北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


大森勝久のコラム欄 第21回〜30回

 第21回 目撃証言の捏造(2011年6月12日記)
 ● 藤井氏の4月10日付調書・イラストと8月18日付調書との比較
 前回書きましたように、8月18日付調書は、私の逮捕(8月10日)後の警察官調書であり、「目撃したA男と大森はそっくりです」と、虚偽が述べられているものです。藤井氏の原初の供述である4月10日付調書やイラストから、どのように不自然に大きく変えられてしまったかを、以下に明らかにしていきます。

  (1)身長について
  「自分(168cm)と同じ位かやや大きめの168、169cm」から、8月18日付調書では、「身長も大森と同じ位」に変わります。藤井氏は公判で、8月18日の調書取りの前に行った「単独面通」のことを聞かれると、「自分より大森はだいぶ高いことがわかった」と証言していました。

  (2)体格について
 4月10日付の「きゃしゃな体格をしており」「きゃしゃな感じ」から、8月18日付の「身体つきががっちりしているところが、似ている」に変わります。

  (3)髪型について
  4月10日付では、「頭髪はえり足位までの長さ」となっていますが、絵に描いた方がはっきりします。A男のイラストでは、髪型はコートの襟にかぶさるほどの長髪であり、正面から見ると女性のように髪がほほの横に大きくはみ出して見えて、長さはあごの下まであります。そしてオールバックです。
  
  ところが8月18日付では、「あまり長くない頭髪の型」が似ているとなります。調書には私の8月11日付の被疑者写真が添付されていますが、この時の私は一時アパートを空けており、髪型も短いスポーツ刈りに変えていました。その短いスポーツ刈りの写真が添付されています。
  
  なお私の事件当時の髪型は、大家のN氏が「長くもなく、短くもなく、、普通でした。七、三ぐらいに分けていました。オールバックにしていたことはありません」と公判で証言し、A男のイラストを示されて、このようなものすごく長い髪型をしたことはなかったと証言しました。

  (4)容貌について
 4月10日付では、「横から見た感じでは、きゃしゃな角顔」「目は細くてするどい」「ほほがこけている」「上縁とつるが黒色の眼鏡(レンズの下は白)」ですが、B男の方は面長となっているのにA男にはそれがありませんから、A男は面長でなかったとなります。A男のイラストもそのように描かれています。

  8月18日付では、「面長」「見た感じがやさしい印象をうけるところ」「横顔」「目の細い切れ長な感じ」「黒縁の眼鏡」「うしろ姿」が、A男と大森の似ているところですとなります。

  4月10日付と8月18日付とでは、面長ではないが、面長になり、角顔が、そうではないになり、ほほがこけているが、(私の添付写真は)ほほはこけていないになり、上が黒で下が白の眼鏡の縁が、全部黒縁になり、目が細くてするどいと(A男のイラストの)神経質で陰険な印象が、見た感じがやさしい印象になっています。4月10日付調書・イラストに述べたことと、8月18日付調書で述べたことは、全く別容貌(人相)なのです。A男のイラストの人相は、一見して私と別人物です。しかし8月18日付調書には、「全体的に似ていると思います。逆に言うと、どこか印象と違うところがないかと言われても、別にありません」と記述されているのです。

  (5)コートについて
 4月10日付イラストでは、A男のコートの色について「色名帳44番あいねずみ色と47番にぶ青色の中間位」と説明書きされ、色が塗られています。青味がかったコートです。しかし8月18日付では、私の「黒色のコート」を示されると、彼は「コートを見せられましたが、色も形もこのようなコートだったと思います」と供述しています。前記の大家さんも私のコートについて、「いつも黒いコートを着ていたと思います」と証言しています。

  ● 嘘の供述を取るための道警の戦術
 8月18日付調書を取ったのは、S警視です。普通は、警視は捜査指揮をするのであり、自ら調書を取ることはありません。しかし、どうしてもでっち上げ調書を取らなくてはならないために、S警視が直接調書を取ることになったのでした。
  
  S警視は8月17日に藤井氏を札幌に呼び出す時に、「あなたに以前、協力して作ってもらったモンタージュ写真が、連日新聞に出ている大森に非常に似ているのです」と言っているはずです。そしてホテルでは、捏造したA男のモンタージュ写真を見せたはずです。

  しかもS警視は8月18日に、「単独面通し」と調書取りの前に、藤井氏の事件当日(3月2日)の行動を、道庁前で再現することもしています。これは、実質的な「犯人の目撃状況の実況見分」です。

  これらのことによって、藤井氏は「自分は犯人を目撃したのだ」と考えるようになります。既に大森の顔は、新聞で何度も見ています。彼の頭と気持ちの中で、「記憶が作られていく」ことになります。そして「単独の面通し」をすることになりました。これで藤井氏の中で、大森の顔がA男の顔の記憶に置き替ってしまうことになったのです。

  藤井氏も、身長や体格の点では、疑問を感じたことでしょう。でも、その点も藤井氏自身が、自らの記憶を変えていく(作っていく)ことで、自分の精神を安定させていったのだといえます。

  もちろんS警視は、藤井氏に4月10日付の調書やイラストを見せませんでした。見せたら、うまく嘘の供述を取れないからです。道警は、8月18日付調書だけを検察庁へ送り、A男が大森ではないことが検事に分ってしまう4月10日付調書も、A男、B男一人づつのイラストも、検察庁へ送りませんでした。




2011年6月12日記
大森勝久
 第22回 検察はにらんだ男をB男からA男に変更させた(2011年7月15日記)
 ●B男がジロッとにらんだ(4月10日付調書)
 藤井氏の4月10日付警察官調書には、「道庁正面からその二人組が出て南へ曲がるのと私はバッタリ逢った状態になり、私はその左側をすれ違って北の方に向かったのですが、この時、Bは私をジロッとにらむ様にして行ったのが印象に残っております」と記載されています。

  4月10日付調書には、藤井氏が作成した図面も添付されています。図面によれば、道庁の西玄関から出てくるときは、A男B男は並ぶようにして出てきたのですが、構内を歩き歩道に出る西門の所では、B男の方がA男より大分前を歩いていたことになります。公判証言では3から4メートル位前です。先に西門に来た男(B男)と藤井氏は、バッタリ出逢う状態になることが、図面からも見てとれます。調書本文と図面は合致しています。

  藤井氏は4月10日に、A男とB男の似顔絵も専門家につくってもらっています。B男一人の似顔絵では、B男は目を左側に寄せて、まさしく左前方から来る藤井氏をジロッとにらむようにしていることが描かれているのです。A男一人の似顔絵は、にらんだようには描かれていません。以上から、B男がにらんだことは証拠によって明白です。

  ●8月30日付と9月15日付検察官調書の内容
 警察は、A男が私でないことが分かってしまうA男とB男の一人ずつの似顔絵と4月10日付調書を、検察庁へは送りませんでした。私の逮捕(8月10日)後に捏造したA男とB男のモンタージュ写真や4月12日に釧路で作成したA男とB男のモンタージュ写真も、送りませんでした。同種の理由からです。送ったのは、8月18日付の調書のみです。なお、8月18日付警察官調書は、目撃状況については触れられていません。

  8月30日付調書を取ったのは、T公判部長検事です。次のように記載されています。
  「私とAとの距離は60〜70p位のものでありました。私が丁度、Aの前方を踏み切るような形になり、Aが止まらないとぶつかるような状態でしたので、Aは立ち止ったのだと思いました。Aが立ち止ったとき、私とAは丁度、顔を正面から向き合わせるような形でお互いの顔を見、お互いの目が合いました。そのときAは私の顔をにらみつけ非常にきつい目で私を見ましたので、私はAが私に対して怒っているような感じをうけました。Aから何か因縁をつけられるのではないかという不安な気持ちに一瞬なりました」。

  藤井氏は事情を聞かれた時、「B男がジロッとにらむ様にして行った」と説明したことでしょう。しかし検事は、A男がにらんだというように強要していったわけです。藤井氏の記憶では、B男は自分(168p)と同じかやや低い167〜168pで、眼鏡をかけていないというものですので、B男を私にすることはできません。A男がにらんだことにでっちあげた理由は、「A男に対する記憶が鮮明に残っている」ことを、裁判官にアピールするためです。前記の8月30日付調書の内容も、検察官の創作です。

  9月15日付調書はS検事が取りました。記憶が強烈に残っていることをアピールするため、創作は一層極端化していきます。以下のようです。

  「A男は私と視線があったときは普通とは違った目つき、表情を見せたのです。よく外国映画などで女の人が殺人現場を見たとき、目を大きく見開いている場面が見られますが、A男のそのときの目つきは、まさにそんな何か大事なことをしでかしてきたという表情の目つきだったのです。そんな目つきに私は、実際にぶつかったことはありません。A男も私にぶつかりそうになり、一瞬立ち止まって考えるような素振りをしました。苦痛を感じているような、そして私を見て困ったというような表情をしたのです。私は異状ともいえるA男の形相に気付き、不安な気持ちになりました。(・・・・・・・)A男は私に口で文句を言うこともなく、鋭い目つきで私をにらみつけるようにして、ゆっくり去って行きました。A男の行動は、実際にそこまで現認している訳です」。
  検察官や警察官(8月18日付調書を取ったS警視。第21回コラム)は、簡単に証人の供述を操作することができることが、これらの証拠からよく分かるでしょう。

  藤井氏は下を向いて歩いてきて、「顔を上げたらA男が右斜め50pから70pの所まで来ていたのだ」(9月15日付)と供述していました。しかし、1秒もない時間のうちに、前記のような表情変化は物理的に不可能です。
  そのため、検事は公判証言では、3メートル手前から目と目があって、というように修正した創作文(余りにも誘導が露骨だと考えたためでしょうが、「何か大事なことをしでかしてきたという表情の目つきだった。そんな目つきに私はぶつかったことがありません」は、削り取られました。一方では、9月15日調書にはない、「そこからは、だんだんもう顔がこわばってきたわけです。しまいには、ものすごい形相になったわけです」を、証言させていきました)を、藤井氏に証言させていきました。2人が犯人であるならば、このような目立つような行動をするはずがないのは、誰にでもわかることです。

  裁判は、法と証拠に基づいて行われるものです。証拠が、法を踏みにじった捏造されたものであるときは、その証拠は排除されることになります。しかし本件では、裁判所自身が、法に基づき藤井目撃証言を排除するのではなく、このでっちあげ証拠に依拠した事実認定を行い、死刑判決を出していきました。
  続きは、次回に述べることにいたします。

2011年7月15日記
大森勝久
第23回 あなたは本件における「証拠の捏造」をどう思われますか?(2011年8月14日記)
●道警は大森はA男でないことを知っているから証拠を隠した
 このコラムも23回になります。私は警察や検察の証拠の捏造について、具体的に書いてきました。証拠の「証明力」があるのか無いのかではなく、捜査機関が証拠そのものを捏造しているのです。また裁判所がそれを追認してきたことも述べてきました。どう思われたのでしょうか?

 日本社会では、新聞、テレビが「証拠の捏造」を報じますと、人々は反応します。報道がなければ、人々は何事もないままに過ごしていきます。政治問題においても、しかりです。ここに、大部分の日本人が持っている深刻な問題性が現れています。大部分の日本人にとって、事実の有無、真理の基準、価値判断の基準は一体どこにあるのでしょうか?

 前回の続きです。道警は藤井氏の4月10日付調書と同日付のA男、B男イラスト(似顔絵)を検察庁へ送りませんでした。隠したのです。A男の身体特徴と人相が述べられ、描かれていて、大森はA男でないことが検察に分かってしまうためです。道警は4月16日に藤井氏の協力で作成したとする、A男、B男のモンタージュ写真も送りませんでした。A男のモンタージュ写真は私と非常によく似ています。それはそうです。道警が、私の逮捕(8月10日)後の私の被疑者写真(8月11日付)をベースにして修正した捏造物だからです。そして4月16日に作成した
 ものとスリ替えたのです。8月8日付の「総合捜査報告書」にも、モンタージュ写真は出てきません。これは捏造物であることが検察にすぐ分かってしまうために、、検察庁へ送らず隠したのでした。4月12日に作ったA、Bのモンタージュ写真も、私とは全く別人ですので送らず隠しました。

 道警のこの「行動証拠」が、道警は大森はA男でないことを知っていることを証明しています。 道警は捏造した前記モンタージュ写真を使って、藤井氏を誘導して、「大森は3月2日に目撃したA男とそっくりです」との供述の8月18日付調書を取ったのでした。道警こそ8月18日付調書が虚偽であることを熟知しています。

●道警が証拠を隠したため、それと矛盾するでっち上げを行ってしまった検察
 4月10日付調書には、AB2人組が西玄関から出てきた後、西門のところで、「Bは私をジロッとにらむようにして行った」と明記されています。「私はその左側をすれ違って北の方に向かった」ともあります。Bのイラストは、目を左に寄せて左前方の藤井氏をにらんでいるものなのです。

 しかし検察官は、そんな証拠があることを知りません。そのため検察官は、裁判所対策として、藤井氏はA男に対する確固たる記憶を保持していたと創作するのが有効だと考えて、にらんだ男をBからAに変えてしまったのです。そして裁判所に、「記憶の中に消すことのできない 鮮烈な印象」(一審判決文)とアピールできるようなA男の行動を創作して、藤井氏に強要したのでした。8月30日から9月26日にかけての、4回にわたる「事情聴取」によってです。一度調書に取ってしまえば、「法廷で違うことを証言したら偽証罪になりますよ」との嘘の脅しで、藤井氏を支配できます。

 藤井氏は法廷で、「3メートル前からAと目が合った。Aは私を誰であるかという仕ぐさをし、次に困ったなという表情に変わり、そのあとすぐに薄ら笑いの感じになり、そこからだんだん顔がこわばってきて、終いにはものすごい形相になり、大きい目をして私をにらみつけて行った。非常に不安だった。私は何か因縁をつけられるのではないかという気持ちさえした」と、検察官の作文を述べたのでした。

 検察官はさらに、A男を犯人らしくしようと考えて藤井氏に、「Aは道庁西玄関へ入って行くまではメガネをしていたが、西玄関から出てきたとき、西門のところではメガネをしていなかった」 と証言させたのです。入る前と後で人相を変えた、と犯人らしさを裁判官に訴えるためです。しかし4月10日付調書には、Aはずっとメガネをしていたと供述されていたのです。道庁から出てきた後のA男を描いたイラストも、もちろんメガネをしています。その時のAのモンタージュ写真もメガネをしています。検察官は、これらに矛盾する証言をさせてしまったわけです。

 もしABが犯人ならば、印象に残らないように行動することが鉄則ですから、仮に目が一瞬合ってもすぐ目をそらせます。100%藤井証言のような行動はしません。常識的に分かることです。しかし検察官は、「裁判所は基本的に検察の主張を受け入れてくれる所だ」と認識していますから、このような非合理な創作でも行うのです。

 藤井氏がA男を見たのは、この日がはじめてです。しかも道庁へ入っていくまでの27秒間に過ぎません。数分後、もしA男がメガネをはずして出てきたら、藤井氏は「先程の人物だ」と認識することは不可能です。

 藤井氏は道庁に面した歩道を北から南へ歩き、その時にABを見ます。そのまま南へ進み、 道警本部の玄間を越した先の方まで行ったところで、引き返してきて、道庁の横に来たときに、再びABが道庁の西玄関から出てくるのを目撃するのです。そして西門のところですれ違いました。

 藤井氏の証人尋問は、第67回、68回(検察官の主尋問)、71回、72回、73回(弁護人の 反対尋問と検察官の再尋問)で行われました。4月16日に作成したというA、Bのモンタージュ 写真は65回公判で開示されました。4月10日付の調書は検察官が開示を拒みましたが、裁判所の開示命令によって、70回公判で開示されました。4月10日付のA、Bのイラストと、4月12日に釧路で作ったA、Bのモンタージュ写真は、69回公判で開示されました。みんな証拠請求されて、証拠採用されました。それでも裁判所は、検察官の主張を丸ごと支持していったのです。「司法の独立」が泣きますね。これらについては、回を改めて書くことにします。

●私が再審請求を行い、このコラムを書く目的
  私は北海道庁爆破(1976年3月2日)を行っていませんが、当時は、日本と日本の法律を否定して、反日の爆弾テロをめざしていました。一部の準備も進めていましたし、その物的証拠もあります。捜査機関や裁判所が、「大森が犯人だ」と考えても無理はないと思っています。 しかし証拠がありません。それで、次々と証拠を捏造していったのでした。

 1996年位までの私は、日本を否定し消滅させようとしていたのですから、捜査機関が証拠を捏造し、裁判所もそれを支持して、死刑判決を下したことに対して、文句を言う資格はありません。逮捕され死刑判決(1983年3月)をうけたことで、私のテロは防止されましたし、私自身も 長い期間を必要としましたが、保守主義者に転向することができましたから、現在の私はむしろ感謝しています。

 私は一人の保守主義者として、法に支配された自由主義国日本の永続と発展のための戦いに、残りの人生を捧げていきたいと思っています。そのためには、刑の執行を阻止しなくてはなりませんから、無罪が明らかな新証拠を提出し、また証拠の捏造を明らかにして再審請求を行い、このコラムも書いています。

2011年8月14日
大森勝久
第24回 藤井調書図面のA、Bを逆に改ざんした検察官(2011年9月13日記)
  前回コラムでは、道警が不都合な証拠(4月10日付調書・イラスト等)を検察庁に送らなかったために、検察官は、にらんだ男をBからAに変えてしまうなど、それらの証拠と矛盾する虚偽供述を藤井氏に強要して、調書化してしまったことを述べました。

 それらの証拠は、藤井氏が証人出廷すれば、法廷に出さざるを得なくなるものです。道警もその後、検察庁へ送りました。検察庁はそれらを見て、まずい捏造をしてしまったことに気付きます。それゆえ検察官は、この捏造を隠すために新たな捏造をすることになったのでした。調書の添付図面のA、Bを逆に改ざんして、BではなくAが先に西門に来て、藤井氏と出会う形となったと捏造したのでした。

●元の図面と検察官の改ざん
 藤井氏が4月10日に作成した添付「図面2」は、次のようなものでした。藤井氏が歩いたルート (行きと帰り)は赤鉛筆で書かれています。藤井氏を表す人形も赤鉛筆で書かれています。A、 Bの2人連れの歩行ルートは青鉛筆で書かれ、A、Bを示す人形も青鉛筆で書かれています。 A、Bの人形は3ヶ所に書かれていて、ひとつは藤井氏が最初にA、Bを見た道庁構内です。もうひとつは、藤井氏が引き返してきた時に見た、A、Bが道庁の西玄関から出てくるところです。もうひとつは、その後に藤井氏が西門のところでA、Bと出会うところです。最初の構内の人形と西門の人形には、青鉛筆で人形の横にA、Bと記入され丸囲いされています。全て藤井氏が書いたものです。

 調書本文には、引き返してくる藤井氏から見て、「向かって左側にA、右側にBが並んで西玄関から出てくるのを見つけた」とあります。右側が藤井氏側です。図面2によれば、2人はそのままの位置関係で西門に至りますが、西門のところではBの方が若干(法廷証言では3から4 メートル)前を歩いているように書かれています。検察官はこの西門のところのA、Bを逆に改ざんして、Aの方が先に西門に来て、藤井氏と出会ったように捏造したのです。つまりAがにらんだ、というわけです。

●検察官の改ざんの態様と藤井氏に強要したストーリー
  検察官は青鉛筆でAと書かれた上から、黒色ボールペンで強くBと書き、青鉛筆でBと書かれているその上から、黒色ボールペンで強くA と書いて、改ざんしました。この4月10日付調書 は、裁判所による「開示命令」によって、70回公判で証拠開示されましたが、検察官は弁護人にコピーを許しただけでした。コピーですと、黒色インクは濃く出ますから、改ざんしたことが分からなくなります。私たちはAが先になっているとばかり思っていました。改ざんに気付いたのは、73回公判で原本の4月10日付調書を見て、藤井氏を尋問した時だったのです。

 最初の構内のA、Bはそのままでいいはずですが、検察官はわざわざ青鉛筆のAの上から黒 色ボールペンでAとなぞり、青鉛筆のBの上から黒色ボールペンでBとなぞっているのです。そうしなければ、コピーしたときに西門のところのA、Bだけが濃く出てしまい、弁護人に不信感を持たれてしまう可能性があったからです。

 藤井氏の証人尋問は67回公判から始まりましたが、検察官はそのための「打ち合わせ」と 称して彼を札幌へ呼び出して、この改ざん図面を使って、藤井氏が法廷で証言すべきストーリ ーを教唆し、また強要していきました。

 すなわち、藤井氏は一貫してAが先に西門に来て、自分をにらんだと遠藤警部(4月10日付 調書をとった人物)に説明したが、遠藤警部がAとBとを取り違えて調書に書いてしまったのであるというストーリーです。図面の書き替えは、藤井氏が遠藤警部の眼前で行ったことにするが、もし弁護人が気付かなければ、無視してやりすごす、ということにしました。

 藤井氏は67回公判で、「向かって右側にA、左側にBが並んで西玄関から出てきたが(調書では逆ですー大森)、西門のところではAが少し先になっていて、私と出会う形になり、Aからにらみつけられました」と、検察官から言われたとうりの証言をしたのでした。

 72回公判で弁護人が、「調書ではBと先に会い、Bににらまれたことになっている」と追及する と、藤井氏は、「それは、遠藤警部がAとBを取り違えたものです」と証言したのでした。

 72回公判の終わりで、検察官は「図面2」を藤井氏に示して尋問し、藤井氏に「Aの方が先に門のところに来ていて、Bは後ろになっています」と証言させました。つまりAがにらんだのであり、だから遠藤警部がAとBとを取り違えて、調書本文を書いてしまったのであるというわけです。このとき検察官も藤井氏も、弁護側が図面の改ざんに気付いていなかったので、もともとは青鉛筆でA、Bが逆に書かれていることは触れていません。

 私たちは73回公判になって、調書(図面)の原本を法廷で見て、初めて改ざんに気付きます。そのことで藤井氏を追及すると、彼は「逆に書いてしまったことに気付いて、遠藤警部の前で、逆に書いてしまったので直しますと言って直しました」と証言したのでした。真っ赤な嘘です。

●一審二審の判決は?
 本当に「Aがにらんだ」と説明していたら、調書にもそのように書かれます。図面の訂正には、 訂正印も押されてありません。最初の構内のA、Bは正しいのに、わざわざ上から別の筆記具でなぞっています。ジロっとにらんでいるBのイラスト(似顔絵)と矛盾しています。それなのに、 一審裁判所は、検察官の主張どうりに、藤井証言は真実であり、遠藤警部がAとBを取り違えたものだと認定したのでした。

 遠藤警部は二審になって、証人として認められて証言しました。定年退職していました。彼 は、真実を証言しました。藤井証言を全否定しました。図面が変わっていることも、初めて知ったと証言しました。それでも二審判決は、藤井証言は信用できるとして、遠藤警部の証言を排除したのでした。

 次回に書くことにいたします。

2011年9月13日
大森勝久


第25回 藤井証言の嘘を明らかにした遠藤元警部証言(2011年10月13日記)
●藤井氏は遠藤警部の前で図面を訂正したと証言したが・・・・
  前回の続きです。私たちが1審第73回公判(1980年2月)で図面の改ざんに気付き、藤井氏を追及すると、彼は以下のように弁解しました。そのまま引用します(カッコ内は大森)。

 (弁)「その場で(図面を)書きながら(誤りに)気がついたということですか」

 (藤井)「(図面を)書いた後ですね。もう1回これずうっと見てまして、あれ、これ違うんでないかということで、これ書いた(A、Bを逆に直した)んです」。

 (弁)「だれかに指摘されたんですか。自分で気がついたんですか」。

 (藤井)「これAなんですね、Bなんですねということでもって聞かれた時に、あれ、ちょっと待って下さいということで、私の記憶ではこっち側がAで、こっち側がBだということでもって、あれ、 したらこれ違いますねということで、書いた(A、Bを逆に直した)んです」(52頁)。

 以上のように、藤井氏は遠藤警部に再確認されている時に、図面の西門の所のA、Bを誤って逆にB、Aと書いてしまったことに気付いて、「これ違いますね」と遠藤警部に言って、目の前で訂正していった、と弁解したわけです。藤井氏は2審第6回公判でも、「遠藤さんの目の前で図面のA、Bを訂正しました」(22頁)「遠藤さんに口で直しますと言って直しました」(23頁)と証言しています。

 この弁解が真っ赤な嘘であることを、遠藤元警部の2審の証言で、明々白々にします。

遠藤元警部の証言内容
  遠藤警部は1982年3月で、警視で定年退職しています。2審の第4回公判(1984年8月)で、弁護側証人に認められて、証言しました。要点を以下に述べます。

 (1)1977年か78年の4月か5月に、札幌地検の吉野検事から、調書本文の西玄関から出てきたときのA、Bの位置関係と、図面の西門の所のA、Bの位置関係が反対になっていて、間違っていると指摘されました。「そんな馬鹿な」と思って見せてもらったら、図面の西門の所のA、Bが逆に訂正されていて、「びっくりした」のでした(39、40、49頁)。

 (2)私は(1976年)4月10日当日、藤井さんが図面を直したのを確認していません(56頁)。 私が確認していれば、当然本文の方(西玄関から出てきたときの2人の位置関係)も直します (55頁)。

 (3)私が訂正させるとしたら、A、Bと書かれている上から別の字を書くような「ずぼらな」訂正の仕方はさせません。まずA、Bをバッテンで消して、その下にB、Aと書き直させて、訂正の指印をその部分に押させます(139、140頁)。

 (4)2人連れを区別するために、最初に道庁構内で2人を見たときの手前側の男(藤井さん側)をAとし、向こう側をBとしました。Aはグレーのコートでメガネでバッグを持った男、Bは白っぽいコートでメガネなしで紙袋を持った男です(21〜25頁、120頁)。私と藤井さんでそのように区別して、事情を聞き、調書を書くときには、その区別を確かめつつ書いています(23,43 頁)。にらんだ男(B)についても、そうしています(23,43頁)。

 (5)調書を取り終わったあとに、私が読み聞かせをしています(61頁)。

 以上で、藤井氏の弁解が嘘であることは証明されています。遠藤警部と栗生警部補の目の前で調書取りはなされました。テーブルは1つです。その場で、誤りに気付き訂正することになれば、(3)(2)となります。第24回のような訂正の仕方にはなりようがありません。A、Bを青鉛筆、藤井氏を赤鉛筆、凡例を黒ボールペンでと、筆記具を区別させて書かせたのは遠藤警部です(49,50頁)。

 「にらんだ男」についても、(4)のように明確に区別されていますし、調書を作成する時には、 区別の内容を再確認しつつ書いていきました。そして(5)ですから、藤井氏が「B男がにらんだ」と供述したのは、疑いを入れる余地がありません。「Aがにらんだと言ったのに、遠藤さんがAとBを取り違えた」という藤井証言が、嘘なのは明々白々です。調書の最後は、「右の通り録取して読み聞かせたところ、(藤井氏は)誤りないことを申し立て署名捺印した」となっています。

 図面を改ざんし、藤井氏に強要して嘘の証言をさせていったのは、札幌地検の検察官です。

●2審判決は?
  2審判決は、「原判決(1審判決のこと)も指摘するとおり、検察官が意図的に直したのであれば、図面の記載のみ直して本文を直さずに整合しないまま放置するとは考え難いのであって、 藤井のいうところを信用して誤りないと思われる」「藤井証言のいうとうり、調書の作成に当った取調官がAとBを取り違えた結果、書き損じたものと思われる」(175丁)と結論づけたのでし た。

 本文にはいくつか訂正箇所があり、遠藤警部が訂正をし、訂正の実印が押されています。検察官もできることなら本文も改ざんしたかったのですが、遠藤警部の筆跡をまねることはできず、遠藤警部の実印もありません。またにらんだ男がBからAに改ざんされていれば、遠藤警部が「だれかが改ざんした」と思うのは必至です。ですから、やりたくても不可能だったのです。

 裁判所は、自分の証拠評価が誤っていることは十分自覚しています。しかし「A男は大森に似ている」との藤井氏のでっち上げ証言を救済するために、この判示をしたのです。藤井証言を、信用性がないと排除すると、私を有罪にできなくなるからです。

 私の裁判はこのようなものでした。


2011年10月13日記
大森勝久
第26回 検察官による遠藤調書本文改ざんの企て(2011年11月10日記)
遠藤警部に気付かれないように本文を改ざんすることは不可能
  前回の続きとして書きます。4月10日付遠藤調書本文には、8ヶ所の訂正があります。7ヶ 所は「加筆のみ」か「削除のみ」で、正しい文字に直した訂正は1ヶ所だけです。しかもこの8ヶ所の訂正は、核心的な内容に係る訂正ではありません。

 検察官は、にらんだ男をBからAにするためには、調書本文の3ヶ所を、改ざんしなければなりません。「加一字、削一字」を3ヶ所に記入することは、筆跡をうまくまねることができません し、遠藤警部の実印もなく、不可能です。それなら図面のA、Bを改ざんした方法で、本文の3ヶ所を改ざんすることは可能だったのでしょうか?この方法なら、「加一字、削一字」の記入も、 遠藤警部の実印も要りません。しかし、これも不可能でした。その理由を以下に述べます。

 本文は黒色ボールペンで書かれていますから、同じ黒色ボールペンを用いて、Aの文字の上からBと書き、Bの文字の上からAと書いて、改ざんすることになります。ところが、遠藤警部のA、Bの筆跡には特徴があり、この方法でも、改ざんしたことが分かってしまうのです。

 本文中には、Aの文字は12ヶ所、Bの文字は8ヶ所、出てきます。Aの文字は、上から下に下ろす右斜線が、12字全てが垂直なのです。Bの文字は、縦線が8字全てが垂直です。メモ帳に、このようなA、Bを書いてみて下さい。

 こういう筆跡ですから、Bの字の上からBを隠すようにAを書けば、上から下に下りる左斜線が垂直になり、Aの筆跡がそこだけ他と異なってしまうのです。またAの字の上からAを隠すようにBを書けば、Bの縦線は斜線になり、そこだけ他と異なってしまうのです。そして、同じ黒ボール ペンで書くのですから、コピーしても下の文字もくっきりと出てしまい、改ざんをしていることが弁護人側に分かってしまいます。

 遠藤警部も、弁護人側が証人申請します。そうなれば、にらんだ男がBからAに変わっていますし、前記のとうりですから、遠藤警部自身が、「誰かが改ざんした」とすぐに気付くことになり、「検察官が改ざん者だ」と考えることになります。だから検察官は、本文を改ざんしたくてもできなかったのです。

 私たちは1審2審でも、この主張をちゃんと展開しました。しかし両裁判所は、私を有罪にするためには、「Aは大森に似ている」との藤井証言を欠かすことができないために、自らの証拠評価が、ためにする誤ったものであることを十分自覚した上で、前回コラムのような認定をしたのでした。なお両裁判所は、藤井氏の「Aは大森に似ている」との証言も、信用性がないことは十分認識しているのです。しかし有罪認定には、それが必要なので、信用できると「評価」しただけです。私の裁判とはこういうものでした。

●検察官の「改ざんの勧め」や圧力をはね返した遠藤警部
  おさらいをしておきます。道警の最高幹部は、Aが大森でないことが検事に分かってしまうために、藤井氏の調書取りが終了するまでは、遠藤調書(1976年4月10日付)や似顔絵やモンタージュ写真を検察庁へ送りませんでした。「Aは大森にそっくりだ」という、私の逮捕(8月1 0日)後の8月18日に取られた佐々木調書のみを送ったのです。

 そのため検察官は、Aに対する記憶が鮮明にある、と裁判官に訴えることができるようにするために(形式が大事になります)、「Aがにらんだ」という虚偽の調書を藤井氏から取っていきました。遠藤調書は「Bがにらんだ」です。その後、前記の隠されていた調書等が検察庁へ送られてきたため、検察官は、「Aがにらんだ」に合致するように、遠藤調書の図面のAとBを、巧妙に逆に改ざんしたのでした。本文の改ざんは前述したとうりで、できませんでした。

 しかし検察官は、調書本文を別の形で改ざんすることまで諦めてしまったわけではありません。私は前回コラムで遠藤元警部が、「1977年か78年の4月か5月に、札幌地裁の吉野検事に呼ばれて、調書の図面と本文の記述が逆になっていて間違っていると指摘されました」と証言したことを書きました。検察官は、その指摘をするためだけに遠藤警部を呼んだのでないことは、明らかです。裁判は1977年2月から始まりました。

 具体的にどのような言い方をしたかは分かりませんが、検察官は、「Aがにらんだ」との検察官調書と改ざんした図面の2つの不正証拠を使って、遠藤警部に彼が、「自分の不注意から図面と本文が不一致という結果になってしまったから、藤井氏の証人尋問が始まったときに、困ったことにならないようにするためには、この場で、本文の方を訂正しておくのがいいのでは ないか」と考えてくれるように、話をしていったはずです。つまり暗に改ざんの勧めをしたのです。

 しかし遠藤警部は、自分の調書に自信を持っていて、納得できなかったので、その話をはね返したのでした。前回コラムの遠藤元警部の証言を読まれれば、そのことがよくお分かりにな
 るでしょう。

 遠藤元警部は、「昨年(1983年)の春に地検の公安部長さんから調書をとられております。 私がですね」(2審4回88頁)とも証言していました。1983年3月29日に、1審の死刑判決があったのですが、判決は、藤井証言を犯罪事実を直接立証する直接証拠として扱い、証言は臨場感にあふれていて、信用できるから、大森が実行者だと認定したものでした。きっと、その直後に遠藤氏は調書をとられたということでしょう。遠藤氏は1982年3月で定年退職しています。

 この調書取りは検察官が、これから始まる控訴審で、遠藤氏が弁護側の証人として申請されることを見越して、彼を味方につけるべく、様々なことを働きかけた、ということです。すなわち検察官は、裁判所は、遠藤調書とは異なっているが、藤井氏の証言どうりに事実認定をしていったということを具体的に遠藤氏に伝えて、もし証人になったときには、藤井証言に沿った証言をお願いします、と働きかけたということです。

 しかし遠藤氏は2審4回公判で、真実を証言していきました。私は氏が真実を証言してくれたことで、随分助かりました。回を改めて引き続き書いていくことにします。

2011年11月10日記
               大森勝久
第27回 検察官が藤井氏に強要した虚偽のバッグ関連証言と二審判決(2011年12月10日記)
恭賀新年
 
 本コラム等を読んでいただきまして、ありがとうございます。今年もアクセスしていただければ幸いです。併せて、政治論文を扱っています大森勝久評論集の方も見ていただければ嬉しいです。  大晦日は夕食に、お正月用の折詰が出ますし、「年越しそば」のカップメン(たぬきそば)も出ます。私は、テレビで「紅白歌合戦」と「いく年くる年」を0時15分まで観せてもらえます。一般収容者も、ラジオで同じものが0時15分まで流れます。普段は9時までです。 1月2日は毎年入浴日になっていますので、風呂場の窓の隙間(1p)から、新しい年の札幌の街を眺めることになります。見慣れた景色ではあるのですが、様々な色彩と自然があふれた外の世界は、何度見ても嬉しいものです。雪を頂いた遠くの山々も望むことができます。改めて、今年も頑張っていこうという気持ちになります。  皆様にとりましても、良いことがありますことをお祈りしています。






 


●検察官が藤井氏に強要した証言内容
  検察官は藤井氏に強要して、次のように証言させていきました。もちろん虚偽の証言です。

 道庁西側の歩道を南へ向かって歩いていた時、(1)の地点で、道庁構内を歩くA男B男を発見した。Aは右手にバッグを提げていた。長さは40〜50p位で、色は暗い感じである。2人は自分と平行する形で、構内を南へ歩いていったが、3m位進んだ(2)の地点で、Aはバッグを左脇に抱えるようにして、そのまま南へ進んだ。(3)の地点では、私の方が少し前になっていて、斜め前から2人を見ている。この地点から2人は向きを変えて、道庁の西玄関へ向かって行った。2人が西玄関へ入って行ったときの私の地点は(4)である。藤井氏は検察官が用意していた地図に、(1)〜(4)を記入しながら証言したのでした。

 そして藤井氏はAのバッグについて、検察官から本件爆発物が入れられていたバッグと同じ検68番のバッグを示されて異同を尋ねられると、「まあ、このような形であって、色も大体このような感じでしたので、まあ、よく似ているということは言えるんでないでしょうか」(1審67回42,43頁)と証言したのです。

 これらは検察官が、藤井氏はAのバッグをよく見ているのだと裁判官に訴えるために、藤井氏に強要した虚偽証言です。その土台には、1976年8月から9月にかけて取った4通の検察官調書(虚偽供述を強要した)があるわけです。「よく似ている」は、真っ赤な嘘です。

藤井証言の虚偽を証明する遠藤調書と遠藤証言
  藤井証言の嘘は、藤井氏の原初供述である1976年4月10日付遠藤警部調書と遠藤証言(2審4回)で、簡単に証明できます。

 遠藤調書では、A男B男の年齢、人相、身長、体格、衣服、持ち物についての記述がなされています。「Bは左手にデパートなどで売っている大きな買い物入れ用の紙袋がありますが、その様な白っぽい紙袋をさげておりました」とありますが、Aの持ち物(バッグ)の記述はないのです。すなわちこの地点(前節の(1)地点から(3)地点に至る約15mの間)では、藤井氏はAのバッグには気がついていなかったのです。Aは(1)で左手にバッグを提げていた。(2)で左脇に抱えたとの証言は、検事による強要です。

 前記引用文に続けて、「ところが、この2人組の男達は間もなく私の方に背を向けて道庁の西玄関から入って行きましたが、その後ろ姿を見たとき、Aが左脇にバッグを抱えているのが目についたのです。そのバッグは、Aのスプリングコートの色のあせた様な色の布製のバッグだったと思います。バッグの型などは分かりません・・・・」と記述されているのです(4月10日付 遠藤調書)。

 藤井氏は後姿を見たときに、左脇に抱えられているバッグに初めて気付いたわけですから、 当然、供述されているように「バッグの型などは分かりません」となります。大きさも不明になります。しかし8月30日付の検事調書では、(1)の地点でAが右手に提げているバッグを見た。 「長さは40〜50p位のもの」「色はやや暗い感じ」と供述されています。検事の強要による嘘です。

 8月30日付検事調書では、「警察の調べ(4月10日)の際には、Aがバッグを持ち替えたことを申し落していました」となっていますが、藤井氏は公判証言では、「遠藤警部には(1)でAを発見しAはバッグを提げていた。(2)でAは左脇にバッグを持ち替えたという流れは説明したと思う。しかし調書には書かれなかった」(71回99〜102頁)と、さらに変遷させたのでした。説明すれば、必ず調書に書かれますし、「後姿を見たときにバッグが目についた」という4月10日付調書の記述になるわけがありません。ボロが出たわけです。

 遠藤警部は、弁護人の質問に答えて、「藤井さんが最初にA、Bを見たときも、どういう姿で、それぞれ何を持っていたかということは聞いているが、そのときは藤井さんはAのバッグに気がついていなかった」(2審4回112頁)。「藤井さんがAがバッグを持っていたのに初めて気がついたのは、Aが背中を向けて脇に抱えて道庁へ入って行くところだった。その前はバッグに気がついていない」(148〜149頁)。「バッグのことについて、藤井さんから、前あるいは斜め前からA、Bを見たという供述は、得ている記憶はない」(150頁)と証言(要旨)し、藤井証言を全面的に否定したのでした。(3)地点で斜め前方から2人を見たとの証言も嘘なのです。

Aのバッグは本件バッグとは別種のものである
  遠藤調書には、「そのバッグはAのスプリングコートの色のあせた様な色の布製のバッグだったと思います」としっかりと書かれています。Aのコートの色は、4月10日に作成されたイラストに塗られた色であり、バッグの色は「コートのあせた様な色」ですから、「Aのコートの色よりも更に薄い色」となります。

 Aのイラストの説明文に、コートの色について、「色名帳44あいねずみ色と47にぶ青色の中間位」と書かれています。遠藤警部の字です。遠藤警部に同行してイラストを作成したS氏が、 藤井氏に色を聞きながら、60本の色鉛筆を使って、記憶に残る色を作り出して、塗ったのです。S氏は公判で、「藤井さんの説明通りにコートの色を塗りました」(1審74回公判97頁)と証言しています。

 イラストに塗られているAのコートの色は青みがかった色ですが、濃い色ではありません。本件バッグは「濃紺」ですが、塗られているコートの色は、薄い(明るい)色です。Aのバッグの色はそのコートの色より「更に薄い色」ですから、Aのバッグは本件バッグとは色の点で明確に異なっているのです。しかも「布製」であり、「デニム生地」の本件バッグとは、この点でも異なっています。

 しかし二審判決は、一審判決のように藤井証言の全てを採用したのではありませんが、藤井氏が見たバッグの色合いと材質は、供述が一貫しているとして、かつ本件バッグと「ほぼ一致する」とでっち上げ認定したのでした。

2011年12月10日記
               大森勝久



[最高裁、特別抗告を棄却する]

第28回 第2次再審請求の新証拠と立証趣旨(2012年1月9日記)
  昨年12月19日、最高裁が特別抗告を棄却したことで、私たちが2002年7月30日に札幌地裁に申し立てた第1次再審請求の棄却が確定致しました。第2次再審請求を準備していくことになります。それで、これまで書いてきました「本件爆発物の設置」に係る藤井虚偽証言等への批判は、後日に続きを書いていくことにしまして、まずは第2次再審請求の新証拠とその立証趣旨について、述べていくことにいたします。

新証拠ー「リン止めネジ発見状況の再現実験ビデオ」
  里警部が8月10日、私の居室に残されていた布団袋の中から、シチズンの旅行用時計のリン止めネジ1本を発見したと証言した状況の、再現実験を行い、ビデオに収めます。

 これによって、里証言は虚偽であり、リン止めネジは里警部によって持ち込まれた捏造証拠であることを立証します。

 (1)逮捕直後の捜索ー8月10日、私は大家のN氏にお別れの挨拶をして苫小牧へ向けて出発します。昼過ぎです。前々日の夕方、私は大家さんに部屋に入ってもらい、部屋にあるもので、使えるものは使ってもらい、不用なものは捨ててもらえないでしょうかとお願いして、了解を得ていました。そして苫小牧でフェリーを待っている3時21分に、尾行をしてきた警察官に逮捕されます。逮捕状が発布されたのも、10日の昼過ぎで、私がN氏宅を発つ少し前です。里警部ら7人の捜査員は、私の逮捕直後、私の居室の「検証と捜索差押え」を行い、布団袋の中からリン止めネジ1本を「発見」し押収したのでした。

 (2)里証言による発見状況―布団袋を部屋の中央に移して、開けて、中の布団、毛布、ロープ、細引きを取り出した。空になった布団袋の中はのぞき込んでいない。2人の捜査員に、布団袋の両端を持たせて畳から上げ、里警部が布団袋の中に手を入れて、底の中央部をトン トンとたたいて、布団袋の周辺のゴミを中央に集めるようにした。そして布団袋を畳に下ろして、中央に集まったゴミを丹念に検分したときに、金色のネジ1本を発見した。中央部にたまったゴミは、綿ぼこり、髪の毛のようなもの、ロープの切れ端、ゴミみたいなもので、量は杯に一 杯くらいのごく少量であった。布団袋の材質はレザーで、内側は白色であった。

 (3)捏造を示す状況証拠ーもし本当に布団袋の中にリン止めネジがあったならば、里警部が中央部をトントンとたたいてゴミを集めたときに、リン止めネジはその都度ハネ上がります。レザーに落下するポンポンという音もたてます。人間の目は、動くものには敏感に反応して存在を認識します。しかし誰一人としてそれを見ていませんし、音も聞いていません。静かな住宅街です。集まったゴミは、前記のような極めて軽いものばかりで、かつごく少量です。固形ゴミはこのネジのみです。しかもリン止めネジは、頭部の直径が4ミリ、ネジ部の径は2ミリ、ネジ部の長さは2.4ミリあり、そんなに小さいものではありませんし、色もレザーの白とのコントラスト
で、目立つ金色です。布団袋の中に、リン止めネジは無かったことが明らかです。

 里警部は、中央に集まったゴミを丹念により分けたときにネジを発見したと証言しましたが、 他の誰もこの時のネジを見ていません。本当に発見すれば、自然に「あっ!」という声も出るはずですが、彼は無言でした。本当に発見したのなら、その状態のネジを証拠写真に撮らなくてはなりませんが、していません。里警部は手の平にネジを乗せて、「これがあった」として写真を撮らせたのでした。誰一人も、里警部がゴミの中からネジを拾い上げるところも見ていないのです。

 これらは、発見リン止めネジが捏造物であることを如実に示している状況証拠です。里警部は、リン止めネジを手の中に隠した状態で捜すふりをしたわけです。私たちは前記の新証拠を作成して、「発見リン止めネジ」が捏造物であることを直接的に証明することにします。

 (4)道警は犯人の元にリン止めネジが残っていることを知っていたー道庁爆破は1976年3月2日ですが、道警は4月中には、現場物を分析して、時限装置の旅行用時計のネジの使い方を解明していて(すなわち、リン柱にはリン止めネジではなく、互換性があるケース止めネジが使われていたのです)、犯人の手元にリン止めネジ2本が残っていることを把握していました。それで、里警部に命じて、リン止めネジを捏造したわけです。

新証拠・8月21日付中島富士雄鑑定書の開示要求
  この中島鑑定書は、里警部が「発見」したネジを8月16日から18日にかけて精密に測定した鑑定書ですが、検察官は証拠請求していません。開示もしていません。私たちは札幌地裁に対して、この鑑定書の開示命令を出すよう要求します。開示されたら、これを新証拠として取調べることを要求していきます。

 この新証拠の立証趣旨は、(ア)里警部が「発見」したリン止めネジには目立つドライバー傷はないこと。従って、(イ)検766番の「発見リン止めネジ」(目立つドライバー傷が3ヶ所に付いています)は、その後にスリ替えられたものであること。(ウ)これはとりもなおさず、8月10日に里警部が「発見」したリン止めネジは、捏造されたものである、ということになります。真正なものなら、スリ替える理由がありません。

 (1)道警は目立つ傷のないリン止めネジを里警部に渡してしまった
  状況の展開が急であったのです。私の位置づけは、8月6日までは岐阜県内で起こった事件の容疑者の「立ち回り先」でしかありませんでした。道警が道庁爆破との関連が出てきたと判 断したのは、私が8月7日に市内のゴミステーションに捨てたものを押収して検分した後の、同 日の夜でした。私は道外へ逃げようとしていました。道警が、爆発物取締罰則第3条の容疑で、逮捕状を裁判所に請求して発布されたのは、8月10日の昼過ぎでした。この逮捕状の「被疑事実」は「爆発物の製造器具の所持」であり、法令に存在しないものでした。つまり私は、憲法31条(法定の手続きの保障)に違反して逮捕されたのでした。これは、道警がそれほど慌て ていたことの証左です。

 そのために、道警の幹部(石原警視、高山警部)は十分考える余裕がなく、里警部に、目立つドライバー傷が付いていないリン止めネジを渡して、捏造させてしまったのでした。このネジを道警犯罪科学研究所の中島吏員が鑑定して、8月21日付鑑定書を作成しました。

 (2)道警はその後、ドライバー傷のある検766番のリン止めネジにスリ替えた
 しかし彼らはその後、犯人は時限装置を製造する過程で、何度かリン止めネジをはずしたり、絞めたりしたわけだから(時計のリンをはずして、中に配線などの工作をしますから)、ネジの溝の部分にドライバーの傷がついてなければ、捏造を疑われてしまうことに気付きます。それで相応しいネジを見つけて、または作りあげて、スリ替えたのです。それが検766番の発見リン止めネジになりました。

 検766番のネジを鑑定したリズム時計の栃木県の益子工場長のY氏は、ネジを見るとすぐに「3ヶ所にくっきりとシロウトがつけたドライバー傷がついている」旨を捜査員に話し(8月26日)、その後に法廷でも証言しました。

 中島富士雄氏もその後、8月29日付の鑑定書(8月28日に鑑定実施)で、この検766番のネジの鑑定を行っています。しかしドライバー傷については、鑑定書でも何も言及していません し、法廷で弁護人から、「目の前にある766番のネジと、8月28日に鑑定したネジが、同じものであるといえるのは、ネジに何か特徴があるからですか」と聞かれても、彼は3ヶ所ついているドライバー傷のことは決して口にしなかったのです。益子工場長Y氏のように、証言して当然なのに、です。沈黙した理由は、傷のことを言ってしまうと、もしも8月21日付中島鑑定書が開示されることになったら、ネジのスリ替えが判明してしまうためです。彼もスリ替えられたことを承知しています。続きは次回に書くことにいたします。

2012年1月9日記
大森勝久
第29回 第2次再審請求の新証拠と立証趣旨その2 (2012年2月5日記)
●道警は「発見リン止めネジ」が捏造物であることを隠すために芝居を行った
  (1)第28回コラムの続きを書きます。里警部は8月10日の家宅捜査で、リン止めネジ1本を「発見」し押収しました。彼は「一見して時計などに使われているネジと思って押収した」(1審46回公判)と証言していました。道警は8月10日、里警部からそのネジを受け取ったら、直ちに犯罪科学研究所の中島富士雄氏に、シチズンの旅行時計のリン止めネジかどうかの鑑定をさせねばなりません。中島氏は既にシチズンの旅行用時計を何個か手元に持っているのです(1審48回)。それとの比較です。ところが、していないのです。

 (2)捜査の指揮をとったのは石原啓次警視ですが、彼は8月15日になって、「捜査員に時計屋の関係の捜査をさせた」「時計のビスではないかとは考えたが、道庁事件の時限装置との結びつきがあるというところまでは考えていなかった」(1審91回)と言うのでした。これは、里警部が捏造したことを隠すための下手な芝居です。

 (3)前記中島氏は、既に4月頃には、犯人の元にリン止めネジ2本が残っていること、シチズンの旅行用時計のリン止めネジは、シチズン独自の規格であり、かつ機種が異なっても全て同一であることを、把握していました。爆弾捜査本部にもそのことを報告していました(1審48回)。

 (4)私たちは反対尋問で、この中島証言を引用しながら石原警視を追及しました。石原氏も「5月16日より前に、道庁爆破の時限装置の時計のネジの使われ方が特異であるとの報告を受けていた」こと、私が逮捕される前から、「ネジの使われ方についていろいろ検討していた」 旨を、証言せざるを得なくなったのでした(1審91回)。

 石原氏が、ネジの捏造を隠すために、8月10日の「発見押収」によって、初めてネジの捜査が始まったかのように偽装しようとしたことが明白です。

鶴原正規警部補の証言(1審47回)から判ること
  (1)鶴原警部補の証言を整理します。8月15日、西川警部が「何に使われているネジかを捜査するのが我々の任務だ」と言い、西川警部、鶴原警部補、谷内警部補の3人で、「発見押収ネジ」(8月10日里警部)を持って、市内の捜査に出掛けた。「一応時計かおそらくめがねのネジではないかと考え、とりあえず時計屋、めがね屋を当たってみよう」となったと証言しました。

 (2)最初にT時計店へ行った。専務が時計4,5個を出してきて、リン止めネジをはずして、そこに発見押収ネジを入れてみると、「2個(2種類)の時計にぴったりと合った」。シチズンの旅行用時計であった。それで、そのリン止めネジ1本を借りて、それを持ってシチズン札幌支店へ行く。すると、シチズン旅行時計はリズム時計で作っていると言われた。この日の捜査はここで終わる。8月16日、リズム時計札幌支店へ行くが休みであった。8月17日、鶴原警部補と渡辺巡査部長の2人で、T時計店で借りたネジを持って、リズム時計札幌支店へ行く。リズム時計の栃 木県益子工場で作っている、リズム時計独自の規格のものだとの回答を得た。鶴原警部補はこのように証言しました。

 (3)2種類のシチズンの旅行時計にぴったりと合ったのなら、その2本を借りなくてはなりません。肉眼的には同じに見えても、小さいネジですから、微細な部分の寸法が異なっているかも しれないからです。専務から「シチズンは全て同一規格です」との説明があったのでもありません。

 また鶴原氏らが、借りたネジを持ってリズム時計札幌支店へ行ったのも、全くおかしなことです。「発見押収ネジ」を持って行かなくてはなりません。彼は「発見押収ネジと時計店で借りたネジは、肉眼で見る限りでは、色と形、大きさ、これが一致してました」と証言しましたが、素人の肉眼検査のみで異同識別をするのなら、道警の犯罪科学研究所は不要になります。

 これらは、キャップの西川警部は、石原警視から捏造を含めて、リン止めネジの規格のことなども全て説明された上で、芝居をしていたことを如実に示しています。しかし鶴原氏は、聞かされていなかったと判断できます。

 なお鶴原氏は、「発見押収ネジ」をこの時よく観察したわけですが、「ドライバー傷」は見ていません。傷のないネジだったのです。

(4)鶴原警部補は8月23日に、石原警視から「栃木県のリズム時計益子工場へ行って、発見押収ネジの(簡易)鑑定をしてもらってこい」と指示されて、8月25日に検766番の「発見押収ネジ」(これは里警部が「発見押収」したネジではなく、その後にスリ替えられた「ドライバー傷」がついているネジです)を渡されて出発し、8月26日に益子工場に着きます。26日、工場長のY氏が検査をしました。

 Y氏は拡大鏡でネジを見て、すぐに「ドライバー傷がついています」と鶴原氏に言い、彼も見て、すぐ傷を確認しています。彼は、「このときに初めて傷に気がつきました」と証言しました。すなわち、「発見押収ネジ」はスリ替えられたことがこれで明らかです。彼は法廷でも、肉眼で検766番の「発見押収ネジ」を見て、すぐに「傷があります」と述べました。よくわかる傷なのです。

中島富士雄氏はT時計店から借りたネジの検査をしていない
  道警犯罪科学研究所の吏員・中島富士雄氏は、8月16日から18日にかけて、里警部が「発見押収」したネジの精密な測定をしたと証言しましたが(1審48回)、「鶴原氏たちが8月15日に時計店から借りてきたリン止めネジの検査はしていない」と口を滑らしてしまいました(同)。

 芝居を成功させるためには、「8月16日から18日にかけて、発見押収ネジの精密測定を行い、また時計店から借りてきたリン止めネジの精密検査を行って、両者の比較を行った。完全に一致していた」と言うべきであったのです。この口を滑らせてしまった中島証言で、道警が「発見リン止めネジの捏造」を疑われないようにするために、芝居を行ってきたことが明白です。

 第28回コラムで書きました新証拠を請求すれば、「確定判決の事実認定」(「発見リン止めネジは捏造されたものではない」)が覆ります。このとき、旧証拠(確定判決の事実認定に使われた証拠)の再評価を行い、「新旧証拠の総合評価を」をしなくてはなりません(最高裁の判例)。 28回と今回に「旧証拠の正しい再評価」を書きましたが、それらの旧証拠は、「発見リン止めネジ」が捏造物であること、更にその後にスリ替えられたことを、明らかにする状況証拠なのです。

新証拠ー山平真証言(全ての資料20点のイオン検査を終えた時間)の再現実験
  山平真氏の旧証言は、(1)ビニールシート、カーテン地、軍手の3点の塩素酸イオン検査をまず優先して行い、8月8日午後2時30分に、3点から塩素酸イオンを検出した、と電話で中間報告した。(2)その後に、3点の残りのイオン検査と、それ以外の17点の全てのイオン検査を行い、8日の夕方、まあ暗くなる頃までに終えたというものでした。

 私たちは(1)に対する反論として、2時30分までに中間報告をすることは時間的に不可能だという、山平証言の再現実験である「竹之内鑑定書」を、新証拠として請求しました。しかし不当にも、200ml用蒸発皿で濃縮すれば可能だとして、否定されてしまいました。山平氏は200mlの ビーカーのままで濃縮した、と証言していたのです。

 私たちは(2)に対しては、即時抗告審(札幌高裁)において、新証拠「鈴木回答書」を証拠請求しました。「イオン検査は、20点全部で8時間14分かかり、200ml用蒸発皿で濃縮したとしても、8日の夕方、暗くなる頃までに終えることは不可能だ」という内容です。

 ところが即時抗告裁判所は、具体的な数値を出して否定するのではなく、単に200ml用蒸発 皿ではなく、600ml用蒸発皿で濃縮すれば、「十分に可能であったと認められる」として、鈴木回答書を否定したのでした。反論できないので、逃げたのです。

 同じ証拠は新証拠になりませんから、私たちは「600ml用蒸発皿を用いて濃縮した場合でも、8日の夕方、暗くなるまでに、全てのイオン検査を終えることは不可能である」ことを証明する「新鑑定書」を作成して、証拠請求していくことにいたします。立証趣旨は、「山平鑑定は存在しない」(完全な捏造)です。

2012年2月5日記
大森勝久
第30回 「発見リン止めネジ」捏造の他の状況証拠ー家宅捜索の態様の異常さ (2012年3月15日記)
●8月10日私の居室の家宅捜索を2時間も遅らせて実施した道警
  (1)里警部は8月10日午後1時すぎ、道警本部で、高山警部から大家N氏宅の2階の私の居室の「検証と捜索差押え」を指示されています。2時頃には班員もその他の準備も整いましたが、里警部ら7人がN氏宅に到着するのは、3時30分すぎでした。私は3時21分に苫小牧で逮捕されましたが、里警部らはN氏宅到着後も、すぐに捜索を開始したのではなかったのです。約50分経過した4時18分になって、やっと開始したのでした。

 (2)警察は8月8日からは、堂々と私の尾行をしていました。私の方から彼らを問い詰めたためです。警察は8日には、私が引っ越すことを知りましたし、9日には、区役所で転出届をしたことも現認しています。フェリーのチケットは尾行をまいて9日に入手しましたが。

 私は8月10日、車検に出して車がない大家のご主人を車で会社へ送ってあげ、その後荷物を整理するなどした後、スーツケースとボストンバッグと炊事用具等を車に積み込み、奥さんに見送られて午後1時17分にN氏宅を出発しています。警察は一部始終を見ていました。すぐに車4、5台で追尾してきました。私は真っすぐ苫小牧へ向かいました。

 (3)警察は私がN氏宅を引きはらったことも、札幌市を抜け恵庭市、千歳市へと向かい、もうN氏宅へ戻らないことは判るのですから、班員の準備が整った2時頃に、N氏宅へ向かわせて家宅捜索をさせてもいいはずです。N氏宅へは10分で着きます。

 しかし彼らが道警を出発したのは、逆算して、私が逮捕された3時21分頃になります。私は3時01分に苫小牧のフェリーターミナルに着き、乗船待ちで並んでいた3時17分に任意同行を求められて、3時21分にターミナルの待合室で逮捕されました。こうした情報は、無線で道警本部に詰める高山警部に伝えられます。そして里警部は、高山警部の指示で3時21分頃に出発したわけです。

 (4)里警部はN氏宅に着くと、すぐに捜索を始めたのではなく、N氏の電話を借りて道警本部の高山警部に電話を入れ、更に4時少し前にも電話を入れています。開始してもいいか等の指示をあおいでいるのです。その理由は後述しますが、結局彼らは、4時18分から奥さんを立会人にして捜索を開始します。そしてご主人が帰宅する少し前の、5時ちょっと前に、布団袋の中からリン止めネジ1本を「発見」することになるわけです。ご主人は奥さんからの電話で、会社が終わるとすぐに飛んで帰宅したのでした。5時を少し回った頃でした。

 (5)里警部は捜索差押えを終えると、道警本部に戻り、徹夜をして「検証調書」の作成に取りかかり、8月11日の夜が明けた頃に完成させています。このように急ぐ捜査であったにもかかわらず、道警(高山警部―里警部)は、わざわざ2時間も遅らせて家宅捜索を始めていったのでした。それには、ちゃんと理由がありました。その点を次に書きます。

●車(苫小牧)の捜索差押え状況を聞いてから、居室の捜索差押えを開始しようとした道警
  (1)里警部の証言(1審46回、47回公判)を引用しましょう。弁護人に、N氏宅に着いてから捜索開始まで50分近くも時間がかかった理由を尋ねられた答えです。「やはり今ここに着いたということで警備課のほうに電話連絡して、大森の逮捕と、あるいは逮捕の現場(苫小牧フェリーターミナル)における(車の)捜索差押えの状況について、情報を聞きながら、いつごろから開始しようかということで、(高山警部と)連絡しながらやりましたんで、そういう時間も若干入っております」(1審46回公判)。

 弁護人が、そうすると道警本部を出発する際、あるいは出発前に具体的に捜索、検証の開始は、更に指示を受けて開始せよと指示を受けていたのですかと問うと、里警部は「そうですね。現場(N氏宅)へ着いたら、現場から電話を入れてくれという指示を受けてやってます」(同)と述べました。

 弁護人が「情報を聞きながらというんだけれども、具体的に誰からどんな情報を聞いたんですか」(47回公判)と質問すると、彼は「高山警部に連絡をとって、もうやってもいいんだろうか ということで、当然大森を逮捕する、あるいは逮捕した場合は、(車の)捜索をやるということは知っておりましたので、もうやったんだろうかというような状況を聞きながら、(N氏方の大森の居室の捜索差押えの)開始の時刻を判断したと、こういう意味です」(47回公判)と証言したのでした。

 (2)私の居室の捜索差押えが、私の車の捜索差押えと全く独立した捜査であるのは自明のことです。だから2時に出発して、2時10分から開始すればいいものです。しかし高山警部・里警部は、苫小牧における車の捜索差押えの状況を聞いてから、居室の捜索差押えを開始しようとしていたわけです。賢明な読者の方は、里警部がリン止めネジを捏造しようとしているからこその行動だ、と理解されたことでしょう。

 石原警視と高山警部は、里警部にリン止めネジ2本を渡して、大森の居室のどこか適切な場所に紛れ込ませるよう指示しました。しかしもしも、私の車の荷物の中からリン止めネジが2本あるいは1本出てきたら、里氏が2本を捏造したら合計4本や3本になり、おかしなことになってしまいます。だからこそ、車の捜索差押え状況を聞いてから、実施しようと考えたのです。

 (3)石原警視は8月10日午後1時頃に、木村警部を呼んで、大森の車の検証捜索差押えを指示しています(1審91回公判)。木村警部は2時30分に道警本部を出発したのでした。高速道路を使う予定だったので、3時40分頃にはフェリーターミナルに着き、車の捜索差押えをするはずだったのです。それで里警部はN氏宅に着くとすぐに電話を入れ、また4時前にもう1回、高山警部に電話を入れたのでした。ところが木村警部は、予定を変更してしまい、フェリー ターミナルには午後5時に到着したのでした(1審60回公判)。木村警部は証拠の捏造には関わっていません。木村警部は、無線が付いていない車を使ったのでした。

 (4)道警としては、木村警部による車の捜索差押えをいつまでも待ち続けることはできません。大家のご主人も5時ちょっと過ぎには帰宅して立ち合いをすることになれば、捏造が難しくなるからですし、そもそも3時30分すぎに奥さんに会ってから、開始までに1時間半以上も経ってしまえば、それ自体が怪しまれる行動になるからです。また居室を捜索する時間も確保しなくてはなりません。開始して、すぐ「発見」したのでは、やはり怪しまれてしまいます。それで、4時18分から開始して、5時ちょっと前に、リン止めネジ1本を[発見」したことにしたのでした。

 道警の居室捜索の態様の異常さこそは、「発見リン止めネジ」が捏造物であることの明白な状況証拠なのです。

2012年3月15日
大森勝久


戻る



 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)