北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)
大森勝久のコラム欄 第11回〜20回

 第11回 私の獄中生活(2010年8月18日記)
  私の獄中生活について少し書くことにします。居室の広さは4畳です。流しと水洗トイレが付いています。3カ月毎に転房をします。2つの房を行き来しています。起床は平日が7時30分、休日(土、日と祝日)は8時です。就寝は午後9時ですが、私は許可を得て12時まで起きています。午後9時になりますと、8ワットに減灯になりますので、物を書く分にはそう支障はありませんが、本を読むと目を疲れさせて、半月以上使いものにならなくなるため、読まないようにしています。

 朝食は平日が8時、休日は8時30分です。昼食と夕食は平日、休日とも、それぞれ11時20分頃と4時10分頃です。食事メニューは、種類、味付け、栄養バランス、量とも非常に良いと思います。月末に翌月分のメニュー表が配られますので、楽しみなメニューを赤ペンや青ペンでチェックしています。

 ラジオは平日は、昼12時から1時までと、3時15分から夜の9時まで居室のスピーカから流れてきます。ラジオ番組は決まっていまして、自分で選択することはできません。ニュースは聞けます。聞きたくない時は担当職員に言って、居室の外側に付いているスイッチを切ってもらいます。休日は、朝9時30分から夜9時まで連続して入ります。

 休日は、屋上での運動(30分間)も、入浴(15分間)もありませんが、平日は運動か、入浴かのいずれかが実施されます。月、水、金が入浴日の週は火と木が運動日。月と木が入浴日の週は火、水、金が運動日となります。年間の入浴日は135日と決められています。運動日は、大体110日程になります。しかしその日が雨天やひどい降雪であれば、屋上運動は中止となり、室内体操になります。体操のテープ(30分間)がスピーカから流れてきます。

 運動日であっても、午後2時45分から3時15分の30分間は、必ず室内体操のテープが流れてきます。休日は、この午後と午前9時から9時30分の間の2回、体操テープが入ります。その間はラジオは切れます。

 屋上運動は、8時30分〜9時、9時10分〜9時40分、9時50分〜10時20分、10時30分〜11時、午後1時10分〜1時40分、1時50分〜2時20分の6つの時間帯に分けて実施されます。順番は回転して変わっていくことになります。冬場の11月〜4月は、運動に出る者が少なくなるため、午前中で全てが終了します。私が午後の2回目の番で出るのは、年に1回か2回ぐらいでしょうか。

 屋上には4.5m位の壁がありますので、札幌の街や山々を見ることはできません。空が見えるだけです。独居運動場の造りは、10回コラムに書きました。私の居室は3階ですので、職員と一緒に歩いて4階へ上り、そこから同じ階の別棟にある運動場へ行きます。居室から50m位の距離になります。昨年から、5月から9月の5ヶ月間に限り、月に1回だけ、死刑確定囚は中庭で運動できるようになりました。その時は、職員とともにエレベーターで1階に下りて、中庭に出ます。中庭は扇形で、広さは長さが85m位でしょうか、扇の先の広いところで70m位です。5m位の塀がありますし、拘置所の建物があるため、旧庁舎の運動場のように、札幌の街の建物や山々を見ることができないのが、少し残念です。


 風呂場は3階にあります。私の居室から7〜9m位の位置です。一人で入浴します。8時15分位から実施されますが、順番は回転していきます。ただ私は大体10時頃までには入ります。風呂場の窓は手前に目隠しルーバーが付いていますが、セルロイド製ですので、指でルーバーを下げますと、1p位の隙間が出来て、外の札幌の街や山々を眺めることができます。同じ景色ではありますが、毎回眺めるのがすごく楽しみです。

 面会室は1階にあります。呼び出しがありますと、職員とともにエレベーターで1階に下りて、面会室へ向かいます。歩く距離は40m位でしょうか。
 月に1回、第2統括と1時間ほどの面接をしています。3階の別の棟で行います。徒歩で25m程の所にある部屋です。会話が不足気味ですので、貴重なひとときになっています。

 私の生活空間は以上です。あとは4畳の居室で一日を過ごします。ダイヤモンドガラスですので、外の景色は見えません。楽しみは、毎週月曜日の午後1時から、自室内でDVDで洋画か邦画を交互に観せてもらえることです(死刑囚のための処遇です)。ほとんどリクエストをしたものを観せてもらっています。今週はリクエストした織田裕二主演の「ホワイト アウト」を観ました。ダムを占拠し人質をとった武装テロリストとの戦いです。面白かった。もう1度観たいと思いました。

2010年8月18日記
大森勝久


 《編者のお節介コーナー》

  我々が札幌拘置支所で、大森さんに面会する手順は概ね以下のようです。

 面会待合室に入る前にゲートで、手荷物を預け所定の手続きをしますが、ここで番号札を渡されます。それを胸に付け数十メートル歩いて待合室に入り、予めゲートで書いておいた面会申し込み書を受け付けに提出して、順番を待ちます。しばらくすると、「○番の方、△番面会室にお入り下さい」という放送が流れ、我々はおもむろに面会室に入っていくわけです。

 この直前に、大森さんは居室の3階から職員と共にエレベーターで1階まで下り、面会室で満面の笑みを浮かべつつ我々を待ちうけている、ということだったようです。成程、そういうことでしたか。

 ところで、このホームページへのお問合わせや大森さんにお聞きしたいことなどがありましたら、下記メールアドレスにお願い致します。お気軽にご連絡頂ければと思います。もちろん、公表したりそれを利用したりなどは絶対に致しません。私が責任を持って仲介させていただきます(T.K)。

連絡先  omorisaiban@nifty.com 
第12回 目撃証人が見たA男B男の2人連れは犯人ではない(2010年9月11日記)
  藤井氏は、A男(バッグを持つ)とB男(白い大きな紙袋を持つ)が道庁に入って行き、数分後、2人が手ぶらで出てきたのを目撃した、と証言しました。裁判所は、関係証拠を評価して、A男B男が犯人であり、A男が持っていたバッグが本件のバッグ(中に消火器爆弾が入っている)である、と認定しました。

 何回かに分けて、藤井氏が目撃したA男B男の2人連れは、犯人ではないことを明らかにしていきます(有罪判決の証拠構造は土台から崩壊します。裁判所は私の再審開始を決定しなくてはなりません)。それをしてから、次に、「大森はA男と似ている」との藤井氏の目撃証言は、全く信用性がないものであり、警察と検察の誘導の産物であることを明らかにしていくことにします。警察は藤井氏を誘導するために、私の逮捕時の被疑者写真をベースにして、A男のモンタージュ写真も捏造したのでした。

 2審判決は、藤井氏の目撃時間等の証言やその他の関連証拠から、「藤井氏が外出していたのは8時15分ころから8時40分ころまでの時間帯のうち約13分間であったと推認され」「本件爆発物が設置された時間は、8時20分ころから8時40分ころまでの時間帯(右時間帯の後半であった可能性が強い)であったと認めて誤りないものと考える」と認定しています。

 本件爆発物は、本件スポーツバッグに入れられて、1階エレベーターホール(東西に4機ずつ、計8機のエレベーターがある)の一番北側端の4号エレベーターの昇降口北側の東向きの壁際に、平行に置かれていました。被害にあわれた道庁職員のIT氏(男性)が、このバッグを爆発(9時2分)直前に見ています。調書が作成され、バッグの形状を描いたイラストも添付されています。

 それによれば、本件バッグは山形で、取っ手は2本とも立っていました。バッグは黒っぽく見えました。そして新聞紙が20p位見える形で(バッグの横についているポケットに)差し込まれていたのでした。これらは客観証拠に合致しています。本件バッグは、濃紺のレーヨンデニム生地であるため、屋内においては黒っぽく見えます。取っ手には、塩化ビニールパイプの芯が入っていて硬さと弾力が保たれていますから、手を放しても取っ手は、立った状態になります。鑑定によって、本件バッグには新聞紙があったことも証明されています。

 今回は概略を述べることにします

 (1)道庁職員のS氏(男性)は、8時40分ころに、爆発地点に本件バッグとは明確に異なるバッグが置かれていたのを目撃しています。S氏の課は当日、隣のビルで講習会を開くことになっていたため、課員は早く出勤して、講習で使うテキストを運んだのです。S氏はテキストを両手に提げて1階に下り、4号エレベーターのすぐ横を通ったのですが、その時に、爆発地点に山形ではない、高さが均一な円筒形のバッグがあるのを目撃しています。取っ手は両方とも倒れて本体にくっつき、横面に垂れ下がっていました。新聞紙はありませんでした。布製の古ぼけたバッグで、色は薄い青色でした。調書にはイラストも書いてあります。全ての点で、別のバッグであることが明白です。本件バッグはこの時点では設置されていませんから、藤井氏が見たA男B男は犯人とは無関係です。

 (2)同課のI氏(男性。IT氏とは別人物)は、S氏の後から台車にテキストを載せて1階に降り、爆発地点へ向かって台車を押して行きました。その時間は8時40分過ぎから45分前のある時点です。彼は爆発地点に、バッグではない、高さが幅の4〜5倍もある縦長の黒い物体が壁に立てかけられているのを目撃しています。これが本件バッグでないことは明らかです。S氏が見たバッグは、その後すぐに持ち主によって持ち去られて、その後にI氏が見た縦長の物体が置かれたことも明白です。爆心地点は、邪魔にならない位置であり、物をちょっと置くのに都合の良い場所なのです。4階エレベーターの北側には、もうエレベーターはありません。

 (3)同課のO氏(女性)も、手にテキストを提げて運んでいます。彼女はS氏よりも早く、8時35分に課を出て、隣のビルと課を2,3往復しました。4号エレベーター前を4回〜6回通ったことになりますが、O氏は本件バッグも他の不審物も見ていません。最後に通った時間は、8時45分から50分の間です。この時間帯は、まだエレベーターホールは混んではいません。O氏の証言から、I氏が見た物体もその後、ほどなく持ち主に持ち去られて、何も置かれていないところをO氏が最後に通ったことになります。

 以上の証拠から、本件爆発物の設置は、「広い意味での出勤のピーク」が始まる8時50分以降であることが明瞭です。A男B男は犯人ではありえません。

 しかしながら2審判決は、検察官の最終弁論書の主張に沿い、しかも検察官でさえためらって、黙殺することにしたI氏の証言についても、次のようにでっち上げの評価と事実認定をしたのでした。すなわち、「僅か10分くらいの短時間に形状の似通ったバッグないしバッグらしきものが、4号エレベーター昇降口近くの同じ位置にかわるがわ置かれたとは考え難く、S、Iの両名が目撃したバッグないしバッグらしきものが、前記ITが目撃した爆発物入りの本件バッグであったことは、ほぼ間違いないものと認められる」と事実認定したのでした。I氏は「バッグではありません」と明確に証言したのです。

 この2審判決のS氏、I氏、O氏の証言の評価と事実認定が、誤っていることは、小学生にだって分かります。公正な証拠評価と事実認定ではなく、私を犯人にするための、「社会防衛」の観点からなされた判決であったわけです。

2010年9月11日記
大森勝久
第13回 S氏の別種のバッグの目撃証言と、それを故意にねじ曲げた検察官の主張と裁判所の事実認定 (2010年10月18日記)
  (1)第12回コラムの続きです。検察官は、私を犯人にするためには、目撃証人の藤井氏が見た「大森と非常によく似ている」(これは警察と検察による計画的な誘導によって、初めてもたらされた虚偽証言です)というA男とB男の2人連れが、犯人でなくてはならず、そのためには、A男が持っていたバッグが本件のバッグであり(中に消火器爆弾が入ってる。Aは手ぶらで道庁から出てきたので、バッグは道庁内に置かれたことになる)、道庁職員のS氏が4号エレベーターの横で見たバッグが本件バッグであったのだ、という筋立てをつくったのでした。裁判官も「社会防衛」の観点から、証拠をねじ曲げて、そのように事実認定したのでした。

 (2)本件バッグの形状は12回コラムで述べたとうりですので、まず参照してください。12回コラムでは、S氏が目撃したバッグは本件バッグとはあらゆる点で異なっていることを書きましたが、本コラムではそれを補足していきます。あわせて読んでいいただければと思います。

 S氏の証言をまとめますと、S氏はテキストを15冊づつ束ねたものを左右に1束づつ提げて、西側の3号エレベーターで1階に降りました。エレベーターは西側に1〜4号の4基、東側に5〜8号の4基があります。S氏はエレベーターを出ると、北側の4号エレベーターへ向かって歩き出したわけですが、人はいなくて、4号エレベーターの北側の壁際に、バッグが置かれているのに気づきました。2〜3m前から気づき、S氏は、進行方向ですので、バッグを見ながら歩いていきました。提げたテキストがバッグの上部に当たらないか気になったので、バッグはよく見たといいます。S氏はそこを通り過ぎると、すぐ左折して西玄関から出て、隣の講習会場のビルへ向かったのでした。

 S氏が見たバッグには新聞紙は差し込まれてなくて、バッグの形は、側面から見るとやや横に広い円柱形であり、取っ手は2本とも倒れて側面に垂れ下がっていました。しかし本件バッグの取っ手は立っていました。S氏が見たバッグの色はジーパンの色があせたような色で、薄い色でした。しかし本件バッグは濃紺です。S氏が見たバッグは、布製の古ぼけたバッグでした。しかし本件バッグは、1975年3月から販売開始になった新しいものです。1年も経っていませんから、古ぼけたバッグにはなりませんし、犯人が古ぼけたバッグを使うはずもありません。S氏が見たバッグが別種のバッグであることは明白です。

 S氏は法廷で検察官から、本件バッグと同じバッグを示されて、「特にこの点が似ているとか何とかということはありませんか」と誘導されたのですが、「ありません」と答えています。弁護人が、S氏が検察官調書の中で描いたバッグのイラストと形が似た、円筒形のバッグを示して尋ねると、「形はこっちの方が似ていると思いますけど」と証言しています。本件バッグは、正面から見ると山形であり、側面から見ると縦長の台形ですが、S氏がイラストに描いたバッグは、正面から見ると高さが均一であり、側面から見ると、やや横に広い円形で、バッグの種類が全く異なっているのです。

 さらにS氏は、事件後1週間位して、本件バッグと同一のバッグのカラー写真が道庁に貼り出されて、それを見たときのことを、法廷で検察官から質問されると、自分が見たバッグは、古さや形状が異なっていたと思ったことを、明確に証言したのでした。S氏は法廷で、本件バッグと同一のバッグを示されると、色と新しさについては、自分が見たバッグは色はそれよりも更に薄く、「そんな新しくないんです。見たやつは」と証言しました。

 S氏が8時40分ころに見たバッグが、本件バッグでないことは明白です。従ってそれ以前に出入りしたA男B男は、犯人ではありえません。

 (3)しかし検察官は筋立てを強引に維持したのでした。検察官は2審の最終弁論で、「両者(爆発直前に目撃したIT氏とS氏のこと)の目撃したバッグの形状等には、なるほど若干の差異はあるが、別のバッグとするに足るものではないと認められる。両者の目撃位置、角度、距離、明暗等の客観的条件及び両者の観察力、 記銘力等の主観的条件の差異によるものと認められ」る、と主張したのでした。そして「バッグ2個が、同じ場所に入れ替わりに置き替えられるというようなことは、更に不自然なことであ」るから、S氏が見たバッグとIT氏が見たバッグは同一の本件バッグである、と主張したのでした。

 IT氏は「2、3歩歩く間に」「チラッと見ただけですから」と、検察官調書で供述しています。しかもバッグから離れていくように歩いています。S氏の方が長い時間、かつよく見ているのですから、上記の強弁がごまかすためにするものであることは明らかです。更にS氏は4月23日付の警察官調書では、「バッグの側面には黒い線で書き入れた(縫い入れた)、生地がすれて薄くなった絵柄がありました」と供述していたのです。絵柄のついたバッグのイラストも描いています。もちろん、本件バッグには絵柄は付いていません。S氏がよく見ていたことの証左です。

 (4)検察官は、11月1日にS氏の調書をとっていますが(私の逮捕は8月10日です)、この絵柄のことは調書には書いていません。S氏は供述したのでしょうが、不都合なので記載しなかったのです。だから、S氏が検察官調書に描いたバッグのイラストにも絵柄はありません。検察官は自ら不利になるS氏の4月の警察官調書を開示しませんでした。それは、私たちの要求により、裁判所の開示命令によって、2審になって初めて開示されたのです。

 S氏は2審において、絵柄の有無に関し、弁護人の質問に対して、絵柄が付いている4月23日の警察官調書のイラストの方が正確だと思います、と証言しました。S氏が見たバッグは本件バッグではありませんでした。

 しかし検察官は(3)のように強弁したのです。検察官は、この最終弁論において、S氏の後に1階に降りて、「4号エレベーターの北側の壁の所には、バッグではない縦長の黒い物体が置かれていた(既にS氏が見たバッグは持ち主によって持ち去られてた)」と証言したI氏の証言は、完全に黙殺してしまいました(12回コラム参照)。

 (5)「郵便不正事件」では、大阪地検特捜部の前田主任検事が、FDを改ざんしたという証拠隠滅容疑で逮捕・起訴されました。大坪部長と佐賀副部長が、犯人(前田検事)隠避容疑で逮捕されています。

 (6)私の事件の捜査と裁判についても、関心を持って見ていただけたら幸いです。検察官が不利な証拠を開示しないことも、証拠隠滅に準じます。また検察官が不利な証拠を故意に黙殺したり、正反対にねじ曲げて解釈して主張するのも、証拠の改ざん(隠滅)に準ずるものです。こうしたことはしばしば行われています。

 そして、それをチェックすべき裁判所が、しばしば検察官の主張を丸呑みしてしまいます。私の裁判では、検察官を上回る大胆さででっち上げの事実認定をしていきました(12回コラム参照)。


2010年10月18日記
大森勝久
(追記)

 大坪部長と佐賀副部長は、その後起訴されています。

(お詫び)

 11月12日付で訂正してもらいますが、私は「北」と「南」を勘違いして逆に書いてしまっていました。それ以前に読んで下さった方で、疑問に思われた方もいらっしゃることでしょう。すみませんでした。3号エレベーターの北側に4号エレベーターがあり、4号エレベーターの北側の壁際に、バッグや黒い物体が置かれていたのです。

(11月10日記、大森)
第14回 I氏の証言(「バッグではない縦長の物体を見た」)をねじ曲げた2審判決  (2010年11月15日記)
  (1)道庁職員のI氏は、S氏の後から1階のエレベーターホールを通り、爆発地点に「バッグではない縦長の黒い物体」が壁に立てかけられているのを目撃しています。その付近にはそれ以外のものはありませんでした。S氏が8時40分頃に見た本件バッグとは全く異なる別の種類のバッグは、持ち主によって持ち去られて、次には縦長の物体が置かれて、それをI氏が目撃したことになります。I氏は「バッグではない」と言っていますから、本件バッグは、その後に設置されたわけです。S氏やI氏よりも前に道庁に出入りしたA男B男の2人連れは犯人ではありません。

 (2)だから検察官は、I氏を証人申請することはせず、隠しました。I氏の供述調書も隠しました。I氏は、弁護人が道庁の聞き込みで探し出したのです。2審で私たちが証人申請したのでした。
 
(3)I氏の証言をもう少し詳しく説明します。課員は8時40分ころに課の部屋を出たのですが、I氏は、テキストの束を山積みにした台車(手押し車)を3人で押して運ぶ係であったため、どうしても一番遅れて1階のエレベーターホールに降りることになりました。係長が後ろから押し、I氏ともう1人が左右両側からテキストが崩れないように支えながら進むからです。

 (4)I氏たちは、西側(1号〜4号)、東側(5号〜8号)とあるエレベーターのうち、東側の5号か6号エレベーターで1階に降りました。爆発地点は西側4号エレベーターの北側の東向きの壁の端(壁の角)です。I氏たちは、エレベーターホールの南東から北西に向かって斜めに進み、4号エレベーター北側の東向の壁の角のすぐ近くを通って、西玄関から出て、講習会場へ向かいました。

 (5)I氏は台車の左側でテキストを支えたわけですが、エレベーターホールの真ん中頃で、4号エレベーター北側の東向きの壁の角の所に、縦長の黒い物体が壁に立てかけられているのに気付きました。そして物体から3〜4mの所に来たときに、このまま進むとその物体にぶつかるのではないかと思い、台車の方向を少し変えようと思い、テキストを向こう側へ押しています。テキストが動いただけでしたが、ぶつかることもなく横を通り抜けられました。このようなわけで、I氏はその物体をちゃんと見ているのです。「ちらちらと、その物体に対して視線はいっていると思います」と証言していました。

 (6)その物体は、高さが1mくらい、幅は20pくらいで、縦の方が4倍も5倍も長い物体です。I氏は法廷で物体の図を描いています。黒い物体ですが、I氏は点点をいっぱい付けて描いています。その点は、「白いものがきらきらしていた」「なんか模様的な感じは受けました」「光っていたということは記憶にあります」と証言していました。

 本件のバッグと同一のバッグを示されると、I氏は「ちがう。そんな小さいような感じではないですね」と言っています。見たものは横長ではなく、縦長なのですが、「そのバッグを縦にして置いた感じとは全くちがいますか」と聞かれると、「そんな小さなもんじゃないです」と証言しました。

 I氏は裁判官の質問にも、「そういうカバンだとかなんだとかっていう感じは、ひとつも受けませんでした。ただ、そういう長い物体になんか布かなんか巻いてすね、そういう物が立てかけてあった」と答えています。さらに弁護人の質問に、「バッグなら、すぐわかると思うんですよね」と、バッグではない、縦長の物体であることを明確に証言しました。

 (7)ところが2審判決は、I氏が見た物を、「バッグのような物」「バッグらしい物」「バッグらしき物」と記しているのです。意図的なねじ曲げです。

 A男B男を犯人にするためには、I氏が見た物は本件バッグでなくてはならない、というわけです。これが「正しい証拠の評価」ではないことは火を見るよりも明らかです。
 
2010年11月15日記
大森勝久
            
第15回 8時45分〜50分頃、本件バッグはまだ設置されていなかった ー 道庁職員O氏の証言について(2010年12月3日記)
 (1) 2審判決は、「私が見たバッグは本件バッグではない」という道庁職員S氏の証言と、「私の見たものはバッグ類ではなく、縦長の物体である」という道庁職員I氏の証言を、意図的に否定して、「両者が目撃したものは本件バッグである」と事実認定したのでした。

 (2) 目撃証人藤井氏は、北海道庁に面した西側の道(南北に走る)を、北から南に向かって歩いている時に、バッグを持ったA男ともう1人のB男の2人連れが、西玄関から道庁内へ入っていくのを目撃しました。彼は道を間違えたことに気付いて引き返してくるのですが、その際に、A男B男の2人連れが手ぶらで道庁の西玄関から出てくるのを見ています。そして道路に出る西門のところですれ違っています。藤井氏は検察官の尋問に、「被告人はA男と非常によく似ています。同一人物だと思う」と証言したのですが、私たちの反対尋問を受けると、単に「似ている」というレベルに証言を後退させ、「あなたと特定していないですよ、私は」「似ているということと、あなただということは、これ違いますから」と、大後退せざるをえませんでした。

 (3) 藤井証言が全くの虚偽であることは、また後で明らかにしていくことにします。2審判決は、藤井証言を救済し、同証言を利用して私を有罪にするために、S氏とI氏の証言を意識的に否定し、かつ捏造して、「2人が見たものは本件バッグであった」と事実認定したわけです。そうすることで、A男B男を犯人にでっち上げ、山平鑑定等と総合して、A男は大森だとしていったのでした。裁判所は「社会防衛」の観点から、法と証拠をねじ曲げて上のように事実認定したのでした。

 (4) I氏の後に、西側の4号エレベーター前を通った人がいます。S氏やI氏と同じ課のO氏(女性)であり、掃除婦のM氏です。2人は8時45分から8時50分位の間にエレベーターホールを横切り、4号エレベーター前を通っていますが、その前の床にバッグ他が置かれているのを、「見ていない」(置かれていなかった)と証言しています。I氏が見た縦長の物体も、直ぐに持ち主が持ち去ったのでした。M氏の証言は次回に書くことにして、今回はO氏の証言です。

 (5) O氏は3月2日は、講習会(同庁の北側の自治会館が会場)があるために、いつもよりずっと早く8時30分ちょうどに東玄関から登庁し、急行の西側エレベーター(西側は上りも下りも、1階から7階までがノンストップの急行。東側エレベーターは各階に止まる)で自分の課(8階か9階にあった)へ行き、みんなより一足先に8時35分にテキストを提げて課を出て、西側エレベーターで1階に降り、東玄関から出て自治会館へ向かいました。彼女はテキストを置くと再び、今度は西玄関から道庁へ入り、西側エレベーターで自分の課へ行って、またテキストを持って西側エレベーター、西玄関のルートで運んでいます。2回〜3回往復したと証言しました。だから2回目と3回目は、まさしく4号エレベーター前(北側の東向きの壁際)の爆発地点の真ん前を横切っています。

 O氏は、往復に要する時間は長くて4〜5分であり、運び終わってから10分位して爆発音(9時2分に爆発)を聞いたと証言しましたから、彼女が最後に4号エレベーター前を通った時間は、8時45分から50分位です。その時のエレベーターホールの様子について、O氏は「そんなに人多くないですけど」「(エレベーター待ちしている人をよけて通るとかそういうような)状況ではなかったと思います」と証言し、「荷物を持ってそのまま エレベーターに沿って歩ける状態なわけですね」の問いに、「はい」と答えています。O氏はこのとき、4号エレベーター前で何も見ていません。

 彼女は職場の出勤のピーク時は「9時ころからだと思います」と述べ、「普段の自分の出勤は9時過ぎである」と証言しています。S氏も8時40分頃にエレベーターホールに降りたとき、「そこに人はいなかった。隣の玄関ホールにはお客さんが2,3人いたと思う」と証言しています。また「普段は9時少し前位に出勤しており、他の職員もそのぐらいに来ていた」と、証言していました。

 O氏は登庁時を含めて4回ないし6回、4号エレベーターの前を通っていますが、バッグ他を見ていません。S氏が見た別種類の古ぼけたバッグも、I氏が見た物体も、持ち主がすぐ持ち去っていたわけです。

 (6) しかし2審判決は、「本件バッグが有っても、必ず気づくとは言えない」と言って、O氏の証言を否定し去ったのでした。

2010年12月3日記
大森勝久

ちょっと見えにくいのですが、爆発現場の位置(見取り図)です。2つとも同じ現場ですが、左側は東を上に、右側は北を上にしたものです。

          


 道庁は南北に長い建物です。エレベーターホールは、建物の(東西方向から見て)中央にありまして、西側に4基(1号〜4号)、東側に4基(5号〜8号)が向かい合う形で並んでいます。西側エレベーターは東を向いています。南から北へ向かって1号〜4号と並んでいます。4号エレベーター前(北側の東向きの壁際)が爆発地点です。東側エレベーターは西を向いていて、南から北へ向かって5号〜8号が並んでいます。

 エレベーターホールに続いて北側が玄関ホールになっていて、すぐ東玄関と西玄関があります。西玄関を出ると、道庁の敷地(駐車場等)があり、次に道庁に平行に南北の通りがあります。この歩道を目撃証人・藤井氏は歩きました。道庁の北側には東西に走る通りがあり、2本の道の交差点の近く(北東側)に、講習会場の自治会館があります。実は藤井氏も前日に宿泊したこの自治会館から出て、前記の歩道を歩いていったのでした。

 メモ用紙にでも略図を描いていただければ、S氏(第13回コラム)、I氏(第14回コラム)そして今回のO氏の歩行ルートは、お分かりになると思います。

(大森勝久)
 
                              
新年のご挨拶 (2011年 元旦)
謹んで新春の御挨拶を申し上げます。コラム等を読んでいただきまして、ありがとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。






 ホームページのアクセス数等について
 
 このコラムを開始してから、1年余りが経ちました。11月のアクセス数は、1日平均6.4人でした。私の保守主義の立場からの政治的な文章を、掲載していただいている別のホ―ムページ・「大森勝久評論集」の11月のアクセス数は、1日平均19.7人でした。こちらの方も、月に1つの文を掲載していただいています。

 ただし、「評論集」のアクセスカウンターのシステムは、本ホームページとは異なっています。初めて訪れる方はいくつかの文章をクリックされると思いますが、たとえば、続けて4つの文章(ファイル)をクリックされた場合、最初のアクセスと合わせてアクセス数は5となります。しかし本ホームページでは1のままです。閉じてから1時間以上経って再び操作したときに、増えていくだけです。

 初めての方もいらっしゃいますから、「評論集」の19.7人が、実数では何人になるのか分かりません。ただ「評論集」の読者は、本ホームページも見て下さっているでしょうから、本ホームページの1日の読者6.4人の大部分は、「評論集」の読者と重なっていることでしょう。


 ホームページの目的
 
 本ホームページの目的は、思想を問わず、多くの心ある方々に、道庁爆破裁判では、捜査機関によって主要証拠がことごとく捏造されたこと、裁判所までも「社会防衛」の観点から、「証拠の信用力と証明力」の評価と事実の認定を、故意にねじ曲げてしまったこと(先に結論があった)、そのようにして出された有罪死刑判決であることを、お伝えしていくだと思っています。また再審請求裁判の中で、私たちは「無罪を明らかにする」「あたらしい証拠」をいくつも提出してきたことを、お伝えしていくことだと考えています。

 私はそのことが、刑執行の抑止力になるのだと考えています。
 
 私は「大森勝久評論集」で、民主党政権を、法(憲法)と道徳を破壊する、左翼反日反米政権であり、日本の侵略・占領・植民地支配を狙っている中国とロシアの尖兵である、と批判を続けてまいりました。日本の安全と存続のためには、一日も早く民主党政権を打倒すべきだ、と訴えてまいりました。もちろん、日本併呑を狙う中国、ロシアへの批判も一貫して行ってまいりました。

 民主党政権は、中国に拝跪し、日本の法を否定して、検察庁に命じて、衝突攻撃をした中国人船長(中国人軍人)を釈放したり、衝突攻撃ビデオを隠すという、国家叛逆の犯罪行為を平然と行う反日政権です。ですから民主党政権が、私の言論活動を封じるために、強引に死刑を執行してくることは考えられることです。
 
 私はそれを抑止するために、本ホームページの毎月のコラムを活用していきたいと思っています。

 最後になりましたが、皆様のご健勝とご健闘をお祈り申し上げます。


平成23年元旦
大森勝久
第16回 掃除婦M氏は8時45分頃から50分にかけて、本件バッグを見ていない(2011年1月15日記)
 (1)今回は、事件当日(3月2日)、道庁1階の掃除をした掃除婦M氏の公判証言や調書の供述によって、8時45分頃から8時50分の時点では、まだ本件バッグ(その中に消火器爆弾が入っている)は西側4号エレベーター前に設置されていなかったことを述べていきます。8時40分より前に道庁に出入りしたA男B男は犯人ではないのです。

  M氏は、3月12日に警察官に事情を聞かれて調書をつくっています。また私の逮捕(8月10日=爆取3条違反容疑の逮捕。9月1日=道庁爆破容疑の逮捕)後の9月20日には、検察官に調書をとられています。

  (2)私の逮捕後に、検察が描いた「事件の構図」(証拠全体から合理的に導き出されてくるものではなく、検察が主観的に望むものが、これです)は、A男B男を目撃した藤井昭作氏の供述(これ自体も警察、検察が誘導し強要したもの)を基準にしたものでした。「A男B男が犯人であり、2人が道庁に入って行った8時20分頃が設置時間であり、A男は大森である」。これが事件の構図でした。

  (3)1審判決は、まさにこの通りに事実認定したものです。裁判官というのはほとんどは、残念ながら、検察官の主張をそのまま無批判的に受容していくだけなのが現実なのです。人がほとんど、あるいはぽつぽつとしか出勤してこない時間帯(8時20分から8時45分頃)に、バッグがずっと4号エレベーター前に置かれたままであれば、目立ちますから、不審物として守衛室に届けられてしまうのは明らかです。

  (4)検察のこの「構図」からすると、M氏の3月12日の警察官調書の内容は受け入れることができないものです。なぜならば、8時30分以降も本件バッグは設置されていませんでした、と供述されているからです。そのため検察官は、9月20日にM氏から調書をとった際、供述を変えさせていきました。

  すなわち、検察官は3月12日付調書にある、〈8時30分ちょっと過ぎ頃に4号エレベーター前を往復しましたが、バッグはなかったはずです〉を、まず無くしてしまいました。そして、〈最後に8時45分頃から50分にかけて、4号エレベーター前を3度にわたって通った時は、ちょうどこの日はアルバイトの人がたまたま休んだために、2人だけで掃除をしたので、掃除が遅れていたため、「すごく急いで仕事をしていたために、他のものに目をやる余裕は全くありませんでした」〉、という供述に変えてしまったのです。つまり、本件バッグは設置されていたが、M氏は眼をやる余裕がなかったために、気付かなかっただけである、というわけです。

  検察官(や警察官)にとっては、このように供述を変えさせてしまうことは容易なことなのです。3月12日付調書には、アルバイトが休んだということは全く出てきていません。

  (5)M氏は1審公判で、検察官調書に沿った証言をしたのですが、しかし私たちの反対尋問によって、事件直後の警察官の事情聴取において、8時50分頃までは不審なバッグは見ていないと話したことを、証言したのでした。

  M氏はまた、道庁の守衛から、不審なものがあったらすぐに守衛室に報告するようにと常に言われていたとも証言しました。それは前年の7月中旬に、道庁の南に隣接する北海道警察本部3階の警備部前の廊下で、時限爆弾テロがあったからでした。

  (6)M氏の3月12日付警察官調書には、最後に4号エレベーター前を通った時について、「この時も玄関ホール灰皿付近やエレベーターの灰皿付近、さらに西側エレベーター前付近にも、私の記憶では、何も置かれていなかったと思います」(11項)と、明確に述べられています。8時30分ちょっと過ぎ頃に4号エレベーター前を往復した時にも、「物は置かれてなかったはずです」(10項)と、供述されています。

  M氏はまた「物が置かれていれば判ると思います。というのは、私は掃除婦といった仕事柄、床に置かれている物があれば、それがゴミやかばん等であっても気がついているはずです。かばん等、落とし物と思われる物については、すぐに守衛室に、さわらず届けるようにと耳が痛くなるほどいわれているのです」(7項)と、供述しています。この3月12日付調書は、2審において、「供述経過を立証する証拠」(弁側証拠)として採用されました。

  (7)M氏は8時45分頃から50分にかけて、西側の4号エレベーター前を3度通っています。1回目は、エレベーターホールの北側にある玄関ホールの方から、手押しのダストカートを押しながら、エレベーターホールの西側寄りを北から南へと通っています。そしてその更に南にある業務用エレベーター前にダストカートを置いたのでした。2回目は、手ぶらで同じルートを引き返して、4号エレベーター前を通って玄関ホールへ戻ります。そして3回目は、玄関ホールにあるスタンド式灰皿の掃除をして、再びエレベーターホールへ戻ってきて、西側の2号と3号エレベーターの間の壁際にあるスタンド式の灰皿の掃除をし、このときその上にある時計を見たら8時50分でした。次に東側の6号と7号の間にあるスタンド式灰皿の掃除をして、ダストカートが置いてある方へ行っています(M氏の9月20日付調書)。

  (8)M氏が8時45分から50分にかけて、3度、4号エレベーター前を通った時にも、本件バッグはまだ設置されていなかったのです。設置は、出勤のピーク(広い意味での)が始まっていく8時50分以降です。しかし2審判決も、M氏の証言と調書供述も無視して、8時40分以前に道庁に出入りしたA男B男が犯人だと認定したのでした。これが事実誤認であることは明白です。私を犯人にする、「ためにする判決」でした。


2011年1月15日記
大森勝久
                  北海道庁エレベーターホール付近の見取り図
      
第17回 犯人の立場から考える設置時間ーA男B男は犯人ではない(2011年2月9日記)
 (1)これまでのまとめ
 1審判決は、藤井昭作氏が目撃したA男B男の2人連れを犯人だとし、A男を私だとしました。爆発物の設置時間は8時20分ころだと認定しました。2審判決は設置時間を、8時20分ころから8時40分ころまでの時間帯で、この時間帯の後半の可能性が強い、と修正して認定しました。爆発物を収納した本件バッグのポケットには、新聞紙が20センチ位見える形で差し込まれていました。

  しかし道庁職員のS氏の証言とイラストによって、8時40分ころ爆発地点には、新聞紙も差し込まれていない、形状も色も材質も甚だしく異なる、全く別種類の、しかも使い古したバッグが置かれていました。A男B男は犯人でないことが明らかです。同課のI氏は、S氏の数分後に爆発地点のすぐ近くを通りましたが、もうそのバッグはなく、縦が横の4倍から5倍もある縦長の黒い物体(バッグ類ではない)が置かれていました。その後に同課のO氏が通りましたが(8時45分から50分位の間)、縦長の物体も無くなっていました。また同じ時間帯に、爆発地点前を3度通った掃除婦のM氏も、バッグ等は無かったと証言しました。

  以上から、本件爆発物の設置は8時50分以降であり、A男B男は事件とは全く関係がないこと、藤井昭作氏のA男は大森だとの証言も虚偽証言であることが明らかです。有罪判決の「証拠構造」は、「製造」の点だけでなく、「設置」の点でも崩壊しているのです。

  (2)犯人の立場から考える設置時間
 犯人の立場に立って考えてみることが不可欠です。すなわち犯人からすれば、(ア)まず爆発物(バッグに入っている)を職員等に「不審物だ」として発見されないようにすること、(イ)仮に発見されても、職員を避難させたり、「不爆処理」されたりする時間的余裕を与えないようにすること、つまり爆発するようにすること、(ウ)犯人自らの安全性を確保すること、(エ)爆発時に道庁からしかるべき距離に離れているようにすることで、怪しまれないようにすること、(オ)道庁への出入り(設置を含む)で、他人の記憶に残らないようにすることが、設置する際の条件になります。

  トラベルウォッチの時限装置は正確であり、誤差を考えてもプラス、マイナス30秒程度です。道庁は人通りの多い街の中にあり、道も多いから5分(300メートル)もあれば、十分だとなります。だから、(ウ)と(エ)では5分あればよいことになります。9時02分が爆発時間ですので、5分とすれば、8時57分少し前に道庁に入り、エレベーターを待つふりして、バッグを床に置いて、すぐに離れればよいことになります。この時間帯は後述するように、出勤者でいっぱいですから、他人の記憶に残りませんし(オ)、床にバッグがあっても側に人が居ますから、誰かがちょっと置いたのだろうと考えて、不審物とは思わないでしょう。また、みんなエレベーターの方に気をとられているでしょう(ア)。仮に「不審物だ」と思う人がいても、守衛室にその旨を伝えに行ったとしても、(イ)のための時間的余裕はほとんどないでしょう。

  犯人は(ア)から(オ)の条件を満たすために、できるだけ爆発時間に接近した8時55分ころから57分ころに、多くの出勤者に紛れて出入りした(設置した)のだと考えるのが自然であり、合理的です。

  本件のバッグを目撃した人は、3500人いる道庁職員の中で、第12回コラムで書きましたIT氏(被害者)ただ1人であったことが、このことを裏付けています。8時40分以前から設置されていれば、何十人もの人が目撃していることでしょう。

  (3)道庁職員の出勤状況および来庁者の状況
 副守衛長N氏は、「3月初めころだと、9時ちょっと過ぎくらいが出勤者が一番多い」と証言しました。前記した職員O氏(女性)は、「出勤のピークは9時ころからだと思う。自分の普段の出勤時間は9時過ぎである」と証言しています。また「8時40分とか45分はまだ(広い意味での)ピークになっていない」とも証言しました。

  3月2日の事件当日の状況ですが、O氏は「8時30分に登庁した時は、玄関ホールに1人、2人いたかも知れないという程度で、非常に少なかった。エレベーターを待っている人はいなかった」と証言しています。前出のS氏は、テキストを持って8時40分ころに1階に降りたときのことを、「エレベーターホールに人はいなかった。玄関ホールにはお客さんが2、3人いたと思う」と証言しました。S氏の数分後に台車にテキストを積んでエレベーターホールを横切って行ったI氏は、「縦長の物体の近くに人はいなかった。玄関ホールには結構人がいた」と証言しました。O氏は8時45分から50分ころに最後のテキストを運びましたが、そのときのエレベーターホールの状況について、「人はいましたがそんなに多くはなかった。エレベーター待ちをしている人をよけて通るという状況ではなかった」と証言しました。

  前出のI氏は、課に置いてあるコートと鞄を取って、8時55分かちょっと過ぎたころに、エレベーターホールを通って講習会場の自治会館へ向かいましたが、「そのときエレベーターにはかなりの人がおりました」と証言しています。
  
  広い意味での出勤のピークは8時50分頃からであり、時間とともに増えていき、9時ちょっと過ぎ頃が一番のピークになっていたのです。

  職員や来庁者が少ない時間帯に道庁に出入りすれば、他人の記憶に残り易くなります。それに、バッグがずっと置かれっぱなしであれば、その周りに人は居ないのですから、「不審物」として守衛室に連絡されてしまいます。対応するための時間的余裕も多くなります。守衛長のY氏は、「道庁職員に廊下とかホールには一切物を置かせないように、注意をしていた」「外来者が廊下等に荷物を置いたときに、それを発見した道庁職員が不審物として守衛に通報してくることもしばしばあった」と証言していました。
  
  犯人がこのようなまずい方法は採らないことは明白です。なによりも、8時50分ころまで本件バッグは設置されていなかったことは、前出の各証人の証言等で証明されています。

  (4)2審判決のでっち上げ認定
 しかし裁判所は、私を有罪にするために、これらの証言を意識的に排斥していったのでした。本人が「本件バッグではない」と証言しているのに、S氏とI氏が見たものは「本件バッグ」だとでっち上げ認定したのでした。

2011年2月9日記
大森勝久
                      
                             (参考) 「北海道庁エレベーターホール付近の見取り図」
             
第18回 S氏、I氏が見たバッグや物体は電気工事事業関係者のもの(2011年3月6日記)
 (1)I氏の証言ー「エレベーターの修繕をしている人だと思った」
  I氏は8時30分を2、3分過ぎたころに登庁したとき、4号エレベーター前にしゃがんでいる2人の男がいるのを目撃しています。そしてI氏は、「エレベーターの修繕をしているのではないかと感じた」と証言しています。その根拠を次のように証言しました。要約していきます。
  
  (ア)2人は4号エレベーターの扉の前にしゃがみこんでいました。(イ)2人はレインコートを着ていて長髪であり、服装や髪から道庁職員という感じは全然受けませんでした。(ウ)ちょうど4号エレベーターの向かい側の8号エレベーターの扉が開いたので、自分はそれに乗り、正面(4号エレベータ)を向いたとき、4号エレベーターの扉も開いたのです。2人は立ちあがったけど、全然乗らなかったのです。(エ)その4号エレベーターは過去にも何回か故障したことがあったのです。
  
  I氏はこのように証言しています。職員や一般の外来者であれば、邪魔になりますから、エレベーターの扉の前にしゃがみこむことはありえません。乗るつもりならば、扉が開けば乗りますが、2人には乗る意思がなかった。だから2人は、その風体と4号エレベーターは過去にも何回か故障したことがあったことから、電気工事事業関係者であって、その場にしゃがんで、工具類とか材料とかをいじっていたと考えられます。I氏からは、体やコートに隠れて工具類等は見えなかったということでしょう。

  (2)S氏の証言ー「電気工事屋さんのバッグだと思った」
 S氏は8時40分ころに見たバッグについて、「電気工事屋さんが、パイプとか工具セットとか、そういうものを入れておくバッグだと思った」と証言しているのです。S氏は「バッグの下の方が突っぱっていた」と証言していますが、それについても、「直径1pくらいの長いパイプが沢山入っていて、それで突っぱっていると思った」と述べています。

  しかもそのバッグは、S氏によれば「相当使い古したバッグで」「生地が古くなり、色が薄くなっていたバッグ」であったのです。
  
  職員や一般来庁者が、このようなバッグを持ってくることは、まず考えられません。I氏とS氏の証言を総合すれば、このバッグは電気工事事業者が、工具や材料等を入れて使っているバッグであったと考えるのが合理的です。

  (3)I氏が見た縦長の黒い物体も電気工事事業関係者のもの
 I氏がS氏の数分後(2,3分後)に見た縦長の黒い物体も、電気工事事業関係者のもの(材料)だと考えれば、全て合理的に説明が付きます。

  その縦長の物体は、I氏とって見慣れないものでした。そのようなものを、職員や一般来庁者が持ち込むことは考えられません。電気工事事業関係者のものだと考えるのが合理的です。3月2日のその時間帯、電気工事事業関係者が何らかの作業をしていたのです。

  4号エレベーターの北側の東向きの壁の北の端辺りは、物を置いても邪魔になりません。8時40分頃や40数分頃は、まだ道庁職員はほんの少ししか出勤してきていません。だから電気工事事業関係者が、その場所に工事に使うものをかわるがわる置いて、一時その場を離れることは別段珍しいことではありません。

  関係者が古ぼけたバッグを置いて一時その場を離れた時に、S氏が通って目撃したのです。その後、関係者が古ぼけたバッグを持ち去り、縦長の黒い物体を立て掛けて一時その場を離れたときに、I氏が通ってそれを目撃したわけです。その後その物体も持ち去られて、何も置かれていない所を、O氏や掃除婦のM氏が通ったのです(8時45分から50分の間)。職員の出勤者もだんだん増えてくるので、それ以降は置かれなかった、あるいは修繕が終了した、ということでしょう。

  (4)2審裁判所の意図的な証拠無視の判決
 裁判所は、以上の証拠と前回までに述べてきた証拠を無視して、「数分という短い時間に別異の物が、かわるがわるほとんど同じ場所に置かれたことは考え難い」と判示して、S氏が見たバッグも、I氏が見た縦長の物体も、「本件バッグであったことは、ほぼ間違いないものと認められる」と結論づけたのでした。だから、A男B男が犯人であるとしました。I氏は一貫して「物体」との表現を使い、「バッグ類ではない」と強調して証言していたのにです。
  
  こういう証拠の無視や証拠のでっち上げ評価に基づいた「事実認定」が、本裁判の実態でした。


2011年3月6日記
大森勝久
  (参考) 「北海道庁エレベーターホール付近の見取り図」はこちら


          目撃されたバッグ類と縦長の物体のイラストについては、下図をご参照ください。

          
第19回 捏造された目撃証言(2011年4月17日記)
● 東日本大震災で被災された方々に心からお見舞い申し上げます  この度の東日本大震災で亡くなられた方々に対して、心から哀悼の意を表します。被災された方々に対して、心からお見舞いを申し上げます。


 関東に住む友人が、自宅庭に咲いた桜の写真送ってくれました。蒼空の中に美しく咲いている桜に、心を打たれました。桜前線は、福島県、宮城県、岩手県と北上を続けていき、きっとその土地の人々に希望と勇気を与えてくれたことでしょう。

● 警察・検察によって作り上げられた虚偽の目撃証言
 普通どうりに、このコラムは書いていくことにいたします。これから何回かに分けて、藤井昭作氏の目撃証言が警察と検察による強要によって作り上げられた虚偽のものであることを明らかにしていきます。

  今回は概略を述べます。藤井氏は根室で会社を経営している人です。仕事で札幌に出張してきていて、北海道庁爆破事件があった3月2日の前々日から、道庁の隣の自治会館に宿泊し、3月2日朝に、帰りの飛行機のチケットを買っておこうと思って外出した際に、A男B男の2人連れを目撃したのでした。
  目撃状況の詳細は、別の回で書くことにします。

  (1) 彼は4月10日に根室において、道警本部のE警部から目撃状況について事情聴取を受けて、調書を作成しています。この時、同行した札幌中央署の女性が、藤井氏の協力によって、A男とB男の似顔絵(イラスト)を作成しました。A男1人のもの、B男1人のものと、2人連れのものの計3枚です。

  (2) この時のA男の身長や体格や髪形や顔の形などは、私とは別類型の人物ですし、人相も全く似ていません。道警はこのA男、B男一人づつのイラストを、検事による藤井氏の事情聴取が終了するまでは、検察庁へ送致しませんでした。イラストの説明文で、別人物だと判ってしまうためです。

  (3) 藤井氏は、4月12日道警釧路方面本部で、A男とB男のモンタージュ写真各1枚の作成に協力しています。A男のモンタージュ写真は私と全く異なっていました。この時、機械の一部が故障していたということで、4月16日札幌の道警本部で、再度モンタージュ写真(各1枚)を協力して作成しています。作成者はS警部です。

  釧路のものと札幌のものは、似たものになるはずなのに、全く別人物(別類型)になってしまっています。札幌のA男のモンタージュ写真は、8月10日に逮捕された私の被疑者写真をベースにして、修正して作ったものなのです。捏造です。つまり警察は、これを4月16日に作成したモンタージュ写真とスリ替えて、藤井氏に認めさせていったわけです。道警は、この釧路と札幌のA男B男の計4枚のモンタージュ写真を、公判の後の方になるまで検察庁に対して隠しつづけました。

  8月8日から9日にかけてT警部が、「総合捜査報告書」を作成しましたが、そこにはモンタージュ写真のことは全く出てきません。一目で私と似ていることがわかるモンタージュ写真なのに出てこないのは、8月8日の時点では存在していなくて、その後に捏造されたものだからです。

  (4) 道警は、岐阜県警からの「照会」によって、初めて私の存在を知りました。7月中旬です。そして7月20日頃から、私の内偵を開始しています。その頃に私の写真(運転免許証のもの)も手に入れています。ところが警察は、藤井氏のところへ私の写真のコピーを持って行って、尋ねてみるとか、彼を札幌に呼んで、直接私を見てもらう捜査は一切していません。私の逮捕は8月10日でしたが、警察は8月17日になるまで、一切藤井氏に連絡を取ることをしませんでした。

  なぜかと言いますと、警察はこれまでに書いてきました、「本件バッグの設置時間」に関する捜査から、藤井氏が目撃したA男B男は犯人ではないことを認識していたからです。

  (5) 警察が8月17日に藤井氏を札幌に呼びだしたのは、押収物の中に、直接犯人であることを証明する証拠が無かったために、A男B男は犯人でないことを知りながら、両名を犯人にして、藤井氏を犯人を目撃した証人に仕立て上げるためでした。当然藤井氏を誘導し、強要して、「大森は私が目撃したA男にそっくりだ」と供述させて、調書化するためでした。8月18日に、このでっち上げ調書を作成したのはST警視でした。


2011年4月17日記(5月19日一部訂正)
大森勝久
第20回 捏造されたモンタージュ写真(2011年5月16日記)
 ● 直接証拠(犯人の目撃証言)を捏造することにした道警
  前回に引き続きモンタージュ写真について書いていきます。北海道警察が1976年4月16日に、札幌で藤井氏の協力を得て作成したというA男のモンタージュ写真は、私の逮捕(8月10日)後に捏造されたものです。

  (1)私の投棄物や私のアパートの家宅捜索をしても、北海道庁爆破事件に直接結び付く証拠は見つかりませんでした。8月10日の逮捕は、豆電球、乾電池、消火器、セメントなどを所持していたという爆取3条違反容疑での逮捕です。証拠が揃わなければ、道庁爆破で再逮捕することはできません。

  それで道警は、これまで書いてきました「山平鑑定書」(火薬の主剤=除草剤の反応があったとする証拠)を捏造したり、家宅捜索の際に、旅行用時計のリン止めネジを私の部屋内に紛れ込ませて、証拠を捏造しました。本件爆破に使われた時限装置の旅行用時計は、リン止めネジが犯人の手元に残っていることが、捜査の中で判明していたからです。この捏造については、別の機会に詳述することにします。

  (2)火薬の主剤にしても、時計のリン止めネジにしても、「状況証拠」に過ぎません。犯行を直接証明できる「直接証拠」ではありません。そこで道警は、藤井昭作氏を犯人の目撃者に仕立て上げることにしたのです。犯人ではないA男B男の2人連れを、犯人にしてしまい、眼鏡をかけてバッグを提げていたA男を大森にすることにしたのでした。藤井氏をそのように誘導また強要して、調書を作り上げてしまうことにしたのでした。

  ● 藤井氏が目撃したA男の体格や人相は私と全く異なる
 (3)しかし、藤井氏は4月10日に調書を作り、またA男とB男のイラスト(似顔絵)を専門家によって作成してもらっています。藤井氏は「A男は自分(168p)と同じかやや大きめだったから、168〜169pで、きゃしゃな体格」「ほほがこけている」「角顔のかんじ」「目が細くてするどい」とA男の特徴を述べていました。そのようなイラストが作られています。

  これらは私とは全く異なっています。私は174.2p、73Kg位で、新聞でも一様に「がっちりした体格」と報じていました。ほほはこけてなく、角顔でもありません。人は、初対面の6pも高い人を間近で見れば、自分より随分高いと感じます。イラストの人相も、一見して私と異なることがわかります。道警はA男、B男一人づつのイラストを検察官に対しても隠し、検事による藤井氏の事情聴取が終わるまでは、検察庁へ送致しませんでした。A男が私でないことが分かってしまうためです。4月10日付調書についても隠して、後になってから送りました。

  (4)また藤井氏は、その2日後に釧路でA男とB男のモンタージュ写真を作っています。A男のモンタージュ写真は、実在するJ氏にそっくりになっています。きゃしゃな感じです。首も細い。しかしJ氏は藤井氏よりずっと低い身長です。藤井氏は調書を取った後に、警察官から「この男ではなかったのですか?」と要注意人物としてJ氏ら何人かの写真を見せられたために、A男の原記憶が、J氏と取って替ってしまったのだといえます。だから、その4日後の4月16日に、札幌で再度作成したA男のモンタージュ写真も、釧路のものとほぼ同じようなものになったはずです。

  釧路で作ったB男のモンタージュ写真は、要注意人物として写真を見せられたU氏にそっくりになっています。だから札幌で作ったB男のモンタージュ写真も、釧路のものとほぼ同じものになったはずです。

  (5)警察は釧路と札幌のA男とB男のモンタージュ写真については、必ず行うことになっている任意提出調書と領置調書を作成していません。写真を見せたことで、原記憶が変容して、J氏とU氏のそれに取って替ってしまったために、モンタージュ写真の証拠価値がないためです。4月10日に作成した3枚のイラストは、ちゃんとその日付けで任意提出調書と領置調書が作られています。

  (6)つまり藤井氏は、こうした経緯から、8月10日の私の逮捕時の映像や連日新聞に載った私の写真を見て、「自分が事件当日に目撃した男とは違うな」と思ったのは間違いないのです。ですから道警には、藤井氏をうまく誘導する、あるいは強要するための「材料」が必要になります。それで、私の被疑者写真(8月11日)をベースにして若干修正して、A男のモンタージュ写真を捏造していったのでした。それを、実際に4月16日に作成したA男のモンタージュ写真とスリ替えたのでした。

  また道警は、私の友人のD氏(7月2日、岐阜県内で警察の職務質問を受けて、持っていた除草剤を捨てて逃げて、毒物劇物取締法違反で全国指名手配された)の写真をベースにして若干修正して、B男のモンタージュ写真を捏造しました。それを、4月16日に作成したB男のモンタージュ写真とスリ替えたのでした。その後、D氏には道庁爆破事件当日のアリバイがあることが判明しました。

  ● A男モンタージュ写真(検1050番)は捏造ー道警は検察官に対しても隠した
 前回にもその根拠を書きましたが、さらに補足していきます。
  
  (1)このモンタージュ写真は私によく似ています。しかし、道警は私の内偵(7月20日頃から開始)をしましたが、私に道庁爆破の容疑をかけたのは、私の投棄物を拾った8月7日以降でした。8月6日までは、私は「D氏の立ち回り先」と見られていただけでした。つまり4月16日に作成されたのではありません。

  (2)このモンタージュ写真には、4月16日付の任意提出調書も領置調書もありません。

  (3)8月10日の爆取3条違反容疑の逮捕状請求の資料にも入っていませんし、道庁爆破の逮捕状請求資料の中にも入っていません。

  (4)真正なものであれば、道警は自らの捜査を誇って、私の逮捕時の記者会見で、このモンタージュ写真を示して当然のところです。でも、そんなことはありませんでした。

  (5)道警は8月17日に藤井氏を札幌へ呼び出します。ホテルを用意しました。翌日、S警視が藤井氏をホテルに迎えに行き、道庁前で3月2日の藤井氏の行動を再現した後に、中央署で私の「単独面通し」をさせます。「単独面通し」は、警察が都合のよい目撃証言を得たい時の常套手段です。

  その後にS警視は藤井氏から調書を取り、「A男と大森はそっくりです」との供述を獲得しました。ところが、当然出てこなければならない、A男のモンタージュ写真の出来映えに関する供述は一切ないのです。モンタージュ写真の「モ」の字も出てきません。S警視はホテルで、A男のモンタージュ写真も見せて、誘導したはずなのに、です。道警にとって、公にできないモンタージュ写真であるからです。

  (6)そればかりか道警は、このA男とB男のモンタージュ写真を検察庁にも隠して、公判の後の方になるまで送りませんでした。任意提出書と領置調書が作成されたのは、なんと1979年11月7日です。検察官がそれを証拠請求したのは、79年11月27日の第65回公判です。藤井氏の証人尋問(67回公判)の直前のことでした。

  (7)このA男モンタージュ写真は、釧路で作ったA男モンタージュ写真とは、全くの別人物になっています。前者は首がすごく太いのですが、後者は女のように細い。前者は面長、後者は丸顔です。
  
  以上で捏造であることは明白です。

 ※ モンタージュ写真やイラストや私の被疑者写真を掲載すればよいのですが、刑訴法の改正で、証拠そのものを掲載することは禁止されていますので、ご了承ください。


2011年5月16日
大森勝久


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 北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)