねつ造であることを示そうとしたのでした。

◎ また山平氏の資料名の一番上の欄に「ポリバケツ」を記入しました。このポリバケツは道警が8月19日に私の元居室から大家のN氏から任意提出されて押収したものであり、8月8日には道警の「科研」(刑事部犯罪科学研究所)には存在していません。電話通信用紙のねつ造を命ぜられた山平氏は、ポリバケツを記入することでねつ造であることを間接的に訴えようとしたのでした。

◎ 私たちは第2次再審請求で、第1次再審請求で札幌地裁と高裁が私たちの新証拠(化学実験DVD)を排斥したその主張を粉砕する新しい化学実験DVDも提出しました。

 山平鑑定はねつ造証拠です。刑事訴訟法は裁判官にねつ造証拠は証拠排除することを命じています。しかし札幌地裁はそうしません。

「発見リン止めネジ(8月10日)」は外から持ち込んでねつ造したものです
◎ 道警は道庁爆破の時限装置のシチズンのトラベルウォッチにはリン止めネジの代わりにケース止めネジが使われていて、犯人の元にリン止めネジ2本が残されたことを早くから認識していました。道警の科研には、本件の時限装置に使われたシチズンのトラベルウォッチと同規格のものが3種類有りました。「発見」が真実であれば、道警の爆弾捜査本部は直ちに「発見ネジ」を手持ちのシチズンのリン止めネジと同一規格のものかどうかを鑑定させます。ところが石原警視は、8月15日になって、何に使われるネジであるかを捜査させるために「発見ネジ」を持たせて3名の警察官に市内の時計店への聞き込みをさせましたと証言したのでした。これはねつ造したことを隠すために、道警はねじの重要性を認識できていなかったとアピールする演技の捜査を実施したものです。

◎ 「科研」の中島氏は8月16日〜18日に発見リン止めネジの精密測定を行っています。「8月21日付けの中島・本鑑定書」です。本審において私たちの開示要求を受けて、裁判所が開示勧告を検察官に出して検察官が開示した(隠されてきた)証拠です。そこには、ねじの傷については何の記載もありません。すなわち発見リン止めネジのドライバー溝にはドライバー傷は付いていなかったのです。

◎ 8月15日に時計店への聞き込みを行った西川警部の「8月15日付け捜査結果報告書」(これも開示勧告で開示されました)にも、ドライバー傷は一切出てきません。

◎ ところがやはり開示勧告によって開示された「8月26日付け吉村回答書」には、「発見リン止めネジ」について「ドライバキズアリ」と明記されています。吉村氏はシチズンの時計を作っているリズム時計の栃木県の益子工場長です。

◎ つまり8月10日の「発見リン止めネジ」は8月21日の中島・本鑑定書作成後に、石原警視によって傷をつけた別のリン止めネジにすり替えられて、「発見リン止めネジ」として益子工場の吉村氏の検査(8月26日)に提供されたのです。

 石原警視は慌てていたために、8月9日位に市内の時計店で購入したシチズンの時計のリン止めネジをはずして(だから傷はついていない)、里警部に命じて8月10日に布団袋の中から発見されたようにねつ造させたのですが、その後に、工作していたのだからリン止めネジにはドライバー傷が付いていないとまずいことに気付いて(傷がないとねつ造したことを疑われる)、傷をつけた別のリン止めネジにすり替えたのです。すり替えの事実が8月10日の「発見リン止めネジ」がねつ造であることを雄弁に証明しています。

◎ 私たちはまた里警部の発見状況の証言を再現する実験を行いDVDに収めました。DVDを見れば不自然さは明瞭です。里警部はリン止めネジを手の中に隠し持っていて布団袋の中から発見したように装ったのです。

 「発見リン止めネジ」はねつ造されたものです。裁判所は証拠排除しなくてはなりませんが、検察側の主張をそのまま支持してしまうのです。

山平除草剤鑑定と発見リン止めネジが証拠排除されたら、「道庁爆破の実行」の証明(有罪)はできなくなります
 山平除草剤鑑定と発見リン止めネジは、私と本件爆発物とを結び付ける原審(一審と控訴審)の事実認定の核心的な証拠です。この2つの証拠がなければ、私が「本件爆発物を製造した」との間接事実の証明はできなくなります。そうすれば、私が本件爆発物を道庁に設置して爆発させたという「道庁爆破の実行」(これが公訴事実です)の証明はできなくなります。

 だから裁判所は、この2つがねつ造証拠であることが明々白々になっても証拠排除しないのです。


2016年3月13日記
大森勝久


◎お知らせ 札幌地裁は3月28日(月)、再審請求棄却の決定を出しました。弁護団は札幌高裁へ即時抗告を申し立てました

-以下は北海道新聞のWEB版より転載させていただきました-大森死刑囚の再審請求棄却 道庁爆破 札幌地裁、新証拠認めず03/28 14:03、03/29 01:22 更新 1976年の道庁爆破事件で、殺人などの罪で死刑が確定した大森勝久死刑囚(66)の第2次再審(裁判のやり直し)請求について、札幌地裁(田尻克已裁判長)は28日、「確定判決の事実認定に合理的な疑いは生じない」として、再審を認めない決定をした。弁護側は即時抗告する方針。 大森死刑囚は逮捕以来、一貫して無罪を主張。事件と結びつく直接的な証拠がない中、大森死刑囚の居室の家宅捜索で《1》カーテンなどから爆薬成分が検出された《2》布団袋の中から爆弾の時限装置に使われた時計の部品とされるねじ(全長約3ミリ)が発見された―ことなどが有罪の決め手とされた。 第2次再審請求審で弁護側は、ねじの発見状況を再現した映像を新証拠として提出し、「警察官が証言した方法では発見できない。捜査機関による捏造(ねつぞう)だ」と主張。しかし、決定理由で田尻裁判長は「ねじを発見した警察官の証言は信用でき、発見状況が不自然とはいえない」と判断した。 札幌地検は昨年1月、弁護側の証拠開示請求に応じ、ねじの鑑定書など未開示だった21点の証拠を新たに示した。弁護団は鑑定書などを分析した上で「道警などが測定したねじの大きさは3回の結果が全てばらばら。捏造やすり替えの疑いがある」と主張したが、田尻裁判長は「測定はいずれも手作業で行われ、使われた測定器も同一のものではない。弁護団の主張は誤差の範囲が最大0・05ミリ以内という前提だが、それを超える誤差が生じることはあり得る」と退けた。 決定を受け、札幌市内で記者会見した弁護団の浅野元広弁護士は「『疑わしきは罰せず』という刑事訴訟法の大原則をじゅうりんする不当な決定だ」と批判。札幌地検の片岡敏晃次席検事は「適正・妥当に判断していただいたと考える」とのコメントを出した。













第81回 札幌地方裁判所は3月28日、不公正な裁判で再審請求を棄却しました
再審請求棄却決定と即時抗告申立て(3月31日)
  田尻克己裁判長裁判官、今井理裁判官、貝阿彌健裁判官の札幌地裁刑事第1部は3月28日午後1時、再審請求を棄却する決定を行いました。「決定書」は同日1時に私にも届きました。37頁のものです。ひどい内容の一言です。

  弁護人は3月31日付の「即時抗告申立書」を札幌高裁へ提出しました。52頁のものです。即時抗告期間は初日を含めず3日間なので、3月31日に提出することになりました。10人の弁護人です。今後「補充書」も提出していくことになります。私も「即時抗告申立て補充書」を書くことにします。

決定書の「明白性」判断は誤りだらけです

(1)山平新証言(第1次再審第1審。2004年9月)の証拠価値についての判断
 
  決定書は、「山平新証言には少なからず山平旧証言との食い違いがみられるが、時間経過によって生じた記憶の変容による変遷として理解できるところであり、山平新証言には、山平水溶液分析の存否の判断に当たって直接の根拠になりうるような証拠価値はないというべきである」(14頁)と判断して、山平新証言を排斥してしまいました。
 
  山平氏は新証言で次のように証言していました。
@ビニールシートやカーテン地などの資料は8月9日に「科研」に届きました。私は本実氏らが手分けして検査の準備をしていたのを見ています。
A本実氏らがビニールシートの一部を切り取っているのも見ています。私は一切切り取っていません。
B私は8月9日以降は一切検査にタッチしていません。私以外の人がやっています。
C「山平電話通信用紙」の「添付別紙」の「一覧表」に書かれている検査結果は、2時までにすべて終えています。

  いずれも山平旧証言と根底的に異なっています。旧証言では@は、ビニールシートやカーテン地などの資料は全て8月8日日曜日に届いたのであり、山平氏一人で検査をしたのでした。他の人は日曜日なので出てきてなかった。Aも、山平氏が警備課長の許可をとって8日にビニールシートの一部を切り取ったのです。Bは、山平氏一人で8月8日から8月20日まで連日検査をしたと証言されていました。Cの点は、ビニールシートやカーテン地と軍手の3点から塩素酸イオンを検出して8日午後2時30分に電話で中間報告を行い、その後も8日の夕方まで検査を続けて、その結果をまとめたのが「一覧表」ですと証言されていました。

  @〜Cは鑑定の核心的な事柄です。そして山平氏は道庁事件で鑑定をしたのは1回だけだと言っていましたから、鑑定から28年が経過しても、本当に鑑定を行っているのであればこのように決定的に変わってしまうことをあり得ません。

  しかも道警はその約2年前の2002年11月29日に「予備実験」をするのですが、山平氏はこの前に道警に呼ばれて、鑑定のことをいろいろ尋ねられています。道警は山平氏から訊いた上で「予備実験」を実施したのです。山平氏はこの実験前に検察庁にも呼ばれて訊かれています。山平氏の鑑定書も電話通信用紙も山平旧証言調書も道警と検察庁に有ります。道警も検事もいろいろ伝えたでしょう。山平氏は新証言の直前にも検察庁に呼ばれているのです。だから山平氏は旧証言の内容も電話通信用紙や鑑定書の内容も十分に把握した上で、@〜Cの新証言をしたのです。疑いの余地はありません。

  山平氏がこうした新証言をした目的は、山平鑑定の信用性を徹底的に否定するためです。「山平鑑定の不存在」(つまりねつ造)を明らかにするためです。このことは論理の必然的帰結として導き出せることです。山平氏はその気になれば旧証言どうりに証言することができたのですが、@〜Cの新証言をしたのです。

  山平氏は旧証言においても間接的に、「山平鑑定は不存在」を訴えていたのですが、裁判所は逆の認定をしてしまったのでした。たとえば、ビニールシート、カーテン地など32点は「指紋検出の資料」にもなっていましたから、指紋検出をまずやり、その後に化学鑑定をすることになる資料です。指紋検出は8月9日でしたから、この32点は8日には「科研」には持ち込まれていないのです。山平氏は旧証言では8日に科研に来たと虚偽の証言をして、間接的に「山平鑑定不存在」を訴えようとしたのでした。山平氏はその他にも虚偽を証言することで「山平鑑定不存在」を訴えていました。しかし裁判所は正しい判断が出来なかったのです。

  それゆえ山平氏は新証言で、ビニールシートやカーテン地等は9日に科研に届けられて、鑑定をしたのは本実氏らであったという真実を明らかにしたのでした。@〜Bです。本当にビニールシートとカーテン地から除草剤付着のイオン反応が出ていれば、本実氏らの名義で鑑定書が作成されています。だが付着反応はなかったのでした。石原警視は、本実氏らに「ねつ造鑑定書」を作成することを促したのでしょうが、拒まれたのです。それで石原警視は、一切鑑定にタッチしていなかった山平氏に白羽の矢を立てたのでした。

  札幌地裁は、山平新証言の証拠価値を認めると、「山平鑑定不存在」になってしまうので、「時間経過によって生じた記憶の変容」だとして証拠価値を全面否定して、排除してしまったのです。公正な裁判の否定です。

  山平新証言のCですが、「山平電話通信用紙」の体裁と完全に一致しています。20点の鑑定資料について、それぞれ別々に付着物を採取して、濃縮して、そして9つの溶液内検査項目を2時までに終了さすことは物理的に不可能です。山平氏は山平鑑定がねつ造であることを明らかにしようとして、こういう「山平電話通信用紙」を作成したのでした(控訴審です)。

(2)発見リン止めネジはねつ造されたものとの主張に対する決定書の判断

  私たちは、道警は犯人のもとにリン止めネジ2本が残ったことを早くから認識していたから、8月10日のリン止めネジの発見が真実ならば、すぐにそれと手持ちのシチズンの旅行用時計のリン止めネジとの比較鑑定をすべきなのに、道警が8月15日の時計店への聞き込みから捜査を始めたのは、発見ネジが何に使われるネジなのか知らなったと装うためであり、装ったのは、発見ネジをねつ造したからだ、と主張したのでした。

  これらに対して決定書は、「本件ネジがツーリスト024独自の規格であるか否かは、その証拠価値にかかわる重要な事項であるから、捜査機関がこの点について慎重に捜査を遂げるのは当然のことであって、不自然であるとはいえない」(36〜37頁)と判断して、私たちの主張と新証拠の明白性を否定しました。
 
  しかし道警は、シチズントラベルウォッチのリン止めネジはツーリスト024もスピネットもその他の57のすべての機種で同一であり、かつ他社のトラベルウォッチのリン止めネジとは異なる規格であることを、事件後まもなく、つまり4月には捜査で把握していたのです。

  札幌地裁は私たちの主張、新証拠を認めると、「発見リン止めネジ」はねつ造であることになってしまうため、決定書のようなでたらめな判断をしたのです。公正な裁判の否定です。

2016年4月4日記
大森勝久
第82回 裁判官は科学的に証拠を分析評価していません
「ねじの傷」についての「原決定」の認定を批判します
  原決定(札幌地裁)は「そもそも里及び中島は確定審の公判において本件ネジの傷の有無について質問されておらず、傷がないと証言したわけではない。また、仮に両名が傷の存在に気付かなかったとしても、傷がドライバー溝に付いた極めて小さいものであることに鑑みれば、そのことが不自然であるとは言えない。さらに、中島鑑定書及び昭和51年8月29日付け鑑定書(確定第1審検201)の各鑑定事項は、本件ネジの製品名、用途、爆破現場の遺留品との関係等であり、傷の有無に着目したものではなかったことに照らせば、上記鑑定書が傷の存在に言及していないことが不自然であるとは言えない」と認定しました。
  この認定を批判します。

  @里警部は、弁護人の「あなたが押収したというネジですが(…)それは別にこのネジ自体に特徴があって見覚えがある、ということではないんでしょう」の質問に、「まあ、これに固有の特徴というのはないと思いますけれども」と答えたのです。それに続く弁護人の「つまり、あなたが押収したのと、今法廷で見ているのとは、形と色などが似てて、同種類ということが言えるんでしょう」の質問に、彼は「これはもう、マイナスネジであり、大きさといい、これは当時私がよく確認していますので、これに間違いないというふうに思います」と答えています(46回公判、9752丁)。たしかに弁護人は、(検)766番のネジに傷が付いていることを認識していなくて質問をしています。しかし里氏の答えは事実上、「私が発見押収したネジには傷はついていませんでした」と述べたのと同じ内容になっているのです。彼は押収時にネジを「よく確認して」いるのです。

  A中島氏も、弁護人から「全く同じかどうかというのは、何かそれなりに調べたりした特徴があるというようなことは言えるんですか」と質問されて、「全く同じであるということはとくに印でもつけない限り、そのへんは」と答えています。弁護人が「今、法廷で見せられたものを見て、どこか特徴が一致しているから同じだというようなことは言えないんですか」と問うと、彼は「そこになりますと、ちょっとはっきり言えないんですね」と答えたのでした(48回公判、9872丁〜73丁)。つまり中島氏も事実上、「ネジには傷は付いていませんでした(だからここにあるネジが以前私が鑑定したネジと同じだと根拠を示して言うことはできません)」と答えたのと同じ内容を証言しているのです。
  なお、検察官は8月10日の「発見ネジ」が、後に傷のついたネジ(検766番のネジ)にすり替えられたことを認識していますので、里氏と中島氏には傷に関する質問を意識的にしなかったのでした。

  Bリズム時計益子工場長の吉村氏は、8月26日と9月13日の2回、ネジの検査と鑑定をしています。吉村氏は49回公判で、9月13日付け鑑定書について証人尋問されました。吉村氏は検察官から(検)766番のネジを示されて、「そのネジに見覚えがありますか」と質問されると、「このドライバー溝のところに傷のついているところが見覚えがあります」と答えました(49回公判、9892丁)。この鑑定の「鑑定事項」には、「ねじのドライバー溝の傷の有無」はありませんが、吉村氏は鑑定書に添付した「検定検査結果通知表」の中で、「資料ネジのドライバー溝にはネジしめされた際のドライバーキズがついている」と明記しています。ドライバー溝にドライバー傷があるかどうかは、そのネジが工作していたものであることを裏付ける重要な証拠になるものですから、鑑定者は必ずそこをチェックするのです。

  C新証拠の中島氏の8月21日付け共同鑑定書には、10倍に拡大したネジの投影図2つ(ネジ頭を正面から見たものと、ネジのドライバー溝が見える真横から見た図の2つ)が描かれていますが、ドライバー溝のドライバー傷については何も書かれていません。「その他参考になるべき事項」という鑑定事項にも、傷に関するものは全くありません。中島氏もドライバー傷がついているかをチェックしたことは、言うまでもないことです。しかし傷はついていなかったから、こういう鑑定書となったのです。中島氏のAの証言と併せてみれば、8月21日付け鑑定書は「傷がついていないネジ」であったことを明確にした鑑定書であることが明らかです。まさしく刑訴法435条〔再審を許す判決・再審の理由〕の第六号の無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」です。

  D里氏の@の証言と中島氏のAの証言とCの中島鑑定書によって、8月10日に「発見押収」されたネジにはドライバー傷は付いていなかったことが分かります。しかしBの吉村氏の鑑定書では、ネジには傷がついているのです。つまりCの中島鑑定書作成後にネジがすり替えられたことが証拠によって証明されています。

  このことは47回公判の鶴巻警部補の証言によっても裏付けられています。鶴巻氏はリズム時計益子工場でネジの検査をしてもらうために、8月24日に石原警視からネジを渡されて札幌を発ちました。8月26日に検査が行われたのですが、吉村氏はネジを見てすぐに「傷があること」を指摘しました。鶴巻氏もその場で見て傷を確認したのでした。鶴巻氏がネジの傷を認識したのはこの時がはじめてだったのです(第47回公判、9827丁)。鶴巻氏は8月15日に「発見ネジ」を持参して札幌市内の徳永時計店への聞き込みをしています。その時にもネジをよく観察しているのですが、傷があるとは認識していませんでした。つまり、彼が8月24日に渡されたネジはすり替えられた傷のあるネジ(検766番のネジ)だったのです。

  E(検)766番のネジの傷は肉眼でも十分に確認できる程の傷です。鶴巻氏は公判で検察官から、「それで今この法廷でお見せしましたね。このネジを。あなたの記憶にあるそのドライバー傷といいますか、それはありますか」と質問されると、肉眼でネジを見て、すぐに「あります」と答えたのでした(47回公判、9827丁)。傷は素人でも肉眼ですぐに分かるものなのです。3ヶ所に傷がついています。原決定はDとEの鶴巻氏の証言を無視しています。

  @からEで原決定の誤りは明白です。事態の展開が急激すぎて、石原警視は考える余裕もなく慌ててしまって、傷を付けることまで頭が回らずに「発見ネジ」をねつ造させてしまったのです。そして益子工場で検査をしてもらう段になって石原氏はそのミスに気付き、傷をつけた別のネジとすり替えて、それを「発見ネジ」だとして鶴原氏に渡して益子工場へ送り出したのでした。

●裁判官の「思い」と思考を分析してみましょう
  証拠の分析評価をもし科学的に行うならば、前述したような評価になりますから、裁判官は科学的な証拠評価をしていません。非科学的に行っています。

  一般的なことを言いますが、ほとんどの人間は自分の「思い」に規定される形で、対象の分析評価をしてしまうものです。つまり「思い」に合致するように対象を分析評価してしまいます。「思い」に反するような分析評価は、自然に思考を停止してしまいますから、そのような分析評価はしなくなります。つまりほとんどの人は都合のいいようにしか分析評価しないのです。非科学的に分析評価しているということです。私は以前は反日左翼でした。私は反日左翼としての「思い」に規定されて、日本の政治(外交、内政)について否定的にしか分析評価できませんでした。

  科学的に分析評価するということは、今の自分の「思い」とそれを生み出している考え方に対しても、批判的に検証していく姿勢を持つということです。これは大変困難なことなのです。

  刑事訴訟法は裁判官に証拠の評価を公正に行うこと、つまり証拠を科学的に分析評価することを命じています。しかしこれはほとんど実行されていないと思います。ほとんどの裁判官も自分の「思い」に規定されて都合のいいようにしか証拠の分析評価を行っていないと私は思っています。

  本件においては、私は1審において道庁爆破を何度も支持する意見陳述をしました。その他の反日の意見陳述も何度も行いました。裁判官はそういう私を見て、「大森被告が犯人に違いない」と思ったのです。裁判官はこの「思い」に規定されて、それに合致するように証拠の分析評価をしていったのでした。だからでたらめな証拠評価になっています。刑訴法違反です。「思い」に反するような証拠の分析評価は、自然に思考を停止してしまいますからなされません。

  再審請求においては、既に確定した判決と(旧証拠評価にもとづく)事実認定があります。裁判官は確定した判決と事実認定に規定されることになります。これに規定されて、新証拠の分析評価は行われていきます。だから冒頭に示したような「認定」になるのです。私が前記@ACDEで分析評価したことは、裁判官は思考を停止してしまうので、頭の中には存在しないのです。私たちが即時抗告申立書とその補充書でこれらを主張しても、裁判官の「思い」(確定判決とその事実認定)に反するものですから、裁判官はそれらを検討してみることはしません。思考停止になりますから、すぐに排斥してしまうのです。

  裁判官のこういう意識状態と思考状態は中身は異なりますが、反日左翼の意識状態と思考状態つまり洗脳状態と同じ状態なのです。だから、裁判官の証拠評価を変えることは至難の業なのです。


2016年5月15日記
大森勝久


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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)