北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第51回〜60回

第51回 「発見リン止めネジ」のすり替え―隠された中島鑑定書(2013年11月4日記)

8月21日付中島鑑定書には、「目立ったドライバー痕はない」旨の記載がある
 「発見リン止めネジ」の鑑定書は次の3つがあります。
 (1)8月21日付中島鑑定書。8月16日から18日に実施。本実氏との共同鑑定書。未請求。未開示。
 (2)8月29日付中島鑑定書。8月28日に実施。証拠採用。
 (3)9月13日付吉村鑑定書。9月9日から13日に実施。証拠採用。
  中島氏は道警犯罪科学研究所の吏員です。吉村氏はリズム時計益子工場の工場長です。

  読者の皆さんは、一番最初に鑑定した(1)の鑑定書が、証拠請求されなかったことに不可解さを感じられるでしょう。中島氏は1審48回公判の検察官の主尋問では、(1)の鑑定書の存在を伏せていたのです。反対尋問で弁護人に追及されて、その存在をはじめて明らかにしたのでした。

  (1)が証拠請求されなかったのには、明確な理由があります。その鑑定書には、「ネジのドライバー溝には、ドライバーで付いた目立った傷は見受けられない」といったような記載があるはずなのです。第50回コラムで書きましたように、(3)の鑑定書には、「発見リン止めネジ」の特徴として、「ドライバー溝の片側に1ヶ所、反対側に2ヶ所、計3ヶ所にドライバーで付いた傷(ドライバー痕)がある」と記載されているのです。(1)を証拠請求したら、「発見リン止めネジ」がその後にすり替えられたことが明白になってしまいます。それで検察官は請求しなかったのです。

  捜査の実質的な指揮官であった石原警視が、8月10日に捏造した「発見リン止めネジ」を、さらに傷の付いたネジにすり替えたのは、8月23日から8月25日の午後2時の間です(この点については、第50回コラムを参照してください)。つまり、(1)の8月21日付鑑定書は、既に検察庁へそのコピーが送られてしまっていたのだと判断できます。もし、送る前であれば、石原警視は中島氏に命じて、鑑定書を「3ヶ所に傷がある」と改ざんさせたでしょう。

●8月29日付中島鑑定書と中島証言から判ってくること
 鶴原警部補が、石原警視から(すり替えられた)766番の「発見リン止めネジ」と「捜査照会書」を渡されたのは、8月25日午後2時頃です。彼は札幌を発ち翌26日、栃木県にあるリズム時計益子工場で、吉村工場長にネジの簡易検査をしてもらい、すぐにドライバー溝に傷が付いていることを告げられ、彼自身も見て確認しました。鶴原警部補は、吉村氏が作成した「捜査照会回答書」(当然ドライバー痕にも触れられている)を持って、翌27日に札幌に戻り、石原警視に提出したことになります。

  中島氏が8月28日に、この766番のネジの鑑定を実施します。(2)の鑑定です。彼は8月29日付の鑑定書を作成したのですが、そこではドライバー痕(有無や形状)については一切触れられていないのです。吉村「回答書」もあるのに、です。これは、どういうことでしょう。私は次のように、合理的に推理しています。

  「発見リン止めネジ」に傷がついていなければマズイことに気がついた石原警視は、まず(1)の鑑定書を実施した中島氏に、「ネジをすり替える必要があること」を告げ、この証拠の偽造方針に従うことを命じて、中島氏の同意を取りつけたのです。それから766番のネジを用意して、鶴原氏を益子工場へ派遣したのでした。石原警視と中島氏は話し合って、(2)の8月29日付鑑定書には、傷については一切触れないことにし、裁判では、中島氏からは(1)の鑑定書の存在は、進んで明らかにはしない(伏せる)ことにしたのです。

  その理由はこうです。(1)の鑑定書は目立つ傷がついていないことが記載されており、かつ化学分野の検査(ネジに除草剤付着があるか否か)を担当した、本実氏との共同鑑定書になっています。その本実氏は、私が8月7日に市内のゴミステーションに投棄したダンボール箱に入った37点の混合火薬製造用具(ビニールシート、カーテン、軍手等)に、「除草剤付着の反応があった」という「捏造鑑定書を作成すること」を、石原氏から命じられたものの、拒んだ人です。8月20日頃です(そのため石原氏は、山平氏に除草剤付着の捏造鑑定書の作成を命じたのでした)。

  (1)の鑑定書の存在は、ひょっとしたら本実氏の別の証人尋問の機会に、明らかになってしまうかもしれません。そして裁判所が「開示命令」を出すこともありえます。もしそうなった場合、(2)の鑑定書に「3ヶ所に傷がある」と書いてあると、(1)との矛盾から、「すり替え」が分かってしまうのです。

  中島氏は1審48回公判で、(2)の鑑定書について尋問されました。弁護人から「(8月28日に鑑定したネジと法廷に出ているネジが)全く同じかどうかというのは、何かそれなりに調べたりした特徴があるというようなことは言えるんですか」と質問されると、彼は「全く同じであるということはとくに印でもつけない限り、そのへんは」と答え、さらに「今、法廷で見せられたものを見て、どこか特徴が一致しているから同じだというようなことは言えないんですか」と問われても、「そこになると、ちょっとはっきり言えないですね」と答えています。

  中島氏の証言が嘘であることは明白です。吉村工場長は49回公判で、検察官から(3)の鑑定書について、「(ネジに)何か特徴がありますか」と質問されると、ネジを見てすぐに、「ドライバー溝のところに3ヶ所傷がついているところが見覚えがあります」と答えているのです。中島氏が意識して、「特徴のある3ヶ所の傷がついている」と言わないようにしていることが、ありありと見てとれます。全くの嘘で不自然極まりない証言ですが、それは、もし(1)の鑑定書が法廷に出されることになったときにも、すぐに「明らかに矛盾しており、ネジはすり替えられた」と言われないようにするためであったのです。

  そして検察官も、すり替えられたことを認識していますから、中島氏に「ドライバー溝の傷」について尋問するのを避けたのでした。「証拠の偽造」は犯罪ですが、検察官はそれを受け入れ、道警を支援していったのでした。

「ネジすり替え」の事実が、「発見押収」自体が捏造であることを証明する
 以上のように、「発見リン止めネジ」は(1)の鑑定後に、3ヶ所に傷がついている766番のネジにすり替えられました。そしてここが重要ですが、8月10日のリン止めネジの「発見押収」が、もし真実であれば、道警はすり替えることは考えることすらしませんから、「すり替え」の事実=「発見押収」も捏造、ということなのです。これは、検察官も認識していることです。

  私たち本再審請求書で、(1)の中島鑑定書の「開示」を裁判所に要求していきます。

2013年11月4日記
大森勝久

第52回 保守主義者の私と裁判(2013年12月14日記)

私は獄中で左翼思想を否定し去り、保守主義の思想を獲得しました
 今回は趣を変えて書きます。
 
 私はかつては左翼でした。反日闘争を社会と獄中(1976年8月から)で長い間、戦ってきてしまいました。左翼と言いましても私の場合は、ソ連も中共(中国)も北朝鮮もその他の共産主義国家も、打倒すべき敵だと考えていましたし、日本の新旧左翼とも対決していた、極めて異端派の左翼でした。

 私は、自分の思想を含む左翼思想の誤りを自覚し克服するために、余りにも長い時間がかかってしまいましたが(洗脳から脱却するためには長い時間がかかります)、獄中で左翼思想を完全に否定し去り、保守主義(真正な自由主義)の立場に立つようになったのでした。1998年のことです。

 保守主義とは、日本を弱体化し破壊して、全体主義国家に改造したり、ソ連・ロシアや中共や北朝鮮に、日本を侵略征服させるために戦っている左翼と戦い、左翼思想を日本から排除し、〈法〉の支配に基づく法秩序体制と、美しき倫理道徳が支配する日本を、発展的に永続させていく思想です。もちろん、日本侵略を狙うロシア、中共、北朝鮮と戦っていく思想です。日米軍事同盟を堅持・強化していく思想です。

 私は長年、左翼として反日闘争を戦ってきてしまったことのお詫びも込めて、命を賭して、自分にできる限りの保守主義の戦いを貫いていく所存です。私は別のホームページ「大森勝久評論集―日本の国家安全保障問題を論じる」で毎月、保守主義の立場で文を書いています。関心がおありの方は御覧になってみてください。

捏造証拠がなければ、逮捕・起訴も有罪判決もありませんでした
 道警は1976年8月7日の午後に、初めて私に道庁爆破の容疑をかけました。8月8日の昼、私が道外へ逃走しようとしていることを知って、道警は8日の夕方から逮捕令状請求の準備を開始します。8月10日午後1時前に逮捕令状を取った道警は、午後3時21分に私を苫小牧フェリーターミナルで、「爆発物取締罰則第3条違反」容疑で逮捕しました。逮捕令状の「緊急執行」です。道警本部から電話で令状の内容を警察官に伝えて、執行しました。「爆発物の製造器具を所持していた」というものでした。

 しかし、3条の条文には「爆発物の製造器具の所持」などありません。無効の逮捕令状です。私は「法律にない罪」の容疑で逮捕されたのでした。道警がいかに慌てていたかを示しています。

 3条のその部分は、「爆発物に供すべき器具の所持」であり、具体的には「点火(起爆)時限装置」です。しかし令状に書かれていたものは、「消火器、セメント、乾電池、豆電球(懐中電灯に付いたまま)等を所持していた」です。一般家庭にあるものでしかも、それらは工作もされていないものです。「爆発物に供すべき器具」でもあり得ないのは明らかです。

 捜査機関は、無理は承知の上で、まず強引に私の身柄を押さえて、その間に後述するような主要な証拠を捏造していったのでした。私は勾留満期の8月31日の夜12時に札幌拘置支所で、「処分保留で釈放する」と告げられます。そして9月1日の朝、札幌拘置支所の門を1歩出たところで、道庁爆破容疑で再逮捕されて、勾留満期の9月23日に起訴されました。翌年から裁判が始まり、1審判決(1983年3月)、2審判決(1988年1月)を経て、1994年9月に死刑が確定しました。

 私は本コラムで、警察、検察がなした主要証拠の捏造を明らかにしてきました。それらの捏造証拠がなければ、逮捕も起訴もできませんでした。また私は裁判所が、捏造証拠を排除せず、信用性ありと評価して、有罪認定したことも明らかにしてきました。裁判所は、捏造証拠を使わなければ、有罪にはできなかったのです。

 私たちは1審2審段階では(3審の最高裁は事実の取り調べがなく、書面審査のみだから)、捏造された主要証拠のうちの一部についてだけ、捏造であることを明らかにできただけでした。それらは、北海道庁の玄関前の道路で、バックを持って道庁へ入って行き、手ぶらで出てきた2人連れの男(1人が大森)を目撃したという藤井氏の8月18日付、8月30日付等の目撃調書であり、彼の協力で作ったという男のモンタージュ写真であり、あるいは犯行声明文に手書きで記入されていた3ヶのコメ印文字の8月23日付の筆跡鑑定書(大森が本に記入していたコメ印と「同一筆跡である」というもの)等でした。

 しかし私たちは、再審請求審における新証拠によって、製造関係の主要証拠の捏造も明らかにしてきました。除草剤付着の反応があったとする8月28日付の山平鑑定書であり、同氏の8月8日付の電話中間報告書(2審になって証拠申請された)であり、あるいは8月10日の「発見リン止めネジ」等です。

私は逮捕・起訴・有罪判決を恨んでいません
 私はかつては左翼で、社会にいたときは反日武装闘争(テロル)をめざしていた人間でした。混合火薬の主剤である除草剤はまだ入手できていませんでしたが、具体的な準備もかなり進めていました。私はもし8月10日と9月1日に逮捕されていなければ、東京等に偽名で住んで、遅かれ早かれ反日武装テロルを実行していったはずです。1審裁判官がもしも、「藤井目撃証言は全く信用できない。捜査官の誘導の産物だ。被告人は大いに疑わしいが、しかし犯人とするには証拠が不十分であり、無罪とする」との判決を出していたら、私はやはり警察官の監視の隙をついて、地下へ潜行して、反日武装テロルを実行していったことでしょう。

 私は第7回コラム第34回コラムでも書きましたが、証拠を捏造しての逮捕と起訴、捏造証拠を使っての裁判(死刑判決)を、恨んではいません。それによって、私は誤った反日テロルを阻止してもらえたわけですし、獄中に入ることで考える機会を得て、左翼思想から脱却することができたからです。感謝さえしています。

 更に言いますと、私は当時、「革命戦争」と言っていましたが、武装闘争(テロル)というのは「都市ゲリラ戦争」です。だから、武装闘争をめざしている者は、治安警察に発見された場合、事件(テロル)をやった犯人であろうと、未だ事件(テロル)をしていない者だろうと、治安警察に「社会を防衛するため」に、「戦闘の論理」として、たとえその場で殺害されるとしても文句は言えません。当時の私はどのようにされても文句を言う資格のない人間でした。しかし、殺されることなく来ました。

 私はこの命を、保守主義の立場から行う、日本の永続のための戦いに使っていきたいと思っています。もし、ロシア、中共、北朝鮮に侵略されたら、日本国家は亡び、日本人は何百万人も殺害され、残りの日本人は自由ゼロで迫害されるのです。


2013年12月14日記
大森勝久


●追記
 先程(2014年1月8日)、職員が来まして、「昨日、外部交通権のない人から手紙が届きましたが、交通権がないため交付はできません。ただ、同封されていた切手は交付します」と告知されました。「星座シリーズ」の80円切手10枚を交付されました。お名前もご住所も分かりませんが、ありがとうございます。本ホームページのトップページに、連絡先のメールアドレスが載せてあります。そちらへご連絡していただければ、間接的に私に届くことになります。

大森勝久

第53回 新証拠を全く批判できない検察官の「意見書」(2014年1月8日記)

検察官が2013年12月25日に「意見書」を提出しました
 私たちは第2次再審請求を2013年1月23日に札幌地裁に請求しました。地裁は同年3月11日に、検察官に対して「意見書」の提出を求め、私たちに対しても「再審請求補充書」があれば、その提出を求めたのでした。私たちは8月6日に「再審請求補充書(一)」を出しました。検察官の「意見書」はなかなか出されなかったのですが、年末12月25日付で提出されたのでした。全29頁のものです。

 私は弁護人からそのコピーを27日に受け取り、読みましたが、全く私たちの新証拠を批判できないものでした。私は休日明けの1月6日に、弁護人へ私の意見を伝えました。今後弁護人は、弁護団会議を重ねて、いずれ「再審請求補充書(二)」として提出していくことになります。その間、私と弁護人との意見交換もなされることになります。

「新証拠1」(山平鑑定不存在を立証する、蒸発皿を用いた濃縮実験のDVD)が明らかにしたこ
 「山平電話通信用紙」および第1次再審請求時における「山平証言」(2004年9月)によれば、山平氏は8月8日の午後2時30分までに、山平電話通信用紙「添付一覧表」(鑑定資料と各検査の結果を記載したもの)の全ての資料(20点)について、全ての検査項目を終えて、2時30分に電話で中間報告したことになっています。

 山平氏はまずビニールシート、カーテン地、軍手の3点から取りかかったと証言したのですが、彼の証言を再現してみますと、2時30分までに塩素酸イオン検査を終えられるのは第1水溶液(最初に濃縮にとりかかった水溶液のこと)のみで、他の2つの水溶液は、検査可能な濃度にまで濃縮ができないことが明らかになりました(新証拠1)。

 すなわち、確定審で事実認定されました、「山平は2時30分にビニールシート、カーテン地、軍手の3点から塩素酸イオンが検出された旨を電話で中間報告をした」は、完全な誤りなのです。たしかに、検察官の「意見書」は、この3点については、不合理な主張ではありますが反論を試みていました(省略します)。

 しかし、私たちが「新証拠1」で明らかにしたことは、前記3点の資料ですら前述のとおりであるのですから、残りの17点の資料についても、2時30分までに、塩素酸イオン、亜硝酸イオン、硝酸イオン、リン酸イオン、過塩素酸イオン、アンモニアイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオンの検査を終了することは不可能であることは火を見るよりも明らかである、ということです。すなわち、山平鑑定は空想の産物であって、存在しなかったということです。当然、前記3点から塩素酸イオンが検出されたことを2時30分に電話で中間報告した、ということも虚偽です。山平鑑定は不存在なのです。

 検察官は反論不可能なので、残りの17点の検査については、「意見書」では沈黙してしまっているのです。第41回コラムも参照してください。

●「新証拠2」(「リン止めネジ発見」は捏造であることを立証する「発見状況再現実験」のDVD)を全く批判できない検察官意見書
 里警部は8月10日、私が居室に残していった布団袋の中から、リン止めネジ1本を発見し押収した、と証言しました。私たちは、この発見状況を再現する実験を行いDVDに収めました。「新証拠2」です。まず第42回コラム、第43回コラムをご覧になってみて下さい。「発見」が捏造であることがはっきりと判ります。

 検察官は「新証拠2」を正当に批判することは不可能であるため、「意見書」では次のような主張を展開していました。いずれも苦しまぎれの、ためにする主張であることが明白です。

 (1)布団袋は深さが80pもあり、手を中に入れて底をたたくことはできません。検察官は〈中の布団や毛布などを取り出した布団袋は、写真を見ると、側面はくしゃくしゃにつぶれた状態になっている。だから里警部が、2人の警察官に布団袋の両端を持たせて持ちあげさせても、側面はくしゃくしゃにつぶれている状態であるから、里は手を中へ入れて容易に布団袋の底をトントンとたたくことはできたのだ〉と反論しているのです。

 愚かな主張です。布団袋は持ちあげれば、自らの重さでくしゃくしゃになっていた側面は一瞬で真っ直ぐに伸びて、80pの深さになってしまうのです。手は底に届きません。

 (2)検察官は布団袋を写した小さな写真を利用して、〈写真を見れば布団袋の内側は白い布製だと認められるから、里が手を中に入れて底をトントンとたたいても、直ちにリン止めネジが飛びハネ回るとは限らない〉と反論していました。

 しかし、里警部が作成した8月10日付検証調書には、布団袋は「ビニール製」と明記されているのです。同検証調書には、布団袋の内部についても言及がなされています。また、谷津警部が作成した8月16日付検証調書では、「レザー張りの布団袋」と記されています。こちらも中を検分したことも書かれています。もしも、外側はビニール製(レザー張り)、内側は布製であれば、そのようにちゃんと2つが記載されます。ビニール製またレザー張りとしか書かれていないのは、外側も内側も同じ材質だからです。検察官の主張は、完全にためにする主張です。

 以上、一部についてのみ批判を述べましたが、検察官の「意見書」は、新証拠1、2にもはや反論できないことを逆に示した内容になっています。

2014年1月8日記
大森勝久


●追記
 先程(2014年1月8日)、職員が来まして、「昨日、外部交通権のない人から手紙が届きましたが、交通権がないため交付はできません。ただ、同封されていた切手は交付します」と告知されました。「星座シリーズ」の80円切手10枚を交付されました。お名前もご住所も分かりませんが、ありがとうございます。本ホームページのトップページに、連絡先のメールアドレスが載せてあります。そちらへご連絡していただければ、間接的に私に届くことになります。

大森勝久

第54回 ふるさと岐阜市を毎日思い浮かべています(2014年2月1日記)

ある女性のこと
 愛するふるさとがあることは幸せであり、生きる力にもなります。私は大学時代を岐阜市で暮しましたから、岐阜の街はふるさとです。寮時代の友達がいて、別の学校でしたが彼女がいて、素晴らしい自然があったからです。彼女の方から別れを言われたのですが(私が誤って、左翼運動にのめり込んでいったため)、私は彼女のことを嫌いになったことは一度もありませんでした。

 逮捕されたとき、私は彼女に迷惑がかからなければいいがととても心配したのですが、警察も彼女の存在を調べられないことが分って、ほっとしたものでした。私の大学時代のかつての友人達も彼女のことはほとんど知らなかったし、少しばかり知っていた人も警察に訊かれなかったか、訊かれても黙っていてくれたためでしょう。

 彼女とは私が2年生の時に、大学の軽音楽部が恒例の「12.24クリスマスイブ・ダンスパーティー」を街の中心部に近い商工会議所の2階大ホールで開催した時に、偶然知り合ったのでした(1969年12月)。他大学等からも多くの人が参加していたのです。「柳ヶ瀬ブルース」が流行していた頃で、この曲でも彼女と踊ったものです。今もその時のことを鮮明に思い出すことができます。終ってから柳ヶ瀬の洋酒喫茶に入ってから、家まで送っていきました。

 私は一目惚れして、「明日岐阜公園で会いませんか」と言って別れたのですが、翌日来てくれた彼女は、「昨夜だけの思い出にしましょう」とだけ言って、帰っていきました。大ショックでした。私はその後も彼女のことを想って過していたのですが、もう忘れようと諦めかけた1970年4月頃に、彼女からアパートに電話がかかってきたのです。住所や電話番号などは洋酒喫茶でメモして渡してありました。美江寺公園で再会することになり、お付合いが始まったのでした。長良川で泳いだり花火を見物したりと、幸せな日々でした。

 しかし4年生になり、私が左翼運動に段々とのめり込むようになっていったために、彼女を悩ませることになってしまい、ちょうどクリスマスイブ頃に同じ美江寺公園で、彼女から別れを告げられることになったのでした(1971年12月)。彼女の早足の後姿が街角に消えていくのを、私は涙を流しながら見つめていました。

 ところが、それから2年後の1973年のクリスマスイブ頃ですが、彼女から多治見の実家に突然電話がかかってきて、「会いたいのですが」と言われたのです。私はすぐ岐阜へ飛んで行きました。数日後にもう一度会ったのですが、矢張り「ついて行けない」ということでしょう、彼女は無言のまま身を翻して早足で去っていきました。私はその後姿に向かって、「気をつけて!」「元気で!」と言うだけでした。

 以前から予定していたことですが、私は半年後の1974年6月末に北海道へ移り住むことになります。北海道に行く前に一目彼女の姿を見ておきたいと思って、私は夜、車で彼女の家の前まで行きました。出発の2,3日前です。幸運にも20メートル位の距離から車の中から、テレビを観ている彼女の姿を眺めることができました。これが彼女を見た最後でした。幸せなご家庭をつくってくれていることを祈っています。

毎日バス路線沿いの風景を思い浮かべて楽しんでいます
 私は毎日しかも何回も、岐阜の路線バス沿いの風景を思い浮かべて楽しんでいます。ワンマンバスでしたが、アナウンスをまねて「バス停名」を順に口ずさみながら風景を思い浮かべています。第32回コラムでも書きました。まずアパートの部屋から出発して、「長良天神」でバスに乗り、「次は長良北町です」「次は長良が丘です」「次は鵜飼屋です」「次は長良橋です」「次は岐阜公園前です」と言いながら、「岐阜駅前」まで18のバス停の各区間の風景を思い浮かべていくのです。そして「岐阜駅前」から逆コースで「長良天神」に戻り、「正木アパート」の自室に入るのです。途中で、彼女の家があった地区にも寄り道します。

 こうして道を辿っていきますと、やはりアパートに近づく帰りのコースの方がより嬉しいことが分かります。特にアパートがあるエリアを見渡せるようになった頃から、懐かしさの感情が一段と強くなります。人にとって家(アパート)はとても重要なのです。

 「岐阜公園前」からのゆるやかな坂を登り切った所に、「長良橋」のバス停があります。ここに来ますと、「この先に私のアパートがある!」という感覚になるのです。というのは、長良橋は堤防よりもかなり高い所に架っているため、橋を渡っていきますと、前方(北側)にアパートのある長良天神地区も視野に入るようになるからです。アパートのすぐ横にある長良天神神社の森が見えてきます。もちろん、アパートから毎日見ていた百ヶ峰(そのふもとに2年の6月まで入っていた寮がありました)もはっきりと望めます。

 長良橋は300メートル位もある長い橋です。「長良橋」から「鵜飼屋」(橋を渡り切った所)の間に、一気に視界が広がります。とても好きな景色です。前記のことに加えて、右手(東側)には、係留されている鵜飼観光の赤い屋根の屋形船が何艘も見られます。広い河原と彼女とも泳いだ流域が広がります。緑深い金華山の全容が見えてきます。両岸沿いには美しい観光ホテルが連なっている姿が目に入ってきます。左手(西側)の下流域はより一層広々としており、やや左に曲がって流れていき、遠くに金華橋を望めます。川の北側には県営グランドの森が見えます。

 長良橋を渡り切りますと、「鵜飼屋」から「長良北町」までゆるやかな下り坂になります。直線の道なので、600メートル位先にある長良北町を見通すことができるのです。私はこの光景もとても好きです。といいますのは、長良北町にはいつも買い物をしたスーパーやよく利用した食堂や喫茶店があり(当然彼女とも一緒に入った)、アパートとともに私の生活空間の中心であった懐かしい地域だからです。

 長良北町のひとつ向こうが「長良天神」のバス停です。私はここで下車をすると、「次は正木アパートです」と口ずさみ部屋までの道程を思い浮かべていきます。バス停から60メートル位のところにある正木アパートは見えています。道を渡って、用水路とアパートの間にある1メートル程の細い道を通って、アパートの通路に入ります。私は自転車をこの通路に置いていました。下駄箱があって(置かれている彼女の靴も浮かんできます)、急な階段を登ると共同台所と共同トイレがあって、私の4畳半の部屋となります。3つ目です。私はドアを開けて入り、南向きの窓から見える金華山を眺めるのです。

 私はこういうことを毎日何回も繰り返して楽しんでいます。私はふるさとの岐阜を心から愛しています。

 私は、懐かしい人々が何かの機会に「本コラム」を見てくれることがあるかもしれないと思って、時々こうした裁判以外のことを書いています。それは楽しい作業ですし、文を残すことが、私の生きていく力にもなります。


2014年2月1日記
大森勝久

●追記
 先程(2014年1月8日)、職員が来まして、「昨日、外部交通権のない人から手紙が届きましたが、交通権がないため交付はできません。ただ、同封されていた切手は交付します」と告知されました。「星座シリーズ」の80円切手10枚を交付されました。お名前もご住所も分かりませんが、ありがとうございます。本ホームページのトップページに、連絡先のメールアドレスが載せてあります。そちらへご連絡していただければ、間接的に私に届くことになります。

大森勝久
 
       
  ↑ 長良橋付近より長良川と金華山を望む      長良川 ↑ 鵜飼の屋形船

第55回 8月21日付中島鑑定書の開示命令を申立てました(2014年3月19日記)

2月、弁護人が裁判所に「中島鑑定書」の開示命令を申立てました
 「発見リン止めネジ」の鑑定書は3通ありますが、最初の8月21日付の道警犯罪科学研究所吏員の中島氏の鑑定書(8月16日から18日に実施)は、1審、2審の法廷に提出されませんでした。検察官が隠してきたのです。この鑑定書には、「ネジのドライバー溝には、ドライバーで付いた目立った傷は見受けられない」といった記載があるはずです。

 証拠物になっている「発見リン止めネジ」(766番)には、ドライバー溝の片側に1ヶ所、反対側に2ヶ所、計3ヶ所にドライバーで付いた目立った傷があります。鶴原警部補は法廷で766番のネジを見て、すぐに「傷がグッとあるのですが」と証言しています(第50回コラムの2節目参照)。道警は、〈犯人は時限装置の工作をするため、何度もリン止めネジをはずしたり、絞めたはずであり、傷がついてないネジだと、道警が捏造したことが分かってしまう〉と後日気付いて、傷の付いたものにスリ替えたか、傷をつけたのです。そして、8月21日付中島鑑定書は隠すことにしたわけです。これらのことは第51回コラムに詳しく書いてあります。参考にして下さい。

 本当にリン止めネジを発見したのであれば、後日スリ替える等をするわけがありません。つまり、スリ替えた事実が、「発見」が嘘であり、道警(里警部)が捏造したネジであることを証明するのです。

「リン止めネジを発見」した里警部の証言内容―傷はない
 1審46回公判で、弁護人に尋問をされてリン止めネジ「発見者」の里警部は、「まあ、これに固有の特徴というのはないと思いますけど。」「これはもう、マイナスネジであり、大きさといい、これは当時私がよく確認しておりますので、これに間違いないというふうに思います」と証言しています(46回51頁)。

 そして弁護人の、「仮に二つのネジがあったら、同じようなネジがあったら、こちらがそうで、もう一つが違う、などという区別は、できないでしょう」の質問に、「全く外見上同じようなものであれば、判断できません」(52頁)と証言したのでした。

 すなわち、里警部は自分が「発見」したネジには、前記したような3ヶ所のドライバー痕はないことを明白に証言しているのです。

 なお、検察官は今回の「意見書」(2013年12月25日)で、「同ネジのドライバー溝部分に傷があるか否かは、同ネジを一見したところでほとんど判別できず、時間をかけてじっくりと注視して観察することにより、かろうじてドライバー溝の片側先端に、ごくわずかの傷が見て取れるにすぎないから、里や中島が同ネジの傷に気付かなかったとしても、決して不自然とは言えない」と書いています。これは、すぐ判る下手な逃げの弁解です。

 鶴原警部補が47回公判で肉眼で見て、すぐ傷を認めています。私たちも当時49回公判で、鑑定人・吉村新工場長が証言(ドライバー溝に傷があると)したときですが、766番のネジを法廷で見ましたが、すぐに傷が判りました。

 1審の検察官は、目立つ傷がないとする中島鑑定書(8月21日付)の存在を知っており、リン止めネジのスリ替えを認識していたからこそ、里警部(46回、47回公判)にも中島鑑定人(48回公判)にも、傷について訊くことを避けたのです。


2014年3月19日記
大森勝久

第56回 桜は思い出深い花です(2014年4月10日記)

桜は最も好きな花です
 裁判の方はまだ動きがありませんので、それ以外のことを書きます。2人の友人の手紙(4月3付と4日付)に、桜の話題が書かれてありました。桜前線の話と庭の桜の話です。関東はもう桜なのですね。札幌は今冬は雪が多かったので、やっと4月7日に積雪ゼロになりました。でも道路横には雪はまだ残っています。札幌のソメイヨシノの開花は、平年ですと5月5日前後です。風呂の日に窓の隙間(1センチ)から150メートル位先にかすかに眺めることができます。待ち遠しいです。

 1973年に私は北海道を調査のために訪れましたが、このとき、私は3月末頃に大阪で桜を見て、4月初旬に岐阜(美濃加茂市と岐阜市)で見て、東北本線に乗るために東京の上野公園の桜も愛でて、北海道では5月に桜を見たのでした。

 桜は美しいし、一番好きな花かもしれません。まつわる思い出も多い花です。大学の時は彼女と、また学友と花見をしたものです。私が社会で過ごした最後の春は、1976年の札幌でしたが、隔日出勤の仕事(朝9時から深夜1時)をしていましたので、昼間は時間がありました。桜を見に、北海道大学キャンパス、円山公園・北海道神宮、中島公園、旭山公園、遠いところでは野幌自然公園などへ車で出掛けました。友人は誰もいませんでしたが、一人でも楽しめました。

 現札拘の150m西側にあった旧札拘(2001年2月まで)では、中庭が見られました。2本の桜(ソメイヨシノ)の木があったのですが、風呂場からだと5、6メートルの近さにあったのです。風呂は午前中に入ります。花弁もよく見えましたし、甘い香りもただよってきていました。散る花弁が浴槽まで飛んでくることもありました。旧札拘では戸外運動は土のグランドで実施していました。私が入る独居運動場の4、5メートル前には、八重桜が2本ありまして、こちらは5月17、18日頃が満開でしたので、2度桜を楽しむことができたわけです。現札拘は外は見えません。

父母との思い出
 母は昨年3月に永眠しました。父は26年前に亡くなっています。2人とも居なくなってしまうと、さすがに喪失感があります。私を丸ごと愛してくれた父母ですから。それで、父母とのいろんなことを思い出しています。

 私は1974年の1月12日頃に運転免許をとり、2月中旬頃に知人の知人から中古車を安く(3万円)譲ってもらいました。74年の春、私は桜の花見に車に家族(父母と妹弟)を乗せて出かけたことがありました。1つは2つ隣の瑞浪市の山頂公園の桜です。もうひとつは多治見の桜の名所・虎渓山です。多治見では他にも2、3ヶ所行きました。

 瑞浪の方では、ちょっとした「事件」もありました。運転経験が浅いため、道路の見極めがよくできなかったための事件です。両方とも舗装されていなかったのですが、横へ入っていくもう一本の道があったのです。見た感じ幅も広いので、勾配が少しきついかなと思われたのですが、私は山頂へ通じているだろうと思い込んでしまい、そっちの道を行くことにしました。

 セカンドギア・ローギアで登って行ったのですが、左へ曲がったら、急にぐんと勾配がきつくなり、とても登れないことが判り、私は急ブレーキを踏み、すぐサイドブレーキも引きました。不安がる全員にゆっくりと降りてもらい、平静を装って、バックのまま苦労して下まで降りました。冷や汗ものでした。初心者マークのドライバーも多いのですから、「通行止め」の標識を立てなくてはいけません。

 5月に入ってからだと思いますが、私は父母を車で大学時代を過した岐阜市を案内してあげました。新緑の季節です。木曽川沿いの道路を通って行きました。金華山と連なっている隣の山へ車で登り、岐阜の街を展望しました。2年生の6月まで住んだ望峰寮の私の部屋も近くまで行き見せてあげました。長良川の堤防上の道路も走りました。繁華街の柳ヶ瀬にある彼女ともよく入った「三愛」という一番大きい喫茶店へも連れていってあげました。父母は幸せそうでした。
 
 父母との思い出を大切にしていきたいと思います。

2014年4月10日記
大森勝久

第57回 UHBテレビが「スーパーニュースU」で本件再審請求を取り上げました、他 (2014年5月22日記)

●5月13日UHBテレビが「スーパーニュースU」で道庁爆破再審請求を取り上げました
 5月1日妻が面会に来てくれたのですが、UHB(北海道文化放送)テレビの記者が門の所にいて、私に次の点について考えを聞いてもらえないでしょうかと頼まれた、と言うのでした。「袴田事件で再審開始決定が出されましたが、このニュースを聞いて道庁爆破再審請求について、どう考えていますか?今最も訴えたいことは何でしょうか?」が質問でした。私は妻に、次のように記者に伝えてくれるよう話しました。

 「発見リン止めネジ」は警察が捏造した証拠です。多くの証拠について知識がない人であっても、特定の証拠つまり「発見リン止めネジ」が真正なものなのか、捏造証拠なのかは、検察側証拠と弁護側証拠を科学的に検証すれば、自ずと答えが出てくるものです。私たちは「発見状況の再現実験(DVD化)」によって、捏造であることを明らかにしました。マスコミにも科学的に検証してもらいたいと思います。

 検察官は「発見リン止めネジ」の最初の鑑定書を開示していません。その後の2通の鑑定書は証拠請求しました。検察官が最初のものを隠しているのは、「目立った傷は付いていない」という記載があるからです。警察は後日、工作した時計のネジに傷が付いていないのはマズイと気付いて、傷を付けたのです。この鑑定書が開示されれば、警察がネジをスリ替えた(偽造した)ことが証明されます。それは、とりもなおさず「発見リン止めネジ」は捏造物であるということです。検察官はこの鑑定書を開示しなくてはなりません。しないときは、裁判所は開示命令を出さなくてはなりません。私たちは2月6日に「証拠開示命令申立書」を裁判所へ提出しました。

 「スーパーニュースU」は平日の午後4時40分から午後7時の番組です。5月13日のテレビ欄のそこは、次のようになっていました。「袴田さん釈放の報道を、OL殺人再審を認めずを、札幌拘置所の塀の中で、彼はどう受けとめたか。38年前の道庁爆破事件。大森死刑囚の無罪信じ面会を続ける獄中婚の妻。証拠は誰のものなのか」。

 友人によると、4月18日に弁護士事務所で行った「リン止めネジの発見状況再現実験」も放映され、弁護士の話なども含めて14分間にわたって放送されたとのことでした。友人は「いい番組になりました」と言っていました。

岐阜長良川の鵜飼が始まりました―アユは食べたことがありません
 ふるさとの岐阜市では鵜飼が始まっています。「パンフレット」には毎年5月11日から始まると書かれています。毎日岐阜の写真を眺めています。昔のことが懐かしく思い起されます。ふるさとはいいものです。私は「45回コラム」で鵜飼について書いたとき、「かがり火」を魚を集めるためのものと書いてしまいましたが、誤っていました。

 5、6ヶ月前になりますが、友人が西村京太郎の古本(100円)の小説を送ってくれたのです。岐阜を舞台にした小説でした。その中に鵜飼について書かれたところがあり、自分の誤りに気付かされたのです。アユは暗くなると、川底の岩や石の下に入って眠るのだそうです。眠っているところに、かがり火で急に明るくなると、アユは驚いて飛び出してくるのです。そこを鵜たちが捕えるということでした。

 アユの塩焼きは、岐阜の旅館・ホテルでは郷土料理として出されているようですが、私は一度も食べたことがありませんでした。普通の食堂では出していなかったと思いますし、若い頃は焼魚はあまり好きではなかったので、有っても注文しなかったと思います。でも今から思うと、一度は食べておきたかったなと少々残念に思います。郷土料理ですからね。

 当時、長良川の堤防上の道を自転車でよく走りましたが、そのときに川の中に入ってアユ釣りをしている人をよく見かけました。自転車を降りて川岸まで行って見物したこともありました。アユ釣りは多治見の土岐川でもしていました。私が小学生の頃です。

 思い出が一杯の岐阜の街と自然が、調和を保って発展していってほしいと願っています。


2014年5月22日記
大森勝久

第58回 検察官はまだ8月21日付中島鑑定書を開示しません (2014年6月12日記)

2月6日付「証拠開示命令申立書」について
 弁護人は去る2月6日、札幌地裁に「証拠開示命令申立書」を提出しました。裁判所に対して、検察官に対して証拠開示を命ずるように申し立てたものです。

  私たちは開示を求める証拠として、次を挙げました。
 (1)本件ネジ発見状況に関する捜索差押、実況見分および検証時に撮影された全ての写真およびネガフィルム。
 (2)8月21日付中島富士雄・本実作成の鑑定書およびこれまで未開示であった(1)の写真以外の本件ネジに関する検証調書、鑑定書、捜査報告書、写真撮影報告書、供述調書その他関連する書類および添付の写真、ネガフィルムを含む資料全て。
 (3)布団袋およびこれに関する未開示の写真撮影報告書、検証調書、鑑定書供述調書その他関連する書類および添付の写真、資料全て。
 (4)送致目録(証拠ではありませんが)の開示も求めました。送致目録とは、警察が検察庁へ送った証拠の目録のことです。
  他にも開示を求めた証拠はありますが、判りづらいでしょうから省略しました。

  (2)の8月21日付中島・本実鑑定書(これまで単に中島鑑定書と書いてきたものです)は、その存在が明白になっているものであり、検察官は開示しなければなりません。拒むならば、裁判所は刑事訴訟法316条の26に基づいて、検察官に対して開示命令を出さなくてはなりません。

  2004年の刑事訴訟法改正によって、公判前整理手続き等における「証拠開示制度(類型証拠開示、主張関連証拠開示)」が、新たに設けられました。この「証拠開示制度」について、元東京高裁裁判官の門野博氏は、それが「再審請求事件」にも及ぶことを明確に論じています。以下に引用します。

  「再審事件(ここでは、犯人性が争われ、請求人が提出した新証拠の明白性が問題になっているようなケースを想定している)においても、もし、その事件において、公判審理の段階で今回の新法による公判前整理手続きが行われ、証拠開示が行われていたとすれば開示されたであろう証拠については、証拠開示がなされてしかるべきであろう」。「元来、類型証拠、主張関連証拠として開示が認められたような証拠については、再審手続きにおいても、その開示を認める方向で検討すべきものと思われる。そのような証拠について証拠開示が求められれば、検察官は積極的に対応すべきであり、裁判所としても、同様の方向で、当事者間の調整に当たるべきものと考える」(弁護人の「証拠開示命令申立書」より)。

まだ検察官の「意見書」は出されていません
 裁判所は検察官に対して、前記「申立書」に対する意見を求めたはずですが、検察官からの「意見書」はまだ提出されていません。検察官は大いに頭を悩ませていることでしょう。

  8月21日付中島鑑定書が開示されれば、8月10日に布団袋の中で「発見」されたというリン止めネジは、ドライバー溝部分に、目立つドライバー痕は付いていなかったことが明らかになります。しかし、証拠になっているネジは、ドライバー溝にドライバーで付いたはっきりした傷が3ヶ付いているのですから、警察が後日、ネジをスリ替えたか、ドライバー溝に傷を付けたことが明らかになります。

  本当に布団袋の中から発見されていたら、こんな証拠の偽造は絶対にしないわけですから。「発見」そのものが捏造であったことが証明されるのです。


2014年6月12日記
大森勝久

 第59回 ホームページの性格/札幌にも夏がきました(2014年7月3日記)

本ホームページの性格について
  このホームページを開設するに当たって、私と管理者との間で、「このホームページは、裁判(でっち上げ粉砕)のことと、時々挿話をまじえて作っていく。私の保守主義の政治主張は、別のホームページ(「大森勝久評論集」。別の管理者)で行う」という取り決めをしました。

 それで私は、裁判について書くときも、証拠の捏造を具体的に明らかにしていくことに終始して、この裁判に臨む保守主義者としての考えを述べることは、述べる必要はありますが、ごくまれに書くに留めています(第7回34回52回のコラム)

 また私は、裁判以外のことを書く場合も、できるかぎり思想から離れたテーマで書くようにしています。

 ホームページを訪れる方の大部分は、保守派など非左翼の方と思われますが、上記のようですので、ご了承願います。

札幌にも夏がやってきました
 なかなか気温が上がらなかった札幌ですが、やっと夏日が続くようになってきました。今日7月3日は屋上運動日でしたので、出て来ました。この間、ずっと1番目か2番目の運動時間でした。出る人数が少ないためです。でも今日は、今年初めての3番目(午前9時50分頃から10時20分)でしたから、座っていても太陽を浴びることが出来ました。光のエネルギーが体の中に入ってくる感じがします。短パンとTシャツ姿で運動に出ました。

 私は昨年1月頃から、右の腰・尻・太ももが筋肉障害になり、一度に200歩程度、1日合計では700歩程度くらいしか歩けなくなってしまいました。屋上運動場までは片道160歩位ですので、出ることが出来ます。屋上運動場ではずっと座って時間を過します。筋肉を休めて、筋肉の硬直が少しでもほぐれてくるようにするわけです。

 雲ひとつない真っ青な夏空を眺めながら、岐阜市の街並みを思い浮かべて30分間を過しました。アパートから順にバス停名を口づさんで岐阜駅前まで行き、またアパートまで戻ってくるのです。それを2度、3度繰り返して、幸せな気分を味わってきました。当時の彼女の姿も思い浮かべてきました。1970年の夏、彼女とは長良川でも泳ぎました。

 少し前ですが、弁護士に1976年8月10日付の検証調書の「添付写真」を送ってもらいました。私が逮捕された直後に実施された、私の居室の検証をした調書がこれです。本文は前から持っていましたが、写真を見ながらまた読んでみたのです。調書には、台所横の廊下に置かれていたものとして、ビール(633ミリリットル)の空ビン5本、コカコーラ(500ミリリットル)の空ビン13本、オレンジジュース(500ミリリットル)の空ビン3本、カルピス(633ミリリットル)の空ビン1本が書かれています。添付写真にはくっきりと写っていました。

  私は1976年7月8日から、身を隠すためにアパートを出て東京へ行っていました。7月20日には一旦戻りますが、またすぐ22日に東京へ行き、8月6日に再び戻っています。ですから、これらの空ビンは7月7日以前のものとなります。私はアルコールは余り飲まないようにしていましたが、コーラは銭湯の帰りとかに自販機で買いよく飲んでいました。苫小牧時代もそうでした。

 「カルピス」という子供や女性が好む可愛らしい飲み物もあります。最初は思い出せなかったのですが、前記した大学時代の彼女が好きで、買ってきたことがあったのです。2人でスーパーで買ったこともあったと思います。このカルピスは、彼女のことを思い出して、買ってみたくなって近くのスーパーJoyで買ったものでした。小中高生の頃は、家でよく飲んでいましたが。

 昨年の例ですと、札拘ではひと夏にアイスクリームやアイスモナカを3回、かき氷を2回出してもらえます。スイカも1回出ます。楽しみです。冷やしラーメン、冷やしそば、冷やしうどん、冷やしソーメンなども出してもらえます。これらも楽しみです。


2014年7月3日記
大森勝久

第60回 夏!中庭に出て太陽を全身に浴びてきました(2014年7月30日記)

裁判は小休止状態です
 私たちは2月6日に、「証拠開示命令申立書」を提出したのですが、これに対する検察官からの意見がまだ出されていません。弁護士によりますと、裁判所の話では、検察官は警察から証拠物等の関連物件を段ボール○箱分入手して整理中とのことです。
  
 そういうわけなので、裁判以外のことを書くことにします。

中庭へ出て楽しい時間を過してきました
 7月29日、死刑確定囚処遇として月に一回ある中庭運動に出てきました。5月から9月の5か月間に限り、大体月の下旬の天気のいい日に実施されます。午後1時過ぎからの30分間です。

 2日前に腰の筋肉を若干痛めましたので、居室から車椅子で出掛けました。職員に押してもらって、中庭の奥の中央辺りの見通しが良い所まで行って、車椅子に座ったままで(下に降りて地面に座りたかったのですが、腰が不安なのでやめて)、景色を眺めながら職員と雑談をして、楽しい時間を過ごしました。

 旧庁舎時代には、中庭から街の家々や遠くの山々も見えてとても良かったのですが、新庁舎の中庭からはそれらは見えず、少年鑑別所の建物と本支所の建物そして職員の官舎が見えるだけです。民間の建物を見たいのですけどね。でも高い壁の外回りには白樺の木々がずっとあり、風にざわざわと音を立てていてこの音が心地良いのです。また葉っぱの深い緑色も心に染み入ってきます。自然は実にいいものです。

 小鳥やカラスの姿を見ることが出来れば、感動がもうひとつ増えるのですが、残念ながら今回は見られませんでした。6月のときにはカラスが一羽エサをとっていました。5月の際は鴨を一羽見かけました。中庭にも木を植えてもらいたいものです。そしたら鳥たちがもっと来るでしょう。

 気温は30.5度あり、この夏6回目の真夏日でした。私は暑い夏が大好きなので、肌を焼く暑さも気持ち良かったのですが、2人の職員は「暑い暑い」を連発し、「汗でぐっしょりだよ」と言っていました。職員は長ズボンと半袖ではあるのですが、道民で暑さを苦にしない人はほとんどいないようです。私は短パンとタンクトップ姿でした。

 太陽の光を全身に浴びる機会はあまりありませんので、中庭運動は貴重です。屋上運動は、3番目の順番でも10時20分頃には終わりますので、夏でも足元にまでは差し込んできません。狭くて高い壁に囲まれた独居運動場ですから。健康維持のためにも、もっと太陽を浴びたいものです。

 この中庭運動ですが、予定されていた日が雨天だとか、晴れても前日の雨で地面が湿っていたり、あるいは曇りで太陽も見えない天候ですと、順延になります。運動日は平日でかつ風呂のない日なので、限られています。そのため悪天候が続いて翌月の上旬まで順延になるケースもあります。昨年は2回ありました。回数はちゃんと確保してもらえるので、安心です。

 屋上運動でも青い空と白い雲は見られるのですが、開放空間ではありません。年5回の中庭運動は、遠くに高い壁は見えますが、広々とした開放空間で、木々や草や建物も見えて、精神衛生上とても貴重な機会です。

 それから、レントゲン撮影が毎年5月か6月に中庭でありますので、年に6回は中庭へ出て楽しむことが出来ます。このときは1、2分間にすぎませんが。

 一昨年8月の中庭運動の時には、職員が建物の壁にとまっていた蝉を捕まえて見せてくれました。羽が透明な大きな蝉でした。札幌では8月に入ってから、蝉が鳴き始めるのですが、数は多くありませんし、本州とちがって2週間程で鳴き声は聞こえなくなってしまいます。一昨年の捕まえた蝉は、7月の運動が8月7日に順延された時のことでした。

 蝉の声を聞きますと、「ああ本格的に夏が来たなあ」という気持ちになります。もうすぐ聞こえてくることでしょう。まぶたを閉じますと、遠い日のふるさとの多治見や岐阜市の蝉の鳴き声が聞こえてきます。夏は大好きです。


2014年7月30日記
大森勝久




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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)