北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第31回〜40回

第31回 木村警部(車の捜索担当)の「不自然な行動」 は何を意味しているのか?(2012年4月7日記)

●証拠の捏造や捏造加担を拒んだ人たち
  (1)道警本部刑事部犯罪科学研究所の本実氏、山平真氏は、爆弾捜査本部の幹部から、 「除草剤が付着していた」という虚偽の鑑定書を捏造するよう指示されたのですが、応じることはしませんでした。山平氏は2審に入って更に、除草剤付着を示す8月8日付の「電話中間回答書」の捏造も命じられたのですが、信用性が否定される作成の仕方をし、また証言もしたのでした。しかし1、2審裁判所は、検察官の主張どうりに認定してしまったのでした。

 (2)目撃証人の藤井昭作氏の調書をとった爆弾捜査本部の遠藤警部は、藤井氏が検察官の強要によって、「(大森に見立てた)A男が自分をにらんだ」と証言したことに対して、検察官からの圧力があったのにそれをはね返して、「藤井さんは一貫してB男がにらんだと供述していた」と証言しました。検察官は遠藤調書添付図面のA男とB男を逆に改ざんして、藤井氏に強 要して、「私が遠藤警部の見ている前で、勘違いしてAとBを逆に記入してしまったので、直しますと言って、直したものです」と証言させていきました。そうすることで、A男が先に門へ歩いてきて、藤井氏とぶつかりそうになり、にらんだのだ、としようとしたわけです。しかし遠藤警部は検察官の圧迫を排して、「藤井さんが直したところは見ていない。図面が逆に変ってしまっていたので、驚いている」と証言したのでした。だが二審裁判所は、遠藤証言を全て否定して、藤井証言を支持したのでした。

 (3)このように警察の技官、警察官にも、上司等からの命令等があっても、証拠捏造や捏造加担という違法行為を拒絶する立派な方がいます。8月10日に私の車の検証と捜索差押えを行った木村警部も、そうした警察官の1人でした。木村警部は、爆弾捜査本部で総括班の班長をしていました。総括班は証拠を扱っていました。

●木村警部は無線の無い車を使い、1時間以上も道草して遅れてフェリーターミナルに到着した
  木村氏の1審60回公判の証言の骨子は次のようです。彼は私のことを「大森氏」と氏付けで言っていました。

 (1)8月10日の午後1時30分頃に、道警本部において石原警視から、大森氏の車の検証許可令状と車にある爆弾組成物の検索差押え許可令状を渡されて、「高速道路を使って苫小牧のフェリーターミナルにある派出所へ行くように」と指示されました。自分一人で指示を受けました。その際に石原警視から、一緒に行く者として(私と同じ)警備課の2人と公安1課の1人の名前を告げられました。またフェリーターミナルの派出所で苫小牧署の2名の警察官が待っているので、着いたら合流してもらって、6名で捜査に当たってくれということでした。

 (2)道警本部において、捜査に必要なカメラ、フィルム、(長さを測る)スケール、証拠品を入れるビニール袋、メモ用紙などの事前の準備をしまして、2時30分ごろに道警本部を出発しました。

 (3)苫小牧のフェリーターミナルに着いたのは5時ごろでした。時間がかかったのは、地理が不案内のものばかりで、苫小牧に入ってからお店の人に聞いたりしたことと、「道警本部を出て、(市内にある)中島分室に立ち寄って、それから出発しております」ので、時間がかかりまし た。途中で道警本部へ連絡を入れることはしませんでした。

 (4)フェリーターミナルの派出所に着いて、その段階で石原警視に到着報告をしました。5時28分から6時45分まで、大森氏の車の検証と爆弾組成物関連の捜索差押えをしました。その日に札幌の爆弾捜査本部に戻り、捜索差押え調書を作成し、翌日に検証調書を作成しました。−以上が証言の骨子です。

●リン止めネジの捏造加担を拒んだ木村警部
  (1)木村警部が無線の付いていない一般の自家用車を使ったのは、正常の捜査からすれば全く理解しがたい行動です。2時30分頃は、私は国道365号線を苫小牧フェリーターミナルに向かって千歳市内を走っている頃でしょう。道警は私がフェリーを使って離道すると考えていました。しかしながら、私は逮捕状は出ていないと考えて、そういう行動をとっていたのであり、警察の動きから逮捕があると感じれば、フェリーターミナルへは行かず、そのまま尾行を振り切って逃走をはかることも、十分考えられたのです。そうなった場合、無線がない車であれば、道警本部の石原警視は木村警部に連絡することができなくなります。つまりこれは、木村警部にはあるちゃんとした考えがあって、石原警視との連絡が取れない車を使った、ということなのです。

 (2)「高速を使え」と指示されていることから、急ぐ捜査なのは明らかです。ところが木村警部は、中島分室に立ち寄って1時間以上も時間をつぶしています。高速を使えば、札幌の中心部からフェリーターミナルまでは1時間10分位で着きます。だから3時40分か50分頃に中島分室を出発したことになります。道警本部から中島分室へは10分以内で着きます。

 捜査の事前準備は、道警本部において済ましているのですから(中島分室にしか置いていないものは考えられませんし、証言でも出てきていません)、木村警部は意識的に時間をつぶすために、立ち寄ったことになります。フェリーターミナルに到着するのを送らせ、検証・捜索差押えを遅らせるために、そうしたことになります。彼がキャップですから、他の3人は従ったわけです。

 なお「地理に不案内であった」の点は、道警本部にいる間に、道路地図で十分確認できることですし、フェリーターミナルは大きな道路標識が出ていますから、またほとんど一本道のところですから、探すのに特に時間がかかったとは到底言えません。

 (3)木村警部は、何故そのような「不自然な行動」を取ったのでしょうか?そこには、確固たる理由があったはずなのです。

 すなわち、石原警視は木村警部に次のように告げたはずなのです。「大森の居室の検証と爆弾組成物の捜索差押えは、里警部がこれからやることになっている。その際、リン止めネジが発見できなかったら、リン止めネジ2本をどこかに紛れ込ませるように里警部にだけは指示してある。しかし大森が車に積み込んだボストンバック等から、もしリン止めネジが2本あるいは1本発見されたら、合計4本なり3本になり、道警の捜索が疑われることになってしまう。そこで木村警部には、高速を使って急いで大森の車を追い、逮捕後にすみやかに車の捜索を行い、リン止めネジの有無を直ちに私に連絡してもらいたい。他の者にはわからないようにやっ てもらいたい。その情報は高山警部から里警部にすぐに伝えることにする。遅くなると、大家の主人も帰宅して、紛れ込ませるのが難しくなるので、できるだけ早くたのむ」と。

 違法捜査に加担したくない木村警部は、あえて無線のない自家用車を使って、石原警視から連絡が取れないようにするとともに、中島分室に立ち寄って時間をつぶしてから、高速を使ってフェリーターミナルへ向かったわけです。第30回コラムと併せて読んでいただければ幸いです。

 木村警部の「不自然な行動」も、「リン止めネジ捏造」の状況証拠のひとつなのです。

2012年4月7日記
大森勝久

第32回 多治見と岐阜市の情景を思い浮かべて運動(室内、屋上)をしています(2012年5月6日記)

●札幌でも桜が開花しました 
  今回は裁判を離れて書くことにします。今日は5月6日。明日は風呂の日ですが、桜はまだ咲いているでしょうか。札幌では例年よりかなり早く、5月1日に開花宣言がありました。連休が続くために、3日に実施された入浴の時、窓の隙間からのぞいて見たら、150m位先の2本の桜の木が淡いピンク色に染まっていました。この2本の桜は、札拘旧庁舎のときは、私の居室の15m前方の中庭にあったものです。旧庁舎では、窓から中庭が全て見えたのでした。
 
 桜の季節になりますと、ふるさとの多治見と岐阜市の桜を必ず思い浮かべます。多治見は、母校・多治見北高の隣の修道院の庭の桜です。また母校の北隣りの虎渓山も桜の名所で、山頂までの道と山頂の公園は桜で一杯でした。岐阜は、岐阜公園と隣接する長良川公園の桜が好きでした。両公園は、岐阜城がある金華山のふもとにあります。長良川公園では、寮生一同で、また教養部のクラス一同で、花見のコンパをしたものでした。
 
●ふるさと多治見
  私のふるさとは、自分が左翼思想にひどく洗脳されてしまう前の正常な状態の、多くなくても人々に好かれて人々の間で生きていた時期で、社会で生活していた時期となりますので、高校までを過ごした多治見市と大学時代の岐阜市ということになります。
 
 ふるさとは、誰か特別な人々と結びついているものでしょう。家族を別にすれば、やはり想いを寄せていた人、恋人、友達です。ふるさとの自然や街並みが懐かしいのも、良き人間関係があり、自分の「良き時」であったからです。
 
 私は室内運動も屋上運動も、多治見と岐阜のいろいろな情景あるいは景色を思い浮かべながら、行っています。そうするのは、あたかも自分が今、懐かしい当時のふるさとにいるような感覚になれて、幸せな気持ちになるからです。
 
 私は多治見では、高校とそばの修道院と虎渓山、また高校から駅までの道程をよく思い浮かべて運動をしています。2年と3年の時に想いを寄せていた人、3年になって想いを寄せた人、このお2人の名前を口づさみつつ、上記の各々の場所における彼女らの姿を思い浮かべながら運動をしています。特に3年になって好きになった人を中心に、そうしています。駅までの道程とは、他の用事があったときに、それを自分への口実として、その人の40mも後から駅まで歩いたことが一度だけあったからです。
 
 高校時代は、他のことは面白くなかったのですが、彼女らの姿を1日に1回でも、遠くから一瞬でも見ることができただけで、十分に私の青春でした。様々な情景が今でも鮮やかに蘇ってきます。いいものです。人間の能力はすごいですね。
 
 もちろん、全ては私の一方的な思いです。挨拶もしたことがありません。そして卒業後の私は、左翼過激派に変貌してしまい、逮捕(1976年)されて社会を騒がせてしまいましたから、実際は、私にとって辛い現実あるだろうことは、十分想像できます。もちろん彼女らが、私のような左翼過激派を拒絶するのは、全く正当なことです。しかも私が、自分の誤りを自覚し深く反省して転向したのは、はるか後になってからでした。さらにこの事実すら、彼女らにはほとんど伝わっていないでしょう。証拠の捏造などのこともしかりです。彼女らが私を拒絶することになっているだろうことは、十分想像できます。だから私はあえて、自分に都合よく考えるようにしています。つまり私の青春であった多治見北高のお2人は、今も当時の意識を大きく変えることなくいてくれているのだ、と考えるようにしているのです。そうすることによって、多治見がふるさとで在りつづけてくれるからです。
 
●ふるさと岐阜
  大学時代を過ごした岐阜市がふるさとであるのは、(私が学生運動に深入りしてしまう以前の)元寮生の友達たち、教養課程時代の同クラスの友達たち、数学科の友達たち、なによりも別の学校の恋人であった人、これらの私の人間関係がそれになります。
 
 しかし岐阜時代の人たちとの関係にも、私の逮捕が巨大なマイナスを与えてしまったことは、高校時代と同様に言えます。だから私はやはり、自分に都合よく考えることにしています。当時の意識のままでいてくれているのだ、と。それによって、私の素晴らしい青春時代の岐阜は、ふるさとで在りつづけてくれます。
 
 私は岐阜の街並みを思い起こすとき、バス停名を順に口づさんでいくと、焦点が絞られるために、記憶喚起がより効果的にできることに気付きました。だから私は彼女の名前やバス停名を口づさみながら、彼女や街並みを思い浮かべながら運動をしています。
 
 私のアパートは長良天神というところにありました。JR岐阜駅までのバス停名を書いてみます。私が愛した岐阜の街のよく利用したバス停を、「ホームページ」にも残しておきたいと思うからです。

 長良天神/長良北町/長良ケ丘/鵜飼屋/長良橋/岐阜公園前/大仏前/本町1丁目/本町3丁目/伊奈波通り/大学病院前/市役所前/商工会議所前/柳ヶ瀬/徹明町/金宝町/新岐阜駅前(名鉄電車の駅)/岐阜駅前 です。彼女はこのバス路線を利用して、反対方向から私のアパートに来てくれました。反対方向のバス停は、本町1丁目の次が材木町、次が岐阜公園前となり、この部分だけが別の道になっていました。
 
 岐阜市に住んだことがない人にとっては、無味乾燥なバス停名でしょうが、私にとっては、それぞれに特徴ある街並みと思い出が結びついています。長良北町にはスーパー、コロッケ屋、多くの食堂と喫茶店があり、彼女とも友人ともよく行ったものです。アパートから自転車で5分程でした。アパートと長良北町と大学が、私の生活の中心でした。
 
 私は死刑確定囚ですし、文通が認められる外部交通権者の人数も厳しく制限されていますので、目に見える友人は本当に少数です。人間は、多くなくてもいいので、人に必要とされたり、語りかけてもらいたいものでしょう。自分の存在意義の確認です。だから私は、(実際は幻想でしょうが)あえてふるさとの多治見と岐阜は、昔のように今も私を受け容れてくれているのだ、と考えることにしています。毎日、想いを寄せていた人や恋人であった人の名前を口づさみつつ、当時の街並みや彼女たちを思い浮かべて運動をしています。精神衛生上、好ましいからです。
 
 もちろん、政治の文ではこうしたご都合主義はしません。まったく私個人の問題であるからそうしています。また高校のお2人のことも、大学時代の恋人であった人のことも、他の人たちには誰であるかは分かりませんから、ご迷惑をおかけすることもありません。
 
2012年5月6日記
 大森勝久

第34回 再審請求に関する私の考え(2012年8月8日記)

死刑の執行を阻止するために本サイトはあります
  この裁判専用サイトは、一日大体5人から6人の方が訪れて下さっています。ありがとうございます。裁判に関する私の考えを改めて書いてみます。
 
 私は大体は再審請求のことを書いていますが、積極的に裁判のことを書きたいというわけではありません。私は毎月、別のサイト(「大森勝久評論集ー日本の国家安全保障問題を考える」)で保守主義の文を書いています。そのことに命をかけているつもりです。保守主義の主張を行っていくためには、刑(死刑)の執行を阻止する必要がありますので、「私への死刑判決は、多くの捏造証拠によって初めて可能になったのです」ということを書いているわけです。それらの捏造証拠がなかったら、もちろん有罪にはできません。
 
 証拠の捏造を具体的に明らかにしてネットに流すこと、そしてみなさんが訪れて読んでくださっていることが、刑の執行を阻止している大きな要因のひとつだと思っています。感謝しています。
 
 1976年7月2日、岐阜県内で私の友人が「可児町事件」を起こします(第7回コラム参照)。これによって、北海道警察は私の存在を初めて知ることになりました。私は身を隠すために東京へ逃げていたのですが(道警は7月20日頃から私への内偵を開始しました)、私は8月6日に東京からアパートへ戻り、アパートにある物を捨てて、アパートを引き払い、道外へ逃げようとしたのでした。
 
 道警は私の投棄物を拾い、検分して(8月7日午後)、「大森は本件犯人の一味に間違いない」と考えたのでした。「見立て」です。道警は本件の証拠を徹底的に捜しました。しかし、発見できないと、証拠を捏造していったのでした。
 
 8月10日(爆取3条違反容疑の逮捕日)の「発見リン止めネジ」も、「8月28日付の山平鑑定書(シート、カーテン地の付着物の鑑定)」も、8月18日付の藤井氏の供述調書と8月30日付の同人の供述調書(いずれも目撃供述)も、捏造証拠です。他にも捏造証拠は多くあります。私はこれらの捏造証拠によって、9月1日に本件爆弾事件で再逮捕されたのでした。そして起訴されて有罪とされました。
 
●私の場合には同情は全く不要です
  本サイトを訪れてくれる人の大部分は、保守系の人でしょう。また刑事裁判の研究者もおられることと思います。もしたまに、私の学生時代の知人が訪れてくれることがあったら嬉しいなと思っています。
 
 私は反日の爆弾闘争を行うべく、混合火薬の材料の木炭や粉末イオウを入手し、木炭の微粉末化の作業をすすめていました。時計に工作して時限装置も作っていました。混合火薬の主剤となる塩素酸ナトリウム(それを98%以上含有する除草剤)は、法律の規制があるため未だ入手できていなかったのですが、もしも前記「可児町事件」が無かったならば、私はいずれ除草剤も手に入れて、反日の爆弾闘争を行っていったのでした。
 
 また逮捕されても、「証拠不十分」のため処分保留で釈放されていれば(私は9月1日に、爆取3条違反事件では処分保留で釈放され《拘置所の出入り口》、その場で本件で再逮捕されています)、私は警察の監視を振り切って、「地下に潜行」して偽名を使い、いずれ準備を整えて爆弾闘争などの武装闘争を行っていったことでしょう。完全に洗脳状態でしたから、そうしたはずです。
 
 私は捏造証拠によって逮捕・起訴・死刑にされたのですが、上記のようでしたから、私の場合には同情は全く不要です。
 
 私は自己検証に時間がかかって、1997年夏から98年夏にかけてやっと保守主義に転向できました。ですから私としても、この逮捕・起訴・判決を全く恨んでいませんし、正直な気持ちとして感謝をしているのです。私の反日武装闘争を未然に防いでもらえたこと、なによりも社会から隔離されて、一人で考えることができる環境を与えられて、左翼思想の悪魔的な誤りを自覚して転向することが出来たからです。私は左翼思想に洗脳された誤った生き方を、正しい生き方に変えることができたのです。これはなにものにもかえがたい喜びです。
 
 もちろん、証拠捏造は刑法違反ですし、捏造証拠を排除せずに利用していく裁判は刑事訴訟法違反ですし、憲法違反ですから、これらの違法行為を支持するという意味ではありません。
 
左翼思想は日本を滅ぼす悪魔の思想
  私は前記の別のサイトで、左翼思想と左翼(反日左翼政権の民主党やその他)を糾弾する保守主義の思想闘争を行っています。左翼思想とは、日本を旧ソ連や中国や北朝鮮のような自由ゼロの独裁国家・全体主義国家(つまり反日国家)に改造したり、日本を解体して、ロシア や中国という侵略国家の領土にしてしまうことへ導いていく、悪魔の反日思想です。「反人間社 会・反人間」の悪魔の思想です。

 言うまでもなく、憲法違反の思想ですから、コレラ菌やエイズウィルスをそうするように、撲滅していかなくてはならない思想です。左翼のほとんどが、実はこの悪魔性を認識できていないのです。正しいと妄信しています。これが洗脳です。

 「左翼思想」とも「反日」とも「革命」とも言わない、従来とは異なる「新しい左翼思想」を広めていけば、左翼は選挙で国家権力を奪い取ることができます。2009年夏に実現しました。非暴力的な闘いこそが最も有効であることは明白です。つまり出版やテレビ・新聞での主張、スローガンの繰り返し、議会での発言、学校教育、あるいは集会や平和的な街頭行進等々です。

 日本人は、左翼マスコミの陰謀によって、「武装闘争が反社会的な行動」だと勘違いさせられています。しかし武装闘争は、民衆に反発されますから、左翼思想の拡大に逆効果です。また殺傷や破壊行動も、個々の被害者にとりましては別ですが、日本全体へのダメージの点では無視できるものでしかありません。つまり左翼による非暴力的な闘い方こそが、最も危険な反社会的な行動なのです。

 左翼はその前から実践していましたが、とりわけソ連消滅以降は、従来の革命スローガンを封印し、「革命」「反日」のスローガンも伏せて、完全に国民を騙すやり方で「透明な反日革命」をすすめています。また正体を隠して中央・地方の役所に大量に潜入しています。彼らは革命とは言わずに、「革命政策」を立案できます。左翼の非暴力闘争の危険性、反社会性は飛躍的に強くなっています。

 国家権力を握った左翼(民主党)は、「反日革命」という言葉を伏せつつ、「上からの透明な反日革命」を実行しています。今現在進行していることです。しかし、保守派も含めて日本国民はそのことが全く認識できていません。国民自身が知らないうちに、左翼思想に犯されて洗脳されているためです。

 私は左翼として長い間、祖国に反逆してきてしまいました。この誤ちと罪を反省し償っていくということは、左翼思想と左翼を糾弾していくなどの保守主義の闘いを続けていくことだと信じています。そのためには、死刑を阻止しなくてはなりませんから、本サイトの「コラム」でほぼ毎回 捏造証拠について書いているわけです。理解していただければ幸いです。

 2012年8月8日記
 大森勝久

第35回 夏の思い出(2012年9月4日記)

●故郷・多治見と岐阜の夏の思い出
  札幌は残暑が続いています。8月下旬から今日(9月4日)までに真夏日が9日もあり、まだ夏です。私は夏が大好きなので嬉しい限りです。太陽のエネルギー(原子力エネルギーですよ)と夏のいい思い出がそうさせてくれるのでしょう。私は今年の夏も、高校時代の多治見や大学時代の岐阜の夏の日々を思い出して過ごしています。

 1967年の高校3年の夏休み、私は学校へ行って、自分の教室ではない、虎渓山の蔭になって涼しい北舎の一室で、何人かの男女と一緒に受験勉強をしたのでした。秘かに思いを寄せていた人がいたからであり、勉強は主目的ではありませんでした。虎渓山ではアブラゼミ、ニイニイゼミ、時にはクマゼミが鳴いていました。瞼を閉じますと、その時の情景が浮かんできます。感情も甦ってきます。
 
 大学時代の夏の思い出は、3年になってできた彼女と長良川で泳いだことなどです。1970年の夏休みでした。私は2年のオフシーズンから水泳部に入りました。3年のオフシーズンまでの1年とちょっとの間でした。そんなこともあって、彼女を誘って長良川へ行ったのです。当時の長良川(南側)は、水浴びを楽しむ市民でいっぱいでした。海水浴場みたいにです。
 
 澄んだ水、広い川原、すぐ背後にそびえる濃い緑の金華山。この一帯は私が岐阜で最も好きな場所です。何枚も写真を持っています。
 
 私は長良川で、「親子水泳教室」のコーチのアルバイトもしました。やはり3年の夏休みです。彼女とはその夏、「長良川花火大会」も一緒に見物しました。
 
●いろんな所で泳ぎました
 次に書くことは、前記のような私の良き思い出というものではありませんが、夏の水浴びという共通性だけで書くものです。何か書かないと余白が広くなりすぎますから。
 
 私は1シーズンだけでしたが水泳部員でしたので、泳ぎは大分上達しました。1分間のインターバルで100メートルを10本という練習をしていました。始めは息が上がってついていけませんでしたが、段々と出来るようになったものでした。そんなこともあって、川や海で泳いだことも何度かありました。
 
 3年の夏休み、多治見へ帰省した時、家の近くを流れる土岐川を泳いで横断しました。家の裏山の神明山のすぐ下を流れる土岐川は、山側は岩ばかりですが、向こう岸は白い砂浜とそれに続いて広い川原になっていました。そこを横断しました。向こう岸から見上げた神明山が、ちがったものに見えたものです。長良川の北側半分は、流れも速く川幅もありましたが、私は何度も横断していましたから、土岐川横断は簡単でした。
 
 私は3年の夏休みに、3日間の「南紀周遊券」を買って、寝袋1つを持って一人旅に出掛けたことがありました。この時、海水浴場ではない海で泳いだのですが、引き波か離岸流につかまって、少しばかりひやっとする体験をしました。水泳部の練習が役立ちました。

 私は1974年6月末から1年間、北海道の苫小牧で暮らしました。苫小牧は港町で、「苫小牧潮祭り」というのが夏にありました。街の東端は勇払というのですが、やや遠浅の海になっていました。私は中古車を持っていましたので、休みの日に、そこの誰もいない海で泳ぎました。南紀・和歌山での経験も活かして、ちゃんとチェックしてから泳ぎました。
 
 歌手の南沙織は『17歳』で、「誰もいない海、2人の愛を確かめたくって・・・・」と歌いましたが、私は一人で愛車のファミリアに見守られながら泳ぎました。南沙織は私が大学2年の夏に、この『17歳』でデビューしましたが、学生の頃一番好きな歌手でした。苫小牧では、街の中心部近くの海でも、夜11時頃に泳いだことがありました。港の近くだったので、海水が少し油くさかったですね。
 
 1975年6月末に、私は札幌へ転居しました。市内を流れる豊平川というかなり大きな川がありますが、確か「遊泳禁止」だったと思います。この年の夏、私は警察官に見つからないようにと、豊平橋の真下で、浸かる程度の水浴びをしたことがありました。潜ったら魚が見えるかと思いましたが、見えませんでした。
 
 あと、1972年の夏に、岐阜の美濃加茂市の木曽川のダムで泳ぎ、1973年の夏は、北海道静内町の海で夜9時頃に泳いだことがありました。
 
 2012年9月4日記
 大森勝久

第36回 岐阜のこと(2012年10月7日記)

お知らせ―第2次再審請求が少し遅れます
  弁護士の第2次再審請求書の裁判所への提出は、もう少し先になるようです。弁護士が「新証拠づくりの実験」をしていまして、「リン止めネジを発見した」と虚偽を証言した里警部の証言に係る、新たな重大な事実に気付いたのです。そんなこともありまして、請求はもう少し先になりますので、お知らせ致します。しっかりした新証拠が出来上がることでしょう。
 
 私が提出前に、新証拠と請求書の具体的内容を公にしてしまうのは、余り好ましいことではありません。それで第36回コラムも、裁判から離れて書くことにします。
 

「岐阜清流国体」で金華山や百ヶ峰を見られましたか?
  今岐阜市では「岐阜清流国体」が開催されていますので、テレビ等で観戦された方も多いことと思います。私が大学時代を過ごした街です。私の故郷と言ってもよい街です。観られた方は、陸上競技場のバックストレッチのすぐ後方に、岐阜城を頂いた金華山の姿を見られたことでしょう。その手前を長良川が流れています。競技場のすぐ南側が長良川です。それで「清流国体」なのですね。観られれた方は、第3コーナー方向にも山を見られたことでしょう。百ヶ峰という山です。私は百ヶ峰のふもとにあった教育学部の望峰寮に、2年の6月位まで入っていたのでした。
 
 その後私はアパート住いをしたのですが、このアパートも同じ方向にありました。アパートは2階の部屋でしたので、金華山を直接望むことが出来ました。南南東の方向です。アパートの前の道からは左手、北東方向数百メートル先に百ヶ峰がありました。南東の方向に大学がありました。大学からでは真南に金華山、真北に百ヶ峰が見られました。岐阜で過ごした4年ちょっとの間、私は毎日両山を眺めていたことになります。
 
 競技場等が集まっている所は、「岐阜メモリアルパーク」と言うそうですが、私が居た頃は、「県営グランド」と呼ばれていました。アパートから自転車で8分位の距離でしたので、よく出掛けて行ったものです。緑の芝生が気持ち良かったのです。デートでも何度か行きました。当時は、プール、陸上競技場、野球場、テニスコートがありましたが、現在は、全て新しくなり、位置関係も変わっています。またドーム型の体育館が2つと武道館も造られました。岐阜の友人が金華山の山頂から写真を撮って、送ってくれたのです。私は水泳部員でしたので、そこの旧プール会場でも、対抗試合をしたことがありました。選手ではありませんでしたが。
 
●「実業団女子駅伝」(岐阜)は毎年観ていました
 2010年までは、この陸上競技場をスタートとゴールにする「全日本実業団対抗女子駅伝」が、毎年12月の第2か第3日曜日に行われていました。男なら大体の人は女子駅伝は好きでしょう。観られた方も多いと思います。私は「故郷」ということで、テレビ観戦を許可してもらってきました。10年以上ここで開催されてきましたので、その間、年に1回ではありましたが、岐阜を少し眺めることができたのです。
 
 金華山と百ヶ峰はカメラが必ずとらえてくれました。それから、西側に位置する金華橋を北から南側へと走って渡っていくのですがその時、必ず東の上流の長良橋と金華山の景色もとらえてくれました。百ヶ峰も入っています。私はそれらが見たくて、この日を楽しみにしていました。次のことも楽しみにしていました。
 
 駅伝は金華橋を渡って、平和通り(駅前通り)を一路南下し、JR岐阜駅前で右折して、岐阜県庁前を通過し、大垣市まで行って引き返してきます。私は2年間半、家庭教師のアルバイトのため、自転車で長良川の北側の堤防上の道を西に下り、金華橋を南側へ渡り、その先の駅伝コースを1q位走ってバイト先へ行っていたのでした。彼女ともよく歩いた所もありましたから、記憶に残っているそれらの場所が写らないものかと、その場所では選手よりも街並みの方を注視していたものです。
 
 残念なことに、余り街並みは写してもらえないし、CMが多くて、肝心なところがCMにひっかかって見られないことがとても多かったのでした。岐阜駅舎をちゃんと見られたのも1、2度に過ぎません。また街並みも変わってしまっていました。
 
 故郷(岐阜と多治見)も年月の流れの中で大きく変貌していき、昔の面影を見つけ出すのも難しくなることが多いです。しかし、自然など変わらないものも多いです。たとえ街が変わっても、心の中にある懐かしい街並みや店やアパートや学校などや、想いを寄せた人や友人たちとの思い出を、大事に守っていきたいと思っています。
 
 2012年10月7日記
 大森勝久

第37回 美しい季節の思い出(2012年11月1日記)

●弁護士の接見―しっかりした新証拠が出来上がります
 つい先ほど弁護士の接見がありました。弁護士は実験中に新しい事実に気付き、そのことに関連して様々な実験をしてきました。その報告と相談のために、来て下さいました。里警部の証言は嘘ばかり(創作ばかり)です。里警部が、8月10日に私の部屋で「発見した」という「リン止めネジ」は、彼が外から持ち込んだ「捏造証拠」です。それを明白にする確固たる新証拠が出来上がることになります。

 弁護士は、2013年3月までに(第2次)再審請求書と新証拠を札幌地裁に提出するべく、今鋭意努力中です。請求されましたら、詳しくご報告致しますので、もう暫くお待ちください。

●美しい季節の思い出
  札幌は急速に秋が深まり、紅葉の季節になってきました。風呂のときにブラインドを指で押し下げますと、1センチ位の隙間が出来て、外の景色を眺めることができます。これを楽しみにしているのですが、今年は残暑が長く続いたために、先週まではほんの少ししか色づいていませんでした。ところが一気に冷え込んできまして、今週は赤や黄色に色づいた木々が多くなり、かつ鮮やかさも増してきています。札幌はこれからの2,3週間が、紅葉が一番美しい季節になることでしょう。

  私は多治見や岐阜での想い出を日々甦らせつつ、ここでの生活を送っています。今ならば当然、秋の季節の想い出です。想いを寄せた人や友人が登場するのですが、お名前は伏せても何回も書くのはご迷惑になりますので、避けなくてはなりません。味気ない文になりますが、ご理解ください。

  多治見北高(母校)の隣の修道院や虎渓山は、前にも書きましたから今回は別の想い出を書きます。私は大学時代に岐阜から多治見へ帰省するとき、高山本線で美濃太田へ行き、そこで太多線に乗り換えて多治見へ、というルートをよく使いました。太多線の駅は美濃太田、美濃川合、可児、下切、姫、根本、小泉、多治見となっています。姫からが多治見市となります。多治見の秋の風景では、好きなポイントがふたつありました。

  ひとつは根本駅のすぐ手前でした。短い距離ですが雑木林になっていて、両側の木々が手を伸ばしたら届くのじゃないかと思える程、線路近くまで迫ってきていたのです。紅葉の季節にその雑木林の中をゆっくりと走るのは感動的でした。線路西側の丘陵地の紅葉も好きでした。春や夏の季節も素敵でした。

  もうひとつは、小泉駅を少し過ぎたあたりから多治見駅手前までの区間でした。当時は、多治見駅の西側は住宅地が少しありましたが、それ以西は一面の田んぼだったのです。秋には稲穂が黄金色に輝きます。列車はこの美しい景色の中を大きく左へカーブを描きながら走り、だんだんと懐かしい多治見の街へ近づいていくのです。私はこの光景がとても好きでした。街と自然の調和です。高校時代、太多線を利用して通学していた同級生(女子)は何人もいましたから、「彼女たちもこの美しい景色を見ていたのだなー」と、思ったものです。

  私は大学2年の頃には、多治見から岐阜へ戻ってきたときにも、「故郷に帰ってきた!」という感覚になっていました。大学キャンパスの紅葉も好きでしたし、前回コラムに書きました「県営グランド」の紅葉を楽しむためにも出掛けました。金華山の麓の「長良川公園」の紅葉も毎年見に行きました。また私のアパートのすぐ西側は、何キロも田んぼと畑が広がっていましたので、黄金色に染まった風景を何度も眺めたものでした。色とりどりに化粧をした金華山と百ヶ峰も美しかった。何回かは登りました。

  今、多治見も岐阜もそこには住宅とビルがぎっしりと建っています。私が青春を過ごした故郷は、懐かしい人々の想い出とともに私の心の中で生きつづけて、現在の私を支えてくれています。

2012年11月1日
大森勝久

第38回 昔の歌を口ずさみ岐阜を想い出しています(2012年12月2日記)

謹賀新年
 
今年も宜しくお願い申し上げます

平成25年元旦
大森勝久


●歌を口ずさむと懐かしい感情や情景が甦ります
 以前、友人に当時好きで、今からみてもよいと思う歌の歌詞をネットで出してもらい、送ってもらいましたが、時々小さな声で口ずさんでいます。その頃の懐かしい感情や情景が甦ってきます。

(1)「花嫁」 はしだのりひことクライマックス
  「花嫁は夜汽車に乗って嫁いで行くの/あの人の写真を胸に海辺の街へ命かけて燃えた恋が結ばれる/帰れない何があっても心に誓うの」
 
 大学2年か3年の時です。4畳半のアパートでラジオで聴いている情景が浮かんできます。共同トイレ、共同台所のアパートでした。

(2)「青年は荒野をめざす」  ザ・フォーク・クルセダーズ
  「ひとりで行くんだ幸せに背を向けて/さらば恋人よ 懐かし歌よ友よ今 Hum Hum  青春の河を越え/青年青年は荒野をめざす」

 大学1年、2年の頃でしょう。漠然と大学やアパートが甦ってきます。また長良川の堤防を自転車で行く情景も。

(3)「天使の誘惑」  黛ジュン
  「好きなのにあの人はいない/話相手は涙だけなの 幸せはオレンジ色の/雲の流れに流れて消えた 私の唇に人さし指で/くちづけして諦めた人 ごめんなさいね あの日のことは/恋の意味さえ知らずにいたの」

 繁華街の柳ヶ瀬の喫茶店でよく流れていました。黛ジュンは大学2年か3年の大学祭に招かれて来てくれました。市民会館大ホールで、この歌や「夕月」「雲にのりたい」などを歌いました。それらも好きな歌です。彼女の声も好きでした。この曲を口ずさみますと、昼間の柳ケ瀬を友達と歩いている気になります。

(4)「あの素晴らしい愛をもう一度」  ザ・フォーク・クルセダース
  「命かけてと誓った日から/素敵な思い出残してきたのにあのとき同じ花を見て/美しいと言った2人の心と心が今はもう通わないあの素晴らしい愛をもう一度/あの素晴らしい愛をもう一度」

 アパート西側の開けた風景が浮かんできます。

(5)「秋でもないのに」  本田路津子
  「秋でもないのに人恋しくて/淋しくて黙っていると誰か私に手紙を書いて/書いているようなふるさともない私だけど/どこかに帰れるそんな気もして」

 大学1年の秋です。大学のすぐ南側の住宅街を友達と歩いている情景が甦ります。

(6)「17歳」  南沙織
  「誰もいない海/2人の愛を確かめたくて あなたの腕を/すり抜けてみたの 走る水辺のまぶしさ/息もできないくらい 早く強く/つかまえに来て 好きなんだもの/私は今生きている」

 大学2年、長良北町の食堂のテレビで、はじめて彼女を見ました。つい先日、彼女の父は米軍基地で働いていて、父の影響を受けて、彼女は若い頃から、沖縄の左翼の運動に批判的であったことを知り、益々、この歌が好きになりました。彼女の歌では、「友達」という、大学4年のときに出た歌も、メロディーも歌詞も大好きです。「夕焼けに誘われて/町角をただひとり/大好きよあの人が/だけど声に出して言えない/あの人にだけ/人見知りなの/よその国から/来た人みたい/妹か恋人か/友達になりたいの/好きだから/好きだから/とても声に出して言えない」
 
 歌はいいものですね。本当に歌も自然も「友」です。


2012年12月2日記
大森勝久

第39回 遠い昔の「寒い冬」体験(2013年1月10日記)

お知らせ⇒第2次再審請求を1月23日、札幌地裁に行いました!


●2月初めまでストーブなしで過ごしました
 札幌は新年になってから、ずっと真冬日(最高気温が0度以下)が続いています。平年よりもかなり寒いです。札幌拘置所では冬には廊下にスチームが入りますが、それでも旧庁舎時代は、耳たぶに軽いしもやけが出来たものです。新庁舎になって有難いことは、冬を割と暖かく過ごせることです。しもやけとは無縁です。そのかわり、新庁舎では中庭とか一切外の景色は見えなくなりました。

 どうでもいい、つまらない話ですが、「寒さ」ということでは、以前こんな体験をしたことがありました。苫小牧のアパートです。

 私は1974年6月末から北海道に定住するようになったのですが、最初の冬は苫小牧市で迎えました。翌年の6月末に札幌市へ転居しましたので、次の冬は札幌で迎えました。その後は札幌拘置所での生活です。苫小牧は雪は札幌よりずっと少ないのですが、寒さははるかに厳しい土地です。私が体験したのはマイナス20度でしたが、皮膚は「寒い」ではなく、「痛い」と感じるのでした。一番寒い期間は1月下旬から2月上旬ですが、私は最初の冬を2月初旬まで、ストーブなしで暮したのでした。

 その時の話です。どうでもいいことではありますが、書いてみますね。私が借りた部屋は、古い木造2階建てアパートの2階の部屋(2間)でした。北海道の家は、普通は防寒対策のため2重窓になっていますが、古いアパートなのでそうなっていませんでした。ただ冬は、大家さんが内側にビニールを張ってくれました。

 私は当時左翼であり、「自らを厳しい環境に置き、戦っていくのだ」と考えていましたから、「冬は暖房なしで乗り切るぞ!」と意気込んでいたのです。北海道の冬を知らない無知のためです。

 私は苫小牧では、12月半ばまでは野菜と魚を扱う八百屋さんで配達の仕事をしていました。1日中市内や郊外を車で配達していました。12月下旬から翌年6月に転居するまでは、プロパンガス会社で運転助手としてプロパンガスボンベの配達をしていました。

 7月、8月の苫小牧の夏は、本州と大して変わらない暑さでした。カラッとはしています。私はカーラジオから流れてくる渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』をよく聴きながら、配達と港の横にある市場に、主人が買いつけた魚と野菜を取りに行く仕事をしていました。9月、10月頃は芹洋子の『愛の国から幸福へ』がよく流れていましたね。私は頭では批判しながらも、心の深いところでは受け入れて聴いていました。晩秋から初冬の11月、12月は、ふきのとうの『白い冬』が大ヒットしてよく流れていました。私も口ずさみながら、魚と野菜の配達をしたものでした。

 私は「今これ位の寒さなら、ストーブ無しでも十分冬を越せるさっ!」と甘く考えていたわけです。私は北海道の冬は未体験でした。ただ、前年の1973年は4月上旬から10月下旬まで、飯場仕事や札幌の寄せ場から行く日雇い仕事をしながら、北海道各地を回ったことがありました。10月下旬は札幌の寄せ場にいました。こうした前後の季節体験(気温)から、甘い推測をしてしまったのでした。苫小牧は札幌より南に位置するからより寒くない筈だ、とも誤って考えていました。

 しかし冬が深まるに従い、「白い冬」よりも「寒い冬」という本質がどんどん迫ってきまして、私は服を全部着たまま布団に潜り込まなければ、寒くて眠ることが出来ないようになりました。最も寒くなる1月下旬に入りますと、朝起きてみると、寝床のある部屋と戸1枚で仕切られた隣の部屋に置いてあるものは、みんな凍ってしまうようになりました。卵も醤油も凍るのです。

 でも、負けてなるものかと私は頑張りました。しかしながら、部屋では服を着て布団に入ってなければ寒いわけで、手袋も当然してますから、本を読むにも読みづらいのです。なによりも下手すると、眠りに落ちてそのまま凍死ということもないとはいえない状況です。次第に私の心に、「中古のストーブを買うしかないのかなー」という考えが浮かぶようになりました。

 そんな時です。出勤する朝だったと思いますが、アパートのすぐ横のゴミステーションにストーブが捨ててあったのです。私の心はあっさり定まりました。すぐに拾って部屋に運び込みました。2月初旬です。ちゃんと使えるストーブでした。それからは非常に快適に暮らすことができました。このストーブは札幌(大家さんの自宅の2階を間借りしました)でも、大いに活躍してくれました。札幌の部屋は、しっかりしたお宅でしたし、もちろん2重窓でしたから、ストーブをたけば暑いほどになりました。


2013年1月10日記
大森勝久

第40回 第2次再審請求ー「山平鑑定の不存在」と「発見ネジは捏造物」を主張立証する(2013年1月30日記)

●2013年1月23日、弁護人が第2次再審請求を行いました
 これまでの流れを整理しておきましょう。

 「前再審請求」は、2002年7月30日に札幌地裁に対して行いましたが、札幌地裁は、2007年3月19日に再審請求を棄却しました。これを「1審決定」と言うことにします。

 私たちは、2007年3月22日に札幌高裁に「即時抗告の申し立て」をしたのですが、札幌高裁は2008年5月28日に、即時抗告を棄却しました。これを「抗告審決定」と言うことにします。

 私たちは2008年6月2日に、最高裁に「特別抗告の申し立て」をしましたが、最高裁は2011年12月19日に特別抗告を棄却しました。これで、「1審決定」の再審請求棄却が確定したのでした。

 その後私たちは、第2次再審請求に向けて準備を続けてきました。第2次再審請求をするためには、新証拠を用意しなくてはなりません。前再審請求で使いました新証拠は、もはや第2次再審請求には新証拠としては使用できません。

 新証拠が出来上がりましたので、今回の請求となったのでした。

●「山平鑑定の不存在」の新証拠と「発見ネジは捏造物」の新証拠
 今回は、第2次再審請求書の概略を述べます。

(1)「山平鑑定の不存在」の新証拠

 前再審請求でも、山平鑑定(8月8日の午後2時30分までに投棄物のビニールシート、カーテン、軍手から、塩素酸イオンが検出された)は不存在である、と主張しました。

 私たちは、第1審および控訴審(第2審)における山平氏の証言に基づいて、「ビーカー」を使って水溶液を濃縮する「追試」を行い(DVDに収める)、午後2時30分までに3つの水溶液を濃縮してイオン検査をすることは、時間的に不可能であることを証明したのでした。すなわち、山平鑑定は不存在であり、虚偽だということです。

 しかし検察官は、「蒸発皿」で濃縮すれば時間的に可能だと主張し、「1審決定」も「抗告審決定」も、それを支持して前再審請求を棄却し、即時抗告を棄却し、最高裁も特別抗告を棄却したのでした。

 そこで私たちは、「蒸発皿」を用いて濃縮する「追試」を行い、DVDに収めました。新証拠です。

 「蒸発皿」を用いても、ビニールシート、カーテン、軍手の3つの水溶液のうち、第1水溶液(最初に濃縮に取りかかった水溶液)しか時間内に濃縮することはできないことが判明したのです。山平鑑定は「2時30分に前記3点から塩素酸イオンを検出したと電話で中間回答した」というものです。すなわち、山平鑑定は存在しなかったのです。虚偽の鑑定書です。私が除草剤(塩素酸ナトリウム=火薬の主剤)を所持していたとする証拠はなくなりました。「本件爆発物製造」という中心的な間接事実は認定することができなくなります。当然、公訴事実である「実行」は認定できません。

(2)「発見ネジは捏造物」の新証拠
 
  前再審請求では、「発見ネジは捏造物である」の主張は、していませんでした。第2次再審請求において初めてする主張です。この主張を立証する新証拠として、私たちは、8月10日に私の居室で、リン止めネジ1本が布団袋の中にあるのを「発見した」と証言した、里幸夫警部の「発見状況証言」の「追試」を行い、DVDに収めました。新証拠です。

 「追試」を行ってみますと、里証言はことごとく虚偽であることが明白になったのです。たとえば彼は、「布団袋を2人に持たせて畳から上げ、手を布団袋の中へ入れて、底をトントンとたたき、ゴミを中央部に集めた」と証言しましたが、深さが80pもある布団袋では、手は底に届かないのです。

 すなわち、里警部は虚偽を証言していることが明らかになったのです。道警は早くから、本件爆弾事件では、時限装置に使われたトラベルウォッチのリン止めネジ2本が、犯人のもとに残されたことを把握していたのでした。それで道警の幹部は、私が逮捕された8月10日の居室の家宅捜索時に、里警部にリン止めネジを持たせて、「発見」を捏造させたのでした。

 本再審請求書は「第五 結論」として、「請求人について、無罪を言い渡すべき明らかな証拠が新たに発見されたのである。よって、再審事由(刑事訴訟法第435条6号)が認められるから、直ちに再審が開始されなければならない。」と結んでいます。

 次回以降により詳しく述べていくことにいたします。
2013年1月30日記
大森勝久




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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)