北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第41回〜50回

第41回 新証拠(蒸発皿による濃縮実験DVD)によって、1審決定と抗告審決定を粉砕する (2013年2月3日記)

1審決定(札幌地裁)、抗告審決定(札幌高裁)の不当性
 40回に続いて書きます。山平氏は8月8日に「山平鑑定」を行っていません。彼は8日に鑑定資料37点が来たと言っていますが、ビニールシートとカーテンを含む32点は指紋検出に回されて、8日は鑑定には回ってきていません。軍手と網かご3点と木炭片の計5点は、8日に鑑定のため来ましたが、この鑑定をしたのは本実氏でした。山平氏は一部の手伝いをしただけでした。山平氏は虚偽の「鑑定書」を作成し、虚偽の証言をしたのです。また虚偽の8月8日午後2時30分発の「電話通信用紙」(中間回答書)も作成したのでした(控訴審になってから)。

  ビニールシートとカーテンなど32点は、指紋検出を終えて8月9日に鑑定に回ってきました。この鑑定をしたのも、本実氏たちだったのです。山平氏は9日以降は一切タッチしていません(山平新証言。2004年10月)。「山平鑑定」は完全に捏造物なのです。

  さて、本再審請求書に戻ります。私たちは山平証言に基づいて、「実験準備と全資料観察と仕分」に30分、ビニールシートとカーテンの「外観検査」に各10分、その「付着物の採取」に各1時間余り、その付着物の「顕微鏡検査」に各10分、軍手の付着物をビーカーに浸出させるのに15分を要するとしました。水溶液量は200mlです。

  山平氏は「午後2時30分にビニールシート、カーテン、軍手の3点から塩素酸イオンを検出したと電話で中間回答した」と証言しましたから、3点の塩素酸イオン検査の所要時間計15分を差し引きますと、午前9時から作業を開始すると、3点の水溶液の濃縮に費やすことが可能な時間は、第1水溶液は3時間25分、第2水溶液は2時間5分、第3水溶液は1時間50分になります。

  少し説明します。山平氏は8月8日に、自分一人だけで作業をしたと証言していました。そして、ビニールシートかカーテンのいずれかから始めたと証言していました。ビニールシートから着手したとすれば、9時30分からその外観検査10分、付着物採取60分余り、付着物の顕微鏡検査10分なので、10時50分過ぎから濃縮にとりかかれます。午後2時15分までの濃縮可能時間は3時間25分です。

  次の第2水溶液のカーテンは、第1水溶液の濃縮に取りかかった10時50分過ぎから外観検査10分、付着物採取60分余り、付着物の顕微鏡検査10分なので、昼0時10分過ぎから濃縮です。午後2時15分までに2時間5分を確保できます。

  第3水溶液の軍手は、外観検査と顕微鏡検査はせず、軍手を直接ビーカーに入れて付着物を浸出させました。それは、第2水溶液の濃縮に取りかかった昼0時10分過ぎから15分間浸出させるので、0時25分過ぎから濃縮です。午後2時15分までには1時間50分が確保できます。
  
  ところが、「1審決定」は、水溶液量は175mlであっても不合理ではない。付着物採取と外観検査の合計時間は、弁護人の主張よりも短時間としてもおかしくない。だから、第1水溶液の濃縮時間は10分以上長くなるし、第2水溶液は20分以上長くなり2時間25分以上となり、第3水溶液も20分以上長くなり2時間10分以上を確保できる。だから蒸発皿で濃縮すれば、中間回答までに3点の塩素酸イオンの検出を終えることが不可能ないし著しく困難であったとはいえない、と全く恣意的な認定をして前再審請求を棄却決定したのです(1審決定書44、45頁)。

  「抗告審決定」は、さすがに恣意的な1審決定を斥けて、「山平証言の内容のとうり」、ビニールシートとカーテンの付着物採取時間は「それぞれ1時間余りであり」、「その水溶液はそれぞれ200ml程度と認めるのが相当である」としました(抗告審決定書8頁)。他の時間も弁護人の主張した時間を採用しました(同10頁)。

  ところが「抗告審決定」は「鑑定を速やかに行う必要があった山平は大きな蒸発皿、例えば、容量600mlのものを使用したり、複数の蒸発皿を使用した可能性が高く」(決定書10頁)、そうすると、「2時30分の15分前までにビニールシート、カーテン、軍手の塩素酸イオン検査に着手することは十分に可能であるといえる」。「同様に、8月8日夜までに行われたとされる(その他の)各鑑定も、十分に可能であったと認められる」(10から11頁)と、証拠に基づかない、不合理な想定をもって、即時抗告を棄却したのです。

  しかしながら、当時の道警本部には600mlの蒸発皿はありませんでした。本件捜査に携わった岡本氏は、「最大で直径20cm大の蒸発皿があったが、容量は200ml位」と述べているのです。600mlの蒸発皿の場合、上の直径は19cmですが、底の直径が仮に10cmとしても、10mlに濃縮したら、水溶液の高さは約1.2ミリしかないのです。磁器製なので横からではなく、上から見て判断しなければならないわけですから、これで10mlに濃縮することは不可能なのです。

  また、山平氏は前再審請求審(1審、2004年10月)における証人尋問で、「蒸発皿は各資料ごとに1個を使用しました」と証言しています(山平新証言)。「複数個使用」という「抗告審決定」の認定は、証拠に基づかないばかりか、証拠に反する認定なのです。

新証拠(蒸発皿による濃縮実験DVD)が意味するもの
 山平氏は各水溶液を10mlまで濃縮して、それで塩素酸イオン等の検査をしたと証言していました。

  私たちは濃縮時間が2時間5分(第2水溶液の濃縮時間)のケースと、念のために「1審決定」が不当にも述べた2時間25分(2時間30分とする)の2ケースで、260mlの蒸発皿を用いて200mlの水を濃縮していき、残量を測定しました。ウォーターバスには4個の蒸発皿を同時に載せましたが、位置により残量にバラつきが生じました。かくはん機能がないためです。

  2時間5分の濃縮では、残量は28.1ml、29.0ml、33.7ml、36.0mlでした。
  2時間30分の濃縮では、残量は7.0ml、11.1ml、14.0ml、14.8mlでした。10ml以下になったのは4個のうち1個のみです。

  これによって、午後2時30分発の「中間回答」までに10mlまで濃縮できるのは、第1水溶液だけとなり、3点から塩素酸イオンを検出したという山平証言の虚偽が、明白になったのです。2時間30分の濃縮時間を確保したケースでも、第2水溶液は4個中1個しか10ml以下になりませんから、これでは第2水溶液も濃縮できたと言うことはできません。第3水溶液は、証拠上、液量は定かではないのですが、同じ200mlならば、当然午後2時15分までに濃縮できません。「1審決定」、「抗告審決定」の誤りは明白です。

●「電話通信用紙(中間回答書)(8月8日午後2時30分発)」の意味
 「電話通信用紙(中間回答書)」には、「鑑定資料」の欄に「別紙」と書かれています。「別紙」(一覧表)が添付されており、そこには検査をした資料名と検査項目とその結果が記載されています。つまり、「中間回答」をした午後2時30分までに、「別紙」(一覧表)に記載されている検査を実施したということです。8月8日の「夜」までに実施したのではありません。「抗告審決定」の認定は完全に誤っています。

  前記3点以外にも、ポリバケツ、ヘラ2個、スプーン4個、コップ大4個、コップ小3個、ザル1個、青ビニールザル2個も検査し、塩素酸イオンだけでなく、亜硝酸イオン、硝酸イオン、リン酸イオン、過塩素酸イオン、アンモニアイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオンの検査もしたことになっています。

  「抗告審決定」の想定(600mlの蒸発皿を使う、蒸発皿を複数個使用)に従っても、「別紙」(一覧表)記載の検査を午後2時30分前までに終えることは到底不可能であることは明白です。

  「電話通信用紙(中間回答書)」(8月8日午後2時30分発)も捏造されたものです。

  「山平鑑定」は存在しておらず、私が除草剤を所持していたとする証拠は無くなりましたから、「本件爆発物の製造」という間接事実の認定はできなくなります。むろん、公訴事実である「本件の実行」の認定はできません。再審が開始されなくてはなりません。


2013年2月3日記
大森勝久

第42回 「発見リン止めネジ」が捏造証拠であることを証明する新証拠(2013年3月16日記)

●里幸夫警部の証言内容
  北海道警察は、本件爆発物の時限装置(トラベルウォッチ)の爆破現場物を調べて、犯人の元にトラベルウォッチのリン止めネジ2本が残されたことを突きとめました。遅くとも事件(1976年3月2日)の2ヶ月後の5月には突きとめています。私は同年8月10日、間借りしていた大家さん宅を出て(前夜、大家さんご夫妻はお別れ会をしてくださいました)、苫小牧のフェリーターミナルに着いたところで逮捕されました。午後3時21分です。里警部を班長とする7名は、3時30分頃に大家さん宅に着き、4時18分から私が間借りしていた部屋の検証と捜索差し押さえを開始したのでした。そして、「リン止めネジ」1本を布団袋の中から「発見した」というのです。
  
  里警部の証言骨子は以下です(1審46回、47回公判)。
  @ 差し押さえるべき物件は、塩素酸塩類や時計や時限装置及び起爆装置の材料となるべき物件等々です。
  A 布団袋はひもをほどいて、中の掛布団2枚、敷布団、毛布、ロープと細引きを取り出しましたが、空になった布団袋の「中をのぞき込むようなことはしませんでした」(47回12頁)。(捜索しているのですからのぞき込むのが当然です。里証言は嘘です。後述します。大森)。
  B 空になった布団袋を2人の警察官に両方から持たせまして、「私が中に手を入れて底の中心部をトントンと手でたたいて、布団袋の周囲に付着しているゴミなどが底のまん中に集まるような形で底をトントンとたたいてみました」(第46回、16、17頁)。
  C 次に、布団袋を「いったん下に置いて広げてみて、ゴミを検分した段階で(ネジを)発見したということです」(46回、17頁)。「それ(ゴミ)を手で丹念により分けるような形で見た状態で発見したと、こういう状況です」(47回、31頁)。
  D ゴミの量は、「ごく少ない。盃に1杯くらいのゴミです」(47回、31頁)。「底に少したまったゴミ、綿ぼこりだとか、髪の毛みたいなものだとか、ロープの切れ端、ゴミみたいなものですが、その中に金色のビスが1個入っておったと、これを発見しました」(46回、17頁)。

●里証言の再現実験DVD(新証拠)−里証言は頭の中で作り上げたもの
 (1)私の布団袋は、道警の8月16日付検証調書によれば、縦65cm、横95cm、高さ(深さ)80cmです。内側は白色です。私たちは再現実験をするために、この寸法の布団袋を特別注文して作ってもらいました。内部の状況が見えるようにするために、横2面は透明のビニールにしてもらいました。リン止めネジは、同一規格のネジを用意しました。盃に一杯のゴミも用意して、再現実験をしてDVDに収めました。

  里警部が証言したことの大部分は、実際に行なったことではなくて、頭の中で想像して作り上げたものであることが直ちに明白になったのです。手を布団袋の中に入れて、底の中央部をたたこうとしても、手が全く届かないのです。一番手前の底にも届きません。

  (2)私たちは、手が底に届く市販されている布団袋も購入して、それで里警部が言ったことを再現して、DVDに収めました。大きさは縦65cm、横100cm、高さ(深さ)50cmです。

  底の中央部をトントンとたたきますと、リン止めネジはハネ上ったり、右や左にと目まぐるしく動き回ります。ですから、すぐに「ネジらしいものがある!」と分かります。里証言の前記Bが嘘であることがすぐに分かります。

  布団袋を下に置けば、ゴミをより分けるまでもなく、すぐにネジらしいものがあると分かります。彼らはリン止めネジを探しているのですから。盃一杯分のゴミといいましても、固形ゴミではなく、綿ぼこり、髪の毛、ロープや細引きの切れ端です。軽いですから1ヶ所に集まりません。また、透けて見とおせるのです。Cも頭の中で作ったものです。
  
  里証言は全くの虚偽であることが明らかになりました。「発見リン止めネジ」は、道警の幹部から渡されたものであり、里警部はそれを手の中に隠し持っていて、前記Aで、掛布団や敷布団や毛布等を取り出した後に、すぐ彼一人で空になった布団袋の陰になっている隅の方を探すふりをした後に、それを手の掌に乗せて、これが布団袋の中にあったとして、写真をとらせたのでした。前記のBCDは、「発見」をもっともらしく印象づけるためにした、全く架空の作り話なのです。

  本裁判では、直接的な物証は当然のことながら何もありません。だから、この「発見リン止めネジ」は同一規格のものですから(シチズン製は全てが同一規格ですが)、裁判所は重要視しました。だが、捏造されたものであることが証明されたのです。

  山平鑑定にしろ、この発見リン止めネジにしろ、北海道庁前での目撃証言にしろ、捏造証拠です。道警はこうした中心的な証拠を捏造して、私を本件で逮捕していったのでした。

2013年3月16日記
大森勝久

第43回 「発見リン止めネジ」は捏造証拠―里幸夫警部の「発見演技」と嘘証言(2013年4月9日記)

里幸夫警部の「発見演技」と嘘証言(1審46回、47回)
 第42回コラムでも書きましたが、家宅捜索の班長である里幸夫警部は、ア:布団袋の中の上下布団、毛布、ロープ、細引きを取り出させた後、イ:空になった布団袋を2人の警察官に両方から持たせて(畳から持ち上げさせて)、自分が手を中に入れて、底の中心部をとんとんと叩いて内部のゴミなどが真ん中に集まるようにして、ウ:布団袋を畳に降ろさせて、自分がゴミを丹念により分けるようにして検分しているときに、初めてその中に金色のネジ1個があるのを発見しました。エ:そのネジを自分の手のひらの上に置いて、カラー写真を撮らせました、と証言しました。

  アとエは事実ですが、イとウは嘘証言です。里警部は空になった布団袋を2人に持たせてトントン叩くようなことはしていません。それは42回コラムに書きましたように、新証拠の「発見状況(里証言)再現実験DVD」で明白になりました。そのことは「発見」が嘘だということです。「発見リン止めネジ」は捏造された証拠なのです。

  里警部はどのように「発見演技」をしたかですが、42回でも書きましたが、再度述べます。里警部は、アの後、手の中にリン止めネジを隠し持って(親指と中指ではさむとか)、彼1人で空になった布団袋の中、とくに横の面が垂れて陰になる隅の方を捜すふりをした後に、ネジを手のひらの上に乗せて、「カラー写真でこれを撮ってくれ」と佐藤修一巡査部長に指示して、撮らせたのです。

  佐藤修一巡査部長は、写真撮影を担当しました。布団袋のそばにいて捜査状況を見ていましたが、彼は後述するように、アの後に、空になった布団袋をすぐに検分したことは見たのですが、イやウなどは見ていません。佐藤氏の証言(1審47回公判)によっても、里警部のイ・ウの証言が嘘であるが分るのです。

  イとウは、里警部が「ネジ発見」を真実らしく裁判官と弁護側に印象づける(洗脳する)ために、頭の中で作り出した話なのです。ネジの発見は、2名の警察官もこのような形でちゃんと見ており、本当に発見されたのですよ、というわけです。

●佐藤修一巡査部長の証言(1審47回)が、里警部証言が嘘であることを明らかにする
 佐藤巡査部長は写真撮影を担当していました。白黒フィルムのカメラ1台とカラーフィルムのカメラ1台を首に吊って撮影をしました。彼は里警部が証言した後の、同じ47回公判で証言しました。極めて重大なことが証言されています。

  佐藤氏は「班員の検証なり、捜索差押の状況を写すのも、私の役目です」(47回、15頁)と証言しています。また、目だけでなく耳(声)でも班員の動きを把握する旨を証言しています(16頁)。

  彼は布団袋の中から上下布団、毛布を取り出して、ロープが残った状態の布団袋を白黒写真で撮っています。白黒写真26番です(27,28頁)。次が重要です。(弁)の「そのひも(ロープ)は、だれかがどこかへよけたのか、そのまま放って置いたのか」の問いに、彼は「これをよけて布団袋空になったところを、更に検分していたようです」(28頁)と答えているのです。つまりここで里警部は、空になった布団袋の隅を捜すふりをして、「発見演技」をしたのです。里警部は、空になった布団袋の「中をのぞき込むようなことはしませんでした」(47回、12頁)と証言していましたが、真っ赤な嘘であり、本当はここで「発見リン止めネジ」という証拠捏造をしたのです。もちろん、イやウなど佐藤氏は見ていません。無かったことなのです。

  (弁)「その後、写真に撮ったものがありますか」。佐藤氏「そのあと、里警部が何か写真、カラーで撮ってくれというふうに言われて、ネジのようなものを撮りました」(30頁)。(弁)「26番の写真を撮ったその次(に撮ったものは何ですか)」。佐藤氏「ですから、ビスと言いますか、ネジと言いますか、それを撮りました」(30〜31頁)。「大体同じ近所におりました」(31頁)。「里警部の手の中にありました。・・・・布団袋の中から手の上にのっていた状態でした」(31頁)。(弁)「のっているのは知っているけど、それじゃ、それまでの状態は、あまりよくわからんですか」。佐藤氏「それまでは、ちょっとわかりません」(31頁)。

  佐藤氏は白黒写真26番の次に、カラー写真9(里警部の手のひらの上のネジ)を撮ったのでした。

  真実の発見であれば、里警部は「あっ!ネジがあったぞ!ここをカラー写真で撮ってくれ」と佐藤氏に言い、佐藤氏は布団袋の中にあるネジを撮ることになります。しかし里警部は、何の発見の言葉を発することもなく、手のひらの上にネジを置いて、「これを撮ってくれ」と言ったのです。だから佐藤氏は、ネジが布団袋のどこに有ったのかも見ておらず、里警部がそれをつまんで手のひらの上に置いたところも、見ていないのです。この限りない不自然さは、捏造証拠であるためです。


 2013年4月9日記
大森勝久

第44回  家族の記憶(2013年5月4日記)

多治見−家族揃っての花見
 北海道は5月に入ったというのに、季節が1ヶ月余り逆戻りしてしまって、3月下旬から4月初旬頃の気温が続いています。昨日5月3日は、札幌でも雪が降りました。5月の降雪としては21年ぶりとか。桜の開花も遅れ、札幌では5月9日になるとのことです。5月13日、15日は風呂の日なので、風呂場の窓の隙間(1cm)から満開の桜を眺められそうです。150m程も先なので、淡くピンクに染まった2本の桜の木が見えるだけですが、「今年も桜を見ました!」ということが大事なのです。春の直接体験です。そこから想像もふくらんでいきます。

 この桜の木は少年鑑別所の庭にあるのですが、前は「旧札幌拘置支所」の中庭にあった木で、私の居室のすぐ斜め前方にあった2本です。毎年眺め、語りかけていましたから、古い友人のような存在です。永く生き続けてほしいと思います。

 私の実家があった多治見(岐阜県)では、家のすぐ裏(1m)が神明神社の森でした。小さな森ですから、どこにどんな木が生きているのか、今でも思い出せます。何しろ毎日一回は森を歩いていましたし、子供の頃は長い間遊んで過ごした所です。木登りは遊びのひとつでした。37、8本の桜の木がありました。家のすぐ裏にも1本ありましたね。しかし点在していまして、最高でも3本が並んでいるだけなので、お花見の宴会をするには適していませんでした。だから、お花見見物に訪れる家族連れは一度も見たことがありません。

 私は自分の森のような感覚にもなっていましたので、小学5年か6年頃だったと思いますが、神明山でのお花見も素敵ではないかと思って、父や母に、今年は3本並んだ木の下で、お花見をしませんかと提案したことがありました。「やってみよう」ということになりました。しかし、いざやってみますと、余り盛り上がりませんでした。単に一人で眺めるのと、家族揃っての花見(宴会)では、全く違うものだと学びました。神明山での花見は、その一回だけでした

 大森家では私が中学2年になるまでは毎年、多治見市民の花見の名所になっている、虎渓山あるいは修道院あるいは永宝寺(虎渓山から北へ下りると永宝寺)でお花見をしていました。どこも楽しそうな家族連れでとても賑やかでした。大森家のお弁当は、いなり寿司とのり巻きが定番でした。当時はまだ「ワンカップ大関」はなく、父はウィスキーのポケットびん1本を持っていくこともありました。

 楽しいことばかりが思い出されます。立派な父や母であり、今は私の心の中で生きています。というよりも、父や母は私の一部でもあるわけです。また私は、父母から人としての倫理道徳を教えられました。

 妻が以前多治見の家へ行ったとき、夏でしたが(1987年7月)、一緒に撮った写真があります。父も母も弟も祖母も、幸せの微笑みを浮かべて写っています。もちろん妻もです。私の宝物のひとつです。この時は、妻には神明山の忠魂碑の前で写真を撮ってもらいました。別の時ですが(父は既に永眠)、妻が再び多治見を訪れたとき(1998年5月)、母と一緒に虎渓山、修道院、永宝寺等にも回ってもらい、写真を撮ってもらいました。私が好きな場所です。

 このような家族の記憶が、子供から孫へ…と継承されていきますと素晴らしいのですが、残念ながら私たちには子供がありません。神明山にはかなりの大木もあります。私は、それらの木々が大森家のことも記憶していってくれるのではないか、なんて考えることもあります。虎渓山の木々もです。このホームページにも記録を残しておきたいと思います。

岐阜のこと
 私は1968年4月から72年6月末まで、大学のある岐阜市で暮らしました。私の第2の故郷です。岐阜では随分いろんな所の桜を楽しみました。前にも書きましたが、寮生や教養課程のクラスで花見をした長良川公園の桜。もちろん大学長良キャンパスの桜。県営グランドの桜。入居した正木アパート近くの長良天神神社参道の桜。岐阜公園や金華山登山道の桜。岐大医学部そばの美江寺公園の桜。美江寺観音や岐阜本源寺西別院境内の桜。柳ヶ瀬にある金公園の桜。駅裏の天満公園の桜。彼女と一緒に見た桜も何ヶ所もあります。

 1987年7月、妻にも私が生活の拠点にしていた長良北町や好きな長良川の堤防へ行ってもらって写真を撮ってもらいました。時を隔てて、同じ場所に立ってもらったのでした。よくその写真を眺めています。当時、大学は移転してしまっていたし、正木アパートは無くなっていました。わずか2回だけでしたが、父母にも岐阜を案内してあげたことがありました。

 人々が、私が岐阜で生活していたことを仮に忘れてしまっていたとしても、私はいつも岐阜のことを想いながら今を生きています。また私は、金華山や長良川も私たちのことを覚えてくれているだろう、と空想的に考えるようにしています。長良北町交差点からは、金華山をはっきりと望むことができました。だから、妻のことも記憶してくれていることでしょう。そのように考えますと、楽しく、また心強くなります。

2013年5月4日記
大森勝久

(追記。桜の開花予想は更に遅れて、5月12日になり、結局13日に開花しました)

第45回  長良川の鵜飼(2013年5月28日記)

鵜飼の思い出
 5月半ばに届いた友人からの手紙に、「早朝のテレビニュース(5月12日)で、岐阜長良川の鵜飼が始まったと言ってました。10月15日までだそうです。大森君は観たことがありますか?」と書かれていました。以前にも一度、彼には鵜飼については書いた気がしますが、楽しいことは何回書いても嬉しいので、返事を書きました。このコラムにも、鵜飼の思い出を書いてみます。

 「鵜飼」と聞きますと、懐かしさを覚えますが、じつは私は2回(3回)しか観ていないのです。私は大学時代他で、4年余り(1968年4月から1972年6月末まで)岐阜市で暮らしました。街の中心部に出たときは、バスで長良橋を通りましたから、帰りのバスの車窓から、鵜飼の屋形船の明かりを目にしたことは何度もありました。でも直接観に行ったのは2回でした。もう1回は、デートのついでに眺めたというものでした。

 鵜飼を間近で見ることができれば、風流を感じて、また観に行こうということになったでしょう。しかし夜、暗くなってから始まりますから、ほとんど見えなかったのです。屋形船に乗るだけのお金は学生にはありません。だから見物に行ったのはこの時だけでした。

 有名な金華山(織田信長の城が山頂にあります)のふもとに、長良橋が南北に架かっています。長良川の北側に私の大学や寮やアパートや買い物などをした長良北町があり、繁華街の柳ヶ瀬や駅は南側にあります。大学の医学部は南側にありました。

 大きな観光ホテルが、長良橋の上流(東側)側の両側に連なっていました。北側に特に多くありましたね。現在は、南側の長良橋の下流側にも建っているようです。鵜飼見物の屋形船の乗船場は、長良橋の南端の真下にありました。今も同じです。観光客は送迎バスや歩いて乗船場へ向かいます。

 乗船して上流方向へ6、7百m程上り(正確には分かりません)、そこから長良橋の手前50m位までを、ゆっくりと鵜飼をしながら下ってくるのです。鵜匠1人が乗った船が4、5隻と、その1隻ごとを屋形船が4、5隻で囲むようにして下っていくのです。観光客は、屋形船で料理とビールなどの飲みものをたのしみながら、鵜飼を見物するというわけです。「パンフレット」の知識がまざっています。

 私が最初に観に行ったのは、大学に入った年の夏の始めです。寮生何人かと一緒に出かけて行き、北側の道路から見たのでした。もう1回はやはりその年の夏で、長良橋の上から眺めてみました。しかしながら、長良川は川幅はとても広く、鵜飼は中央からやや南寄りの流域でなされていましたから、小さくしか見えません。なによりも、明りがないのです。あるのは、魚を集めるかがり火と、屋形船の明かりのみです。だから暗くて鵜匠の姿は全く見えませんでした。ましてや鵜が魚を獲っているところなど全然見えません。ですから鵜飼ではなく、単に「多くの屋形船がいるな―」という感じでしかありませんでした。

 長良川と屋形船だけでもよく見えるのでしたら、それはそれで情緒ある光景でしょうが、なにしろ暗く、遠くて小さいので、それもよく見えないのです。私は目がよくないこともありましたが、長良川はただ黒いだけで、「川に船が浮かんでいる」とは見えませんでした。だから、それ以降は見物するために出かけることはなかったのです。デートの時に、たまたま見たのが1回あっただけです。

 長良川の南側はとても広い河原になっています。私は3年の夏に、彼女とのデートでそこへ行ったことが一度ありました。堤防に近いところに座りましたが、遠くにぼんやりと屋形船の明かりが見えていました。

私の一番好きな風景
 私は鵜飼を見物に行くことはありませんでしたが、夏になれば、鵜飼の季節がやってきたと思っていましたし、「風流だ」と感じていたのでした。ここは、少し説明が必要になりますね。

 長良橋の南端から上流方向に堤防に沿って、100m位が船泊りになっていました。今も同じです。長良川からそこまで水路が作られていました。昼間、そこに赤い屋根の屋形船がきれいに並んで係留されていました。50隻位あったと思います。

 昼間や夕方、長良橋を通れば、自然にこの係留されている赤い屋根の屋形船が目に入ります。おかしなものですが、私は昼間や夕方にこの屋形船を見たときと、夕方にホテル着を羽織って、長良橋を乗船場へ向かって歩く観光客の姿を見た時にも、「鵜飼」を意識し、風流さも感じていたのです。想像力の産物ですね。想像の中では、美しくなります。残念なことに、観光客に若い女性はいませんでしたが。この光景はひと夏に何回も見ましたから、その都度「鵜飼」も意識していた私でした。

 鵜飼が行われていた場所は、私が大学3年の夏休みに、小学生対象の「水泳教室」のコーチのアルバイトをしたところです。昼間は、長良川の清流も、広い白い河原も、背後にそびえ立つ緑深い金華山も、係留されている赤い屋根が美しい屋形船も、長良橋の上や両堤防を歩く人々と走る車も、連なる美しい観光ホテルも、はっきりと一望できます。私が岐阜で一番好きな風景でした。

 今もよく思い出していますし、その写真も眺めています。長良川の鵜飼も、昔のように盛大に行われていってほしいと思います。きっと今も観光客は、長良橋の上をホテル着を羽織って、周りの景色を楽しみながら歩いていることでしょう。

 なお、私が高校生になった頃、静岡市に住んでいた叔母さん(母の年の離れた妹)が、この岐阜長良川の「鵜匠の家」の息子さんと婚約したのでした。私はこの時に、初めて鵜飼というものを知ったのでした。しかし、間も無く破談となってしまいました。


2013年5月28日記
大森勝久

第46回 1970年岐阜の夏、1975年札幌の夏 (2013年7月11日記)

岐阜の夏(1970年)のソフトクリーム
  再審請求書の審理(非公開)の方は、特段の動きはありませんから、今回も裁判を離れて書きます。

  今日も暑い日です。昨日もそうでした。ここ一週間ほど暑い日が続いて、夏好きの私としては嬉しい限りです。

  昨日のことですが、昼のラジオを聴いていましたら、「ソフトクリーム」のCMがありまして、遠い昔の岐阜の夏、ソフトクリームを食べた情景が懐かしい感情とともに甦ってきたのでした。ソフトクリームを売っている店は、私が知っている限りでは喫茶店以外では2店でしたが、そこでの想い出です。

  アパートから程近い、長良北町の交差点に面したファーストフード店がそのひとつです。この店は私が大学2年の時に開店したのだと思いますが、おにぎりとパンと飲み物とソフトクリームを売っていました。店員が若い女性ということもあり、元寮生の友人と何回か利用したものです。きっとその時にも、ソフトクリームは食べたでしょうが、記憶には残っていません。男同士でソフトクリームは絵になりませんよね。

  昨日CMを聴いて情景が甦ってきたのは、3年生のときに彼女と一緒にその店に入って、ソフトクリームを買って歩きながら食べている光景でした。私はバニラが一番好きなのですが、そこはミックスのソフトクリームしか売っていませんでした。よく晴れた暑い日の想い出です。

  もうひとつの店は、繁華街の柳ヶ瀬本通りを入ってすぐ左のデパートの一階ですが、その西側の非常に狭い路地に面した外側に売り場があったのです。路地を20m位も入っていきますので、知らない人も多かったと思います。ここはバニラもミックスも売ってました。ここで彼女と買った時のことも想い出しました。彼女は「同じ値段で2つの味を楽しめてお得」ということで、ミックスの方を食べていました。

1975年札幌の夏
 今日の昼食は「みそラーメン」でした。御飯も付きます。私が大好きなメニューのひとつです。札拘の食事はどれも大変美味しくてありがたいのですが、メン類は食堂で食べているように美味です。夏に熱いラーメンを食べるのは、またいいものですね。

  私は1975年の夏は札幌で過ごしました。6月30日に苫小牧から転居してきまして、小幡荘(大家さんの2階に6部屋ありました)に入居しました。3畳の狭い部屋でした。部屋の3分の1くらいは天井が斜めになっていて、真っすぐ立つと頭がつかえました。共同トイレでしたし、台所は大家さんの台所を借りなくてはならず、不便でしたが、ひと夏を過しました。10月初めに転居しましたが。

  私は7月初めから9月下旬まで、繁華街ススキノにあるナイトクラブのボーイの仕事をしました。夕方5時の出勤で、深夜2時位までの仕事です。夕食(5時)と9時頃に夜食がつきましたが、私はこの間ほとんど毎日、仕事が終わるとススキノの店で「みそラーメン」を食べてから帰宅していました。この時から「みそラーメン」が大好物になりました。

 小幡荘の前の道は、幹線道路から入ってくる広い道でしたが、珍しくまだ土の道でした。土の匂いがして嬉しかったですね。かげろうもよく立ち昇っていました。私は遅い朝食と昼食を兼ねて、平日はよく北海道大学のクラーク会館にある学生食堂で食事をしました。学生食堂が閉まる(土)(日)は、近くのスーパーでフランスパンと500mlの牛乳と野菜(キュウリやトマト)を買って、マーガリンをいっぱい塗って、下の道路や庭に木や花のある家並みを見ながら食事をしたものでした。隅の部屋でしたので、窓が2ヶ所にあって風通しはありました。私はこの2階からの光景が割と好きでした。

  車(中古の「ファミリア1200」)は、小幡荘から50m程西に離れた空地横にとめていました。空地は雑草が生い茂っていましたから、深夜2時半頃に帰ってきて駐車しますと、虫の鳴き声が聞こえてきたものです。しばしそれを聴くのも楽しいことでした。


2013年7月11日記
大森勝久

第47回 再審請求補充書(一)を提出 (2013年8月10日記)

裁判所が意見書と補充書の提出を促す
 先頃、裁判所は検察官に対して意見書を、弁護人に対しては補充書の提出を促してきました。

 第2次再審請求は本年1月下旬に行われました。私たちは、再審請求趣意書と新証拠を提出しました。裁判所はこの間、関係記録を読み進めてきたわけですが、かなり読み進んだらしく、上記のことを促してきたわけです。

 弁護人は、その前から準備をしていましたが、再審請求の補充書(一)をまとめまして、私に送ってくれました。説得力ある内容になっています。私も何点か意見を述べました。弁護人がそれを踏まえ確定稿に仕上げて、この8月に裁判所へ提出することになります。

 第2次再審請求では、「山平鑑定は不存在」と「発見リン止めネジは捏造物」の2つを主張し、それぞれ新証拠を提出ています。補充書(一)は、後者についての補充を述べたものです。

補充書(一)の「見出し」
 補充書(一)の「見出し」は以下のようになっています。

 1、本件ネジの証拠上の位置付けとネジ紛失の不自然さ
 2、警察は、マイナスネジが犯人の手元に残っていると想定し、請求人居室で本件ネジの発見を捏造した
 3、ネジの「発見」の経緯の不自然さ
 4、ネジ発見後の捜査の不自然さ
 5、ネジのすり替え、ないし工作

 「小括」として、「以上検討してきたように、そもそも、請求人の居室にあった布団袋の中からネジが発見されたというのは捜査機関による捏造である上に、しかもそのネジ自体、捜査の過程の中で、傷を付けたものとすり替える、または工作されるという二重の証拠の捏造が行われたのである」と結ばれています。

補充書(一)の内容
 詳しくは第48回以降のコラムで書いていきますが、今回は大略を述べます。

 「見出し」の1と2ですが、道警は道庁爆破事件の捜査の中で、時限装置に使われたトラベルウォッチのネジの使われ方(リン止めネジ2本=マイナスネジの代わりに、ケース止めネジ2本=プラスネジが転用されていた)から、犯人の手元にマイナスネジ2本が残ったことを認識していました。事件(1976年3月2日)後、1ヶ月程で把握していました。

 私は同年8月6日から7日にかけて、様々なものを札幌市内各所に投棄したのですが、道警はうまく尾行をして全てを回収したのでした。すぐにそれらの証拠物を分析したのですが、本件爆発物製造に直接結びつくものはありませんでした(投棄された器具には、木炭末とイオウは付着していましたが、除草剤《混合火薬の主剤の塩素酸ナトリウム》の付着もなかったのです。私は除草剤の入手がまだできていませんでした)。

 そこで道警は、私を逮捕した際の私の居室(札幌市)の捜索差押において、犯人の手元に残ったマイナスネジの「発見」を捏造することにしたのでした。私を犯人として起訴・有罪にするためです。里警部他6名は、私が苫小牧市のフェリーターミナルで逮捕された8月10日、私の居室に残されていた布団袋の中からマイナスネジ1本を「発見」したのでした。1審、2審判決も、この「発見ネジ」に高い証拠価値を与えていました。

 犯人の元にマイナスネジ2本が残ったわけですが、しかし犯人がそれを紛失させることは考えられず、ちゃんと処分してしまったはずです。私の投棄物の中には、時限装置の電極に使うために切り取った簡便ナイフの保持部の残りも有りました(私は本件事件とは関係なく、時限装置を作っていました。その時計は別の機会に捨てています)。

 「発見ネジ」が捏造物であることは、「見出し3」で詳述されています。既に42回43回コラムでも述べましたが、次回以降でも更に述べていくことにします。

 「見出し4」ですが、里氏は時計のネジだと思って押収しています。道警はこれまでの捜査で4月までにトラベルウォッチを3、4個入手していましたから、「発見押収ネジ」を、すぐその手持ちのリン止めネジ(マイナスネジ)と比較する鑑定を実施すればいいのですが、そうではありませんでした。

 本件捜査を指揮した実質ナンバー1の石原警視は、5日後の8月15日になって、「何に使われているネジかを捜査しろ」と、3名の捜査員に「発見ネジ」を持たせて、市内の店へ聞き込みをさせた、と証言したのでした。道警は「発見ネジ」は捏造物でなく、本当に発見されたものだ、と裁判官らを騙すために、こうした下手な芝居の「聞き込み捜査」をしたのでした。これについても、今後詳述していくことにします。

 「見出し5」ですが、道警は里警部に新しいリン止めネジ(マイナスネジ)を渡して、「発見」を捏造させたのでした。しかしその後に、「犯人は工作をしたのだから、ネジの溝にドライバー痕がついていないネジではまずい」ことに気付いたのでした。それで道警は、傷が付いているネジとすり替えたか、ネジにドライバー痕を付ける工作をしたのでした。補充書(一)はこの真実を、検察側証人の証言を批判的に検証することで、明らかにしています。これについても、今後詳しく述べていきます。


2013年8月10日記
大森勝久

第48回 私のいくつかのアパート生活(2013年9月7日記)

懐かしい人や未知の人とのつながりを求めて、非裁判のコラムを書いています
 少し前にも、裁判以外のことを書いた「コラム」を読み返してみました。私は時々これをやっています。第9回、10回、11回、32回、35回、36回、37回、38回、39回、44回、45回、46回です。当時のことが想い起されて楽しいのです。

 私と面識があった人(言葉を交わしたことはなくても)が、いつか読んでくださることもあるかもしれないと考えますと、幸せな気持ちになります。また私は、私の思想(保守主義)に関心を持たれた未知の人も、見てくださっているかもしれない、と考えることにしています。つまり「コラム」は、懐かしい人や未知の人とのつながりが出来るかも知れないと考えて、私自身のために書いています。
 
 去年は9月に入ってからも、夏日が20日もありました。うち真夏日が6日です。しかし今年は、7月と8月中旬までは記録的な暑さでしたが、8月28日から夏日がなくなってしまい、やっと9月5日に25度台の夏日になりました。がまた、昨日も今日も涼しい日になっています。去りゆく夏の感があります。

 月に2本のコラムを掲載したことはないのですが、夏が去ってしまう前に、夏に関連したことを書いておきたいと思い直して、ペンを執りました。今日9月7日は私の64回目の誕生日ですので、書くのに良い日です。


●夏にアパートを移っていました
 私が想い出すことは、誤った左翼運動の道に入っていってしまう前の時期の多治見市や岐阜市の生活と、運動を始めた以降では、運動とは無関係の私的な生活に限られています。今回は、私のアパート生活について、ホームページに文を残しておきたいと思い書きます。

 自分自身の部屋(アパート)を持つことは、人にとっての基本的な欲求でしょう。私は1969年の夏(6月末頃、大学2年)に学生寮=望峰寮の4人部屋を出まして、正木アパートへ移りました。嬉しかったですね。2階の南向きの4.5畳の部屋で、南南東方向に金華山・岐阜城を望むことができました。2階には6部屋ありました。

 アパートの北隣り(1.5m)には、水田用の小川が東から西へ流れていて、魚の姿を見ることもできました。アパートの西側は、田畑がずーと先まで広がっていました。アパートの80m位南には長良天神神社がありまして、私はこの境内を通って通学してました。

 共同の台所がありましたので、私は自炊生活を始めました。朝と夕食を作り、昼食は学生食堂他でとりました。簡単にできる、決まったものしか作りませんでしたが、食事作りは好きでしたね。女の子の手に触れたのは、中学3年と高校1年と大学1、2年のフォークダンス(オクラホマ・ミキサー)の時だけであった私ですが、3年の春(1970年4月)に彼女ができました。彼女がアパートに来てくれたのは夏でした。長良川でも一緒に泳ぎました。

 1972年3月に卒業したのですが、私は左翼思想にかぶれてしまっていましたので、教員の辞令を辞退して3月からすぐに岐阜市で日雇いの土木作業員を始めていったのでした。昼の弁当も作って出掛けました。正木アパートは、その年の6月末までちょうど3年間住みました。一番想い出の深いアパートです。

 次に入居したアパートは、同県・美濃加茂市の日比野荘で、1972年の夏(6月末)です。 大家さんが農家でして、納屋を2つのアパートにしたものでした。6畳1間に4畳程の土間が付いていました。トイレは農家らしく外にありまして、大家さんと共用でした。流しは付いていたので、プロパンガスボンベを買ってきて自炊生活をしました。やはり日雇いの土木作業員です。昼の弁当はおかずを作るのが面倒なので、サバの水煮缶とか缶詰を持っていったものです。

 アパートの北側は人家はなく、緑の田んぼがずーと広がっていました。田んぼのあぜ道にたたずむのはいい気持ちでしたね。アパート前(南側)の道は土の道で、すぐ南横がまた田んぼでした。夜道を歩きますと、カエルがとても賑やかに鳴いていました。アパート前の大家さんの庭の木では、昼間はアブラゼミやクマゼミが毎日合唱していました。

 大家さんの奥さんや娘さん(私より2つ位下と思います)から、畑で獲れたなすやきゅうりをよく頂きました。私はそれまではなすは余り好きでなかったのですが、この時からなすの油炒めが大好きになりました。住み心地はとても良かったのですが、私の都合でわずか2ヶ月で出ることになりました。

 その後の私は、名古屋や大阪や東京や札幌などの寄せ場や飯場で暮らしたり、住み込みで土木建築仕事をしました。実家にも半年位戻って運転免許をとり、多治見日通で運転助手の仕事を3ヶ月程したこともありました。

 次に私がアパートを借りたのは、1974年の夏(6月末)です。北海道の苫小牧市の舟橋アパートでした。2階には4部屋ありまして、私は6畳と3畳の2間の部屋を借りました。トイレは共同でしたが、流しは中に付いていましたので、プロパンガスボンベを買ってきて、自炊生活をしました。苫小牧での生活は35回と39回でも書きましたが、八百屋さんの車による配達の仕事をしていましたので、毎日のように海が見える所を車で走っていたものです。

 アパートの20m西には草が茂った広い空き地があり、その横が私の車の駐車場所でした。空き地の斜め前が木々の多い公園でした。私は無意識のうちに、自然(緑)がある場所にあるアパートを借りていました。多治見の実家は、すぐ裏が神社の森でしたから、緑を恋しく思っていたのでした。ちょっとずれますが、後で知ったのですが、高校3年の時に一方的に想いを寄せていた人の家も、緑があふれた所にあるのを知ったとき、いい環境育ったんだなーと嬉しい気持ちになりましたね。舟橋アパートには1年間住みました。良い大家さんで、家賃を払いに行った時に、何度かビールなどを頂いたこともありました。

 次のアパートは翌年1975年の夏(6月末)の札幌市の小幡荘でした。これは46回コラムで書きました。

 その次に入居した札幌市内のアパートは、同年10月初めでしたので、ここだけは夏ではありませんでした。西隣りが木々も多い公園になっている、Nさん宅の2階の部屋(2間、トイレ、台所付き)を間借りしたのでした。玄関は共用でした。翌年の8月10日まで住みました。私は9月の下旬から、朝9時から深夜1時までの駐車場の管理人の仕事をするようになっていました。ススキノです。隔日出勤でしたので、休みの日は自炊しました。出勤日は朝だけ作り、昼と夕食は配達される給食センターの弁当でした。夜食用に、カップメンやパンや市販の弁当を買っていきました。

 Nさんご夫妻は、私の父母と同じ年令で、もう家を出ている一人息子さんも私と同じ年ということで、大変良くして下さり、私はおかずをひんぱんに頂いていました。翌年、私がアパートを出ることになったときには、8月8日夜にお別れ会をして下さいました。ちょうど、ご主人が車検で車がないときだったので、私も8月9日と10日の朝、車でご主人を会社まで送ってあげました。私は10日の昼過ぎに、奥さんに見送られてアパートを去りますが、3時21分に苫小牧のフェリーターミナルで逮捕ということになったのでした。大変良くしていただいたのに、大迷惑をおかけしてしまったことを、誠に申し訳なく思います。今でも時々、お2人の顔や声を思い出しています。

2013年9月7日記
大森勝久


【お知らせ】
 大森勝久のコラム欄は毎月1日に更新いたしております。しかし今回は特別に、かつて夏におこなった転居生活の数々について、夏が終ってしまう前に書いておきたいという大森君の希望で、月の中途ですがアップさせていただきました。
 なお、来る10月1日には予定通り裁判に関するコラムをアップ致します。
次の第49回は、「ネジ発見」を真実らしく見せるための「演技」としての「発見後捜査」というタイトルでアップを予定しております。

第49回 「ネジ発見」を真実らしく見せるための「演技」としての「発見後捜査」(2013年9月1日記)

「ネジ発見押収」後の捜査経過
 前回に引き続いて今回は、再審請求補充書(一)の4つ目の見出し、「ネジ発見後の捜査の不自然さ」について説明していきます。

 主張の結論は、「このような(不自然な)捜査になったのは、ネジの『発見』後の捜査が、実は形だけのもので、結論はすでに出ており、あくまで、ネジが『発見』された事実を真実であるらしく装うためのものであったということを示している」ということです。抜粋していきますと、どうしても長くなってしまいますので、私の言葉で書いていくことにします。主旨は同じです。

 捜査の実質的な最高責任者であった石原警視は、公判で「(8月10日の発見押収ネジを)時計のビスではないかというふうには考えておりましたが、道庁事件の時限装置との結びつきがあるというところまでは考えておりませんでした」と証言(嘘です)し、そしてやっと8月15日(押収から5日後)になって、「8月15日ごろでなかったかと思いますが、捜査員に時計屋関係の捜査をさせました」と証言したのでした。1審91回公判でした。

 ネジを発見押収した里幸夫警部は、1審46回と47回で証言しています。8月15日から「発見押収ネジ」を持って、市内の聞き込みや栃木県のリズム時計の益子工場へ行くなどの捜査をした鶴原警部補は、47回で証言していました。発見押収ネジの精密測定などをした道警犯罪科学研究所の中島氏の証言は48回。発見押収ネジの鑑定などをしたリズム時計益子工場長の吉村氏の証言は49回です。

 「発見押収」後の捜査経過は次のようです。
 (1)8月15日。西川警部や鶴原警部補ら3人が「押収ネジ」を持って、市内の徳永時計店に行く。主人が4、5個の旅行用時計を出してきて、リン止めネジをはずして押収ネジを入れてみると、「シチズン」の2種類の時計とぴったり合った。鶴原氏らは、ぴったり合った時計のリン止めネジと、「押収ネジ」を、肉眼で比較対照してみると、色や形や大きさが一致した。それで、そのリン止めネジ1本を借りた。3人は、「シチズン札幌支店」へ行くと、シチズンの旅行用時計は「リズム時計」で作っているので、リズム時計札幌支店へ行くのがよい、と教えられた。

 (2)8月16日。鶴原警部補らは、徳永時計店で借りたネジを持ってリズム時計札幌支店へ行ったが、休みであった。支店長宅にも行ったが不在であった。

 (3)8月16日から18日。道警犯罪科学研究所の中島富士雄氏が、「発見押収ネジ」の精密測定を実施する。本件の時限装置であるシチズン・ツーリスト024のリン止めネジと一致することを確認する。8月21日付鑑定書を作成するが、証拠請求されていませんし、未開示です。

 (4)8月17日。鶴原氏ともう1人の捜査員が、徳永時計店で借りたシチズンの時計のリン止めネジ1本を持って、リズム時計札幌支店へ行き、それを見せると、リズム時計で作っている旅行用時計のリン止めネジであり、栃木県の益子工場で作っていること、リズム時計の独自の規格であることや、修理店には置いてないことが判明する。

 (5)8月23日。石原警視が、鶴原氏にリズム時計の益子工場に行って、「発見押収ネジ」の検査をしてもらうように指示する。

 (6)8月25日。鶴原氏が8月25日の午後2時頃に、「押収ネジ」と「捜査照会書」を渡される。出発し、翌26日益子工場に着く。

 (7)8月26日。工場長の吉村氏が検査をする。リズム時計の旅行用時計のリン止めネジである。ドライバー溝に傷がついている。鶴原氏もその場で傷を確認する。検査はその日で終了。鶴原氏は札幌へ帰る。

 (8)8月28日。道警犯罪科学研究所の中島氏が「押収ネジ」の鑑定を実施する。道庁爆破の現場物の中にはリン止めネジは存在しない。リン柱には他の部位のネジが流用されている。「押収ネジ」は現場物のツーリスト024のリン止めネジと形状、寸法が一致し、リン止めネジとして用いられるものである。これは、8月29日付鑑定書として証拠請求される。

 (9)9月8日。鶴原氏が、益子工場長の吉村氏に鑑定してもらうために、現場物のネジ、「発見押収ネジ」、「鑑定嘱託書」を持って出発する。

 (10)9月9日から9月13日。吉村氏が鑑定を実施する。9月13日鑑定書として証拠請求される。「発見押収ネジ」にはドライバー痕がついている。道庁爆破に使われたツーリスト024の犯人の元に残ったリン止めネジである可能性はある。

 道警は以上のごとく、随分時間をかけた捜査によって、「発見押収ネジ」は、道庁爆破のツーリスト024のリン止めネジであると結論づけて、裁判官らに8月10日の「ネジ発見押収」が真実であると印象づけようとしたのでした。しかし、次に述べるように、これらは「ネジ発見」を真実らしく見せるための演技、芝居だったのです。

「ネジ発見押収」後の捜査は、「発見」を真実らしく見せるための「演技」であった
 前記の石原警視は、91回公判で私たちの反対尋問の追及にあって、私の逮捕の3ヶ月以上前から、実は道庁爆破のネジの使われ方が特異であったこと(つまり、リン止めネジ2本の代わりにプラスネジが流用されていて、犯人の元にリン止めネジ2本(マイナスネジ)が残ったこと)の報告を受けていたことを、認めざるをえませんでした。私たちは48回の中島氏への証人尋問で、追及して、ネジの使われ方が特異であること、またリズム時計のリン止めネジは独自規格であることを、早くに「爆弾捜査本部」に報告していたことを白状させたのですが、この事実を石原氏にぶつけることで、石原氏に上記のことを認めさせたのです。

 この事実は、前節の石原氏の証言が嘘であることを、自ら白状したのと同義です。つまり、前節で番号を付けて書いた捜査は演技、芝居なのです。

 「発見」がもし真実であれば、道警(石原氏)は歓喜し当日の10日に、この「発見押収ネジ」と既に入手済みのツーリスト024のリン止めネジを比較対照させる鑑定を実施させることになるからです。道警は3月にツーリスト024を1個、あとスピネットを2個、他のメーカーのものを1個入手しています(中島氏の48回証言)。

 前節の(1)ですが、肉眼で見て一致したと言いますが、長さ2.4ミリ、直径2.0ミリしかないネジの異同識別は肉眼では不可能です。2種類の時計ですから、1つは長さ2.40ミリ、直径2.0ミリ、もう1つは長さ2.41ミリ、直径2.0ミリかも知れないのです。だから、2本を借りなくてはなりませんが、1本にしたのは、キャップの西川警部は石原氏からいろいろ言い聞かされていたということです。(2)(4)も「発見押収ネジ」を持って行くべきなのに、借りたネジを持って行っています。ここからも、演技であることが判ります。(8)の鑑定ですが、中島氏は私たちに追及されて、前半部分は、事件後の捜査で既に判明していたことをここに書いただけであることを、認めました。

 このような不自然、不合理な捜査をしたことが、「ネジ発見」が捏造であることの状況証拠です。


2013年9月1日記
大森勝久

【追記】
 9月21に第48回コラムを特別にアップしましたので、関心がおありの方はご覧になってください(大森)。
第48回 私のいくつかのアパート生活(2013年9月7日記)

第50回 捏造「発見押収ネジ」を更にすり替えた警察 (2013年10月4日記)

8月10日、捏造した「発見押収ネジ」には傷はなかった
 今回は「補充書(一)」の5つ目の小見出し(5節)、「ネジのすり替え、ないし工作」について、私の言葉で説明していきます。

  北海道警察は、犯人の元にリン止めネジ2本が残されたことを捜査で把握していましたから、私を逮捕した8月10日の家宅捜索で、リン止めネジの「発見押収」を演出するために、市内でシチズンの旅行用時計を購入してリン止めネジをはずして、里警部に持たせたのでした。里警部は、居室に残されていた布団袋の中から「発見」されたように演技をしたのです。

  道警(石原警視ら)はここでミスを犯しました。「新品の傷のないリン止めネジ」を使用したことです。里警部は1審46回公判で、自分が「発見押収」したネジについて、「まあ、これに固有の特徴というものは無いと思いますけど」と証言したのです。この証言は、肉眼で確認できるような傷はなかったことを如実に示しているものです。

  里警部は当然のことですが、押収したネジをその場でよく観察します。なぜならば後日に、法廷でネジの「発見状況」やどんなネジであったかを証言することになることが分かっているからです。

  7月から東京へ出て姿を隠していた私が、札幌のN氏宅の2階の間借りしていた居室に戻ったのは8月6日の午後4時頃でした。私は8月6日の夜と、7日は朝から「物」を投棄し始めます。道警は、私が7日に投棄した3つのダンボール箱をすぐに押収します。中身を検分して、混合火薬を製造する器具などがあったために、道警は7日の午後に初めて、私に「道庁爆破の容疑」をかけたのです。私は8日の午後1時には、質屋へ行き、引越すのでテレビ、ミキサーを買ってもらえないかを尋ねています。道警はその直後に、質屋の人からそのことを聞きだし、私がアパート(間借り)を出てすぐに道外へ逃げるのだと判断しましたから、慌てて逮捕状請求の準備をしていきました。道警は8日の午後2時10分には、私が8月6日の夜に投棄した茶箱に入ったイオウ(混合火薬の材料のひとつ)と消火器2本を、幌見峠で発見・押収しました。

  このように事態が急展開したために、道警は慌ててしまい、「リン止めネジの発見押収」(捏造)に関して、十分考えることができなくて、新品の傷の付いてないネジを里警部に渡してしまったのだといえます。

  「発見押収ネジ」には傷は付いていなかったことを証言したのは、里警部だけではありません。鶴原警部補ら3人は8月15日、「発見押収ネジ」を持って市内の徳永時計店へ行き、「押収ネジ」がぴったりはまったシチズンの2種類の時計のリン止めネジと押収ネジを肉眼で比較対照しています(第49回コラム参照)。ネジの頭のドライバー溝の形状も当然比較対照しますから、もしそこにすぐ分かるドライバーによる傷(ドライバー痕)が付いていれば、その傷に気付くことになります。しかし3人とも、傷があるとの認識は持ちませんでした。「発見押収ネジ」には、傷は付いていなかったのです。

8月26日益子工場へ持っていった766番のネジは、すり替えられた傷がついたネジである
 「発見押収ネジ」として、証拠になっている(検)「766番のネジ」には、傷がついています。シチズンの時計を製造している栃木県にある「リズム時計益子工場」の工場長の吉村氏は、8月26日に鶴原警部補が持ってきた「ネジ」を見て、すぐに「こういう傷がドライバー溝についています」と鶴原氏に告げています。鶴原氏が傷について認識したのは、この時が初めてです(鶴原氏の47回公判証言)。

  吉村氏はその後、9月9日から13日にかけてもう1回鑑定をしています。その時の9月13日付鑑定書に書かれているのですが、ドライバーによる傷(ドライバー痕)は、ネジのドライバー溝の片方に1ヶ所、反対側に2ヶ所、計3ヶ所に付いています。肉眼でもすぐ分かる傷です。

  鶴原氏は47回公判で、肉眼で証拠品の「766番のネジ」を見て、すぐに「(傷)あります」と証言しています。「ネジのドライバーの溝に傷がグッとあるのですけれども」とも表現しています(9827丁)。

  証拠になっている「766番のネジ」は、「発見押収ネジ」ではありません。その後に、道警によってすり替えられたネジです。2重の証拠の捏造がなされたのでした。

  道警は8月16日から18日にかけて、この「発見押収ネジ」を道警犯罪科学研究所の中島氏に精密測定させています。

  その後道警(石原警視)は、より効果的な演出を狙って、「益子工場」で検査をしてもらうことを考えるのですが、石原警視はこの時に、「発見押収ネジ」に傷が付いていないのはまずいことに気がついたのです。

  時限装置をつくるとき、時計のリンをはずしてその内部に工作をします。リード線を下板止めネジにくくりつけ、あげバネが下った所に、あげバネと接触するように電極となる金属片を設置します。しかし、これらの工作が終わったらリンをかぶせて、全て終了とはなりません。爆弾は持ち運びしますから、振動が加わった後でも、前記工作がおかしくなっていないかをチェックするために、再びリンをはずして中を見てみなくてはなりません。つまり、リンの脱着は何回かくりかえされますので、リン止めネジも何回か脱着されるのです。当然、リン止めネジのドライバー溝には、ドライバーによる傷がつくことになります。

  本件時限装置では、リン止めネジの代わりにケース止めネジが流用されていましたが、そうなったのも、日を置いてリンの脱着が何回か繰り返されたがゆえに、そうなったわけです。

  それで石原警視は、ドライバー痕が付いているリン止めネジを探したか、「発見押収ネジ」にドライバーで傷をつけて、それを「766番のネジ」にして、鶴原警部補に持たせて、益子工場へ派遣したのです。

  鶴原氏が、石原警視から「益子工場へ行って検査をしてもらってこい」と指示をされたのは、8月23日です。月曜日です。しかし、鶴原氏がネジを渡されたのは、8月25日の午後2時頃です。急ぐ検査であり、平日であり益子工場は休みではないのに、2日の時間が余計にかかっているのは、この間に「スリ替え」がなされたことを示しています。

  8月10日の「発見押収」が真実であれば、たとえ肉眼で分かるような傷はなくても、リンからはずされたことは確かですから、傷が付いたネジにすり替えることはありえません。傷のあるネジにすり替えたことが、あるいは押収ネジに傷を付けたことが、8月10日の「発見押収」が捏造である証拠なのです。

  「すり替え」については、第51回コラムでもう少し書くことにします。


2013年10月4日記
大森勝久




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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)