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1976年3月2日午前9時2分、北海道庁1階エレベーターホールで消火器(5.2リットル)爆弾が炸裂して出勤してきた道庁職員等が巻き込まれ死者2名、重軽傷者95名という大惨事となった。火薬は除草剤(塩素酸ナトリウム)と木炭粉末と硫黄粉末を混ぜた混合火薬であった。起爆装置には工業用電気雷管が用いられていた。消火器は初田製DP10型という大型消火器、時限装置はシチズン製の旅行時計を工作したものであった。消火器は山型のスポーツバッグに収納されバッグのポケットには日経新聞が差し込まれていた(4月発行の『月刊ダン5月号』)。
午後0時40分頃に犯人から北海道新聞社に電話があり、地下鉄大通駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」名のテープライターで打たれた犯行声明文が発見された。犯行声明文の内容は次のようなものであった(全文カタカナ文字である)。
「一、すべての友人のみなさんへ。私たち日帝本国人はアイヌ、沖縄人民、朝鮮人民、台湾人民、部落民そしてアジアの人民に対する日帝の支配を打ち砕いていかねばならない。彼女・彼等の反日闘争に呼応していかねばならない。一切の思い上がりを捨て自己を変革し我々の反日戦線を鍛え上げ拡大していこう。
一、 道庁を中心に群がるアイヌモシリ(北海道はその一部)の占領者共は第一級の帝国主義者・侵略者である。
*日帝は国力増強を目的としてアイヌモシリ植民地経営を推し進め、モシリの全てを強奪し破壊しアイヌ絶滅を企ててきた。
*日帝は戦争遂行のため北海道、サハリン、千島にも無数の朝鮮人、中国人を強制連行し、奴隷労働をさせ多くを虐殺してきた。
一、 道庁はその先頭に立って、北方領土返還運動を推進しているが、アイヌは「北海道、サハリン、千島はアイヌ、ギリヤーク、オロッコの母なるモシリ(大地)である」と主張している。
*侵略占領者である日本とソ連こそが北海道、サハリン、千島の全域から撤退せねばならないのだ。日本の立場を支持する中国―毛沢東一派は大きな犯罪を犯しているのだ。 東アジア反日武装戦線」
このようなものであった。なお、声明文にはテープを一字分ずらした3ヶ所に直線4本を交叉させた「*」印(コメ印)記号が手書きで記入されていた。これが後日私の筆跡だとでっち上げられることになる。
「東アジア反日武装戦線」の名称が最初に犯行声明文に使われたのは、1974年8月30日の東京丸の内で起こった三菱重工爆破事件であった。東アジア反日武装戦線「狼」部隊の犯行であった。その後「狼」「大地の牙」「さそり」の各部隊は74年から75年にかけて首都圏でいわゆる「連続企業爆破事件」を起こしていったのである。3部隊が合同して行った事件もある。しかし、3部隊は1975年5月19日に警視庁によって見事一斉逮捕されて壊滅させられたのであった。ところがその2ヵ月後の7月19日に北海道警察本部(3階の警備部前の廊下)が爆破攻撃され、コインロッカーからテープライターで打たれた「東アジア反日武装戦線」名の犯行声明文が見つかったのである。3部隊の戦いに共鳴し継承せんとする者の犯行だと見られた。爆薬は工業用ダイナマイトかカーリットだと報じられていた。
北海道警本部は警察庁からも発破をかけられて連日500人の捜査員を動員して捜査を展開したが、犯人の手がかりは全くなかった。そのような時に道警本部に隣接している北海道庁で再び爆弾事件が起こったのである。道警は「道警・道庁爆破事件特別捜査本部」を設置して連日600人態勢で捜査をしていった。私が間借りしていた大家の家にもアパートローラーで捜査員が2回来て、一度は私も応対した。しかし新聞に載る警察幹部の記者会見によれば犯人に結びつく情報は全く得られなかったのである。 |
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そのような時、岐阜県内で私の友人のD氏(仮名)が7月2日夜10時40分頃、山中の洞窟に除草剤5s袋二つ、木炭粉末、硫黄粉末、「腹腹時計」等を隠そうと山道を歩いているところを偶然通りかかったパトカーによって職務質問されて派出所へ連行されたが、それらの荷物を放置して逃走する事件が発生したのであった。「腹腹時計」は東アジア反日武装戦線の「狼」部隊情報部が発行した小冊子で「爆弾教本」である。この事件がきっかけになって岐阜県警からの通報によって、道警は初めて私の存在を知ることになるのである。
なぜD氏はそれらを洞窟に隠そうとしたのかについて述べておく必要があろう。D氏は1977年初頭から同年暮れにかけて反日亡国を掲げた爆弾闘争を展開したが、78年に誤爆事件を起こして全国指名手配され、83年5月に逮捕された。70年代の末には完全に転向していた。彼は私の裁判で証人になってくれて証言したのだが、それによればこうである。彼は76年1月6日に京都で平安神宮焼き討ち闘争を行い、2月10日新聞社に声明文を出したが無視されてしまい報道されなかった。そのため無視されないような爆弾闘争までやらなくてはならないと考えて、知人に爆弾材料の入手を手配し4月頃に全部一緒に受け取ってきた。しかしいざ物が揃うとしんどくてしようがなくなってしまった。アパートにそれらを持っているのにほとほと疲れてしまい、かと言って捨ててしまうまでの決断ができず、用意してくれた人たちにも悪いということで、洞窟に隠すことにしたのであった。
D氏は北海道庁爆破事件後一週間位して、私の勤めるパーキングに電話してきたことがあったが、その時には知人に爆弾材料の入手の手配はしていたという。そのときの電話で私は「除草剤をまだ入手できていない。こちらでは入手が難しくなるので本州で何とか入手できないものだろうかなあ…」と言ったのだが、彼はそれを入手の依頼とは受け止めていなかった。また彼は4月に除草剤等を受け取ったわけだが、私に除草剤等を回そうとはしなかった理由については、自分と大森では爆弾闘争の考え方に大きな違いがあり、大森は三菱爆破や道庁爆破を支持していたが自分はそういう人を殺傷する戦いを批判していたから、除草剤等を回せば大森がそういう人を殺傷する戦いをやってしまうと考えた。また爆弾闘争にためらいを感じていた自分も爆弾闘争をやっていくことに巻き込まれてしまうのじゃないかと危惧したからだと証言している。
なお一旦は洞窟に隠そうと考え、爆弾闘争をやめようと思っていたD氏が77年から爆弾闘争を開始していった理由は、彼の証言によれば、「自分がすごく優柔不断な態度をとっていて、それがために失敗してしまって、それだけならまだいいんですけど、友人であった大森君が逮捕されてしまう。今では道庁爆破で起訴されているということで、とても耐え難い失敗だったというか、罪悪感というか、責任を感じたんです。そういう自分が失敗した責任を果たしていくためには武装闘争を戦っていく以外にないんでないかと思いました」ということだったのである。
D氏の証言から私がD氏から除草剤等を回してもらったことはないことが明らかであろう。 |
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D氏が除草剤を遺留して逃走した事件に戻す。彼には逮捕歴があったから7月4日の新聞では、名前が特定されて「劇物毒物取締法違反容疑」で全国に指名手配されたことが報じられた。私は7月3日勤務先の駐車場のテレビでこの事件を知り、4日の新聞でD氏であったことを知った。私は隔日出勤の一人勤務(朝9時から深夜1時まで)であったが、7月5日と7日の出勤日には彼から職場に電話があり、地元の新聞情報を知らされた。彼は大家宅へは電話はしていない。5日の電話では、D氏の交友関係が洗われて4名ほどが家宅捜索を受けたこと、7日の電話では私の存在はつかまれていないようだということを知らされた。
私は72年6月末に美濃加茂へ引越したときから、将来の都市ゲリラ闘争のために本名は伏せ仮名を使っていた。D氏をはじめ友人たちには他人には私の本名や岐阜大学出のことは言わないようにお願いしていた。だから警察がD氏の周辺捜査をしても私の存在(本名等)は分からないであろうと考えていた。というかそのように願望した。折角時間をかけて準備して札幌市に生活と戦いの拠点を設けたのであるから、警察にマークされることなく戦いを展開していけるようになりたいと望んだのであった。この事件から存在をつかまれてアパートを引き払って偽名の地下生活をするようにはなりたくないと思っていた。そうなれば戦いに様々な支障をきたすからである。
私は念のために翌日7月8日多治見の実家に電話を入れて様子を探ってみた。夕方である。すると母が妹と結婚した義弟(彼は岐阜大学工学部出身で以前学生運動をしていた)のことで警察が家に聞き込みに来たことを告げたのである。実家に私のことではなく義弟のことで聞き込みに来たことで私の存在はつかまれていないと安心したものの、義弟はD氏たちとは全く無関係であったのに把握されていたことから、私も大学関係者から把握され、かつ事情を知らない両親が私が美濃加茂でD氏と一緒に土方をしていたことを話してしまうことだってあるかも知れないと考え、ここは一旦姿を隠し東京へ出た方がいいだろうと思ったのだった。札幌のアパートに留まった場合、もし存在を把握されれば私は今後の身動きが取れなくなってしまうからだ。そして様子を窺って存在をつかまれていないことがわかればまた戻ってくればよいと考えたのである。道内には誰も友人はいないから東京へ行くことにした。
7月8日私はアパート(大家の2階に間借りしていた。玄関は大家と共通である)を出るとき、火薬類取締法違反にひっかからないようにと考えてマッチの頭薬をつぶした火薬とその道具である土鍋とすりこ木、それと花火、また爆発物取締罰則3条(爆発物に供すべき器具の所持)違反に引っかからないようにと考えて点火ヒータと電池だけ持って出て捨て、東京へ向かった。時限装置用に工作した旅行用時計は電池とは結合してないので3条違反にはならないだろうと考えて置いていった。何よりも爆発物を作れる条件が揃っていない(主剤がない)から時計は大丈夫だと考えたのだ。捨てるのはもったいないと思ったからでもある。東京から電話を入れてみて大丈夫であれば戻ってくるつもりでいたからである。私は初田製消火器2本(2本とも10LP1型)を盗んできていたが、雑誌月刊ダンで知った道庁事件の消火器「DP10型」とは機種が異なっていたし、それ自体は爆取3条の器具とは無関係なので置いていった。大家には祖母が危篤なので暫く実家へ帰る旨を告げ、会社にも同様に告げて2週間ほど休みをもらった。
私は東京で日雇い仕事をしながら大家へ3回、会社へ2回電話を入れて道警が動いているかどうかを探ってみたが、その気配は感じなかった。7月19日に会社へ電話したとき、「パーキングの係員に代わりの人を雇った」と言われた。私は札幌へ戻っても大丈夫と考えていたので、「明日戻りますから引き続きパーキングの仕事をさせてください。まだ2週間経っていません」と言い、実際20日に札幌へ戻り会社へ行ってパーキングの仕事が出来るように頼んでいる。支店長が出張中であったため後日また来てほしいと言われ、7月22日午前中に会社へ行き支店長と会った。支店長は系列店のキャバレーのボーイのほうに代わってくれないかと言うのだった。この発言から警察が聞き込みに来てないことは判断できたが、パーキングの仕事に比べて自由時間が減ってしまうため、私は考えさせてほしい旨を告げて帰った。
私のこのような一連の行動は、それは大家や会社の人間の法廷証言で裏付けられているが、北海道庁爆破の犯人がとる行動であるのだろうか。考えてみてもらいたい。
その日の午後アパートの私に多治見の母から電話が入った。母はうろたえた声で「警察が勝久のことで聞き込みに来たよ。住所を聞かれたので教えたけど、こちらであったD氏の事件に関係してないでしょうね?」と告げたのである。私は今すぐにでも岐阜県警からの連絡で道警がここへやってくるかも知れないと思い、すぐにアパートを出ることにした。大家には「祖母の容体が再び悪化したとの電話だったから再度家へ帰って来ます」と嘘を告げた。30分位後には工作した旅行用時計のみもってアパートを出てゴミステーションに捨て、市内で変装のために短いスポーツ刈りにして東京へ向かった。他のものは捨てる余裕がなかったのだ。会社へは辞める旨電話した。大家は私が出るときには買い物にでも行ったのか不在だった。私は車のキーを預かってもらうつもりだった。というのは大家が私はもう帰ってこないのではと思えば、合鍵で私の部屋へ入って様子を調べるかも知れないと思ったので、車のキーを預けておけば安心するだろうと考えたからである。翌日東京から大家へ電話を入れてキーの場所を伝えて保管しておいてくれるようお願いした。大家が入室したら分かるようにセロテープを戸に貼っておいた。
私は東京からまた電話を入れて様子を探り、もしまだ道警が動いてなければ、再び帰り部屋にあるものを全て捨て去って北海道を去ろうと考えていた。そうすれば、岐阜でのD氏の事件の関連人物として公開手配されることはない。さらにもしそのままアパートに戻らなければ、大家が部屋の持ち物を調べ木炭、硫黄、工具、器具、腹腹時計など爆弾教本があるから警察に通報されて、道庁爆破事件の容疑者にでっち上げられて指名手配されることにもなり得る。私は以上のように考えて、大家に7月中に更に1回と8月3日にも電話を入れた。会社にも給料の支払い方法を口実に2、3回電話を入れた。8月4日には札幌の前のアパートにも入れてみたが、いずれも道警が聞き込みをしている様子はなかった。それで私はアパートにあるものを処分してごく自然に北海道を去るために札幌へ戻ることに決め、8月6日午後四時頃アパートに戻ったのであった。部屋の入り口のセロテープと押入れのセロテープははがれていて大家が様子を見に入室したことはわかった。
ここで警察の動きを記しておきたい。高山総合捜査報告書等によれば、7月9日に岐阜県警は道警本部公安課に私の現住の有無の調査方照会をしている。道警はその回答をしている。7月16日には岐阜県警は道警に、「大森は手配被疑者Dの『立ち回り先(立ち寄る可能性のあるところ)』であること、両者の関係は友人同志である」と通報している。これを受けて道警は7月20日からD氏の立ち回り先として私に対する行動確認を開始した。しかし道警は7月20日から7月22日までの私の存在には全く気付いていなかったのである。私はアパートを出入りし、窓も開け、夜は電気もつけたのに。車でも外出した。
7月20日から行動確認を開始したというのが本当であれば、それは昼間だけの、しかも一定方向からの時間も短く限定した少数による内偵であったことになる。道警はこの捜査を重視していなかったのだ。つまり北海道庁爆破事件の捜査とも関連づける問題意識は全くなかったことが明らかである。純粋に遠い岐阜で起こったD氏の事件の立ち回り先として内偵していただけであり、しかも「こんな遠い北海道まで来ることはなかろう」と気を抜いてやっていたことになる。もしも岐阜県警が7月9日の道警への調査方照会に際して、大森は手配被疑者Dの友人であること、Dはアイヌ問題に深い関心を有していることも伝えていれば、そして道警が緊張感を持ってもしも7月9日直後から、少なくとも7月16日直後から私のアパートの大家と会社への聞き込みを行っていれば、私は様子を探った電話によってそれを察知して、そのまま東京で偽名生活を始めていっただろう。そうすれば私は道庁爆破事件の容疑者にでっち上げられそれへの反発も加わって、いずれ反日亡国の武装闘争を展開するようになり日本社会に害をなしていっただろう。私は戦いに心を奪われて保守主義者に転向することもできなかっただろう。だから私にとっては、また日本社会にとっても、でっち上げ逮補につながっていくD氏の事件と道警の前記のような気の抜けた捜査は結果的に幸いしたのだった。なお私の存在は土方仲間のおじさんへの聞き込みによって判明したのだった。 |
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道警が私の存在を確認するのは、私が8月6日午後4時頃に帰宅して大家の2階の私の部屋の窓を開けたからである。道警は4時10分頃に窓が開いているのを見て帰宅したことを知った。この頃には内偵の態勢も人数も強化されていた。
私は帰宅すると直ぐに車で相応しい投棄場所を2時間余り探した。そして市内の幌見峠という格好の場所を見つけた。私は尾行の有無にも気を配っていたが、尾行していた道警は一本道のような所では気付かれないようにするために自主的に尾行を止めたから、気付くことができなかった。私はまずやばそうなものから捨てようと思い、8月6日夜8時過ぎに消火器2本(1本は中の薬剤と圧縮ガスは抜いたが他はそのままのもの。もう1本は全く完全なもの)と硫黄粉末が入った大型の茶箱を車に積み込んで幌見峠に捨てた。8月7日は朝から器具や工具や本を詰めた3個のダンボール箱と木炭入り大型の茶箱、木炭入りのタッパー、硫黄入りジャーを車に積み込んだ。大家の奥さんが私が大きな荷物を運び出しているのを見とめて、「不用なものを捨てに行くの?今日は燃えないゴミの日ではないよ」と語りかけてきたが、「少し先まで捨ててくるよ」と私は答えた。出発してダンボール箱3個は北二十四条の繁華街に近いゴミステーションに捨て、ゴミステーションに捨てることが出来ない残りのものは幌見峠へ直行して捨ててアパートに帰ってきた。この時までに一番やばいと思ったものは捨ててしまったが、7日はその後も何度か車で捨てに出かけている。
私は気付いていなかったが、道警は8月6日も7日も私が投棄物を車に積み込むのを肉眼や双眼鏡で現認して、車で追尾していた。尾行を発見されそうな所では無理しなかったから幌見峠での投棄は現認していないが、7日朝ゴミスーションに捨てた3個のダンボール箱は直後に押収していた。そして幌見峠の大捜索を実施して8月8日の午後までには私が6日と7日に峠に捨てた全てのものを発見して押収したのである。
道警は8月7日の朝、ゴミステーションから押収した3個のダンボール箱を爆弾捜査本部の別室に運び込み、幹部が午後に中味を検証して、私に初めて北海道庁爆破の容疑をかけたのである。木炭末で黒く汚れた軍手やビニールシートやカーテン地や網かごやへらや計量カップやコップ洗浄ブラシなどの混合火薬製造器具、道具があり、火薬関係の本やそれをまとめたレポート用紙があり、「*」印記号が多く記入されていた書籍があったからである。
私が警察の尾行に気付いたのは7日の夜8時半過ぎ頃に徒歩で外出したときであった。今日の投棄は終わりだと思っていたところ、私は別の所に置いていたために捨て漏らしてしまったやばいものがあったことに気付いたのである。腹腹時計とバラの詩(2つとも爆弾教本)である。私は少し離れたゴミステーションに捨てようと思い小さな紙袋に入れて外出した。丁度夏祭りの盆踊りが公園で行われていたのでそれを少し見物してその先のゴミステーションに捨てようと思ったのだった。公園の近くに来たときにつけてくる3、4人の人影を見とめて尾行だと気付いたのだった。私は気付かないふりして街までタクシーで出て、うまく尾行をまいて捨ててきた。簡単に尾行が分かったので、私はこの時から尾行は開始されたのだと思い込んでしまった。だからそれまでに捨てたものは安全だと思ってしまった。しかし前記の通りそうではなかったのである。道警はその都度積み込みを確認し、追尾して押収していた。
私は8日の朝に何も入っていない小さい茶箱を2個車に積んで近くのゴミステーションに捨てた後(これも後から押収された)、徒歩で北二十四条の繁華街へ行き、そこで尾行してきた捜査員を一人追い詰めて詰問した。この時から捜査員の方も隠れたりせず堂々と尾行することとなった。私は昼1時過ぎに質屋に行き、引越すのでテレビとミキサーを買ってもらえないか尋ねている。ついてきた捜査員は直後に質屋に聞き込みをして私が引越そうとしていることを知ることになった。8日の夕方、私は大家夫妻を私の部屋に呼んで(引越すことは既に6日に伝えていた)、部屋に残っている家具等を見てもらい、「もし欲しいものがあったら使ってください」と申し出ている。「不用なものは申し訳ないですが捨ててください」とお願いもした。いくつかをもらっていただいた。
その後、大家夫妻が1階の自室で「お別れ会」をして下さるということになったので、ありがたくお呼ばれすることにした。3人で焼肉を食べビールを飲んだ。私はおかずをよく作ってくださったりと良くしていただいた大家夫妻にも大変な御迷惑をお掛けしてしまったことを本当に申し訳なく思っている。その時、ご主人が車を車検にだしてしまってないと話したので、翌9日の朝は私が車でご主人を会社まで送ることにした。ちゃんと警察は尾行してきた。その後私は東区役所へ行って転出の手続きをした。午前11時頃だ。ついてきた警察官は直後にこの事実を把握した。
その後私は警察の尾行車を二度にわたってまいたが、そのまま逃走してしまうことなくフェリーのチケットを買ってアパートに戻っている。ご主人を明日10日の朝も会社へ送る約束をしていたこともあったが、堂々と北海道を去った方がその後の戦いにプラスになると考えていたからである。7日までの投棄物は無事捨てることができたとの思い込みが前提としてあったからではあるが。とはいえ、私が真犯人ならばこのような余裕のある行動はとれない。もし真犯人ならば混合火薬を作ったのだから、公務執行妨害罪をでっち上げられて逮捕され、家宅捜索されたり、D氏の事件で家宅捜索されれば、除草剤の1粒や2粒は部屋から発見されてしまうからだ。すぐにでも逃走している筈である。
8月10日私はご主人を会社へ送り、その後アパートに戻って奥さんにお礼とお別れを言って、午後1時17分奥さんに見送られて苫小牧港へ向けて出発した。3時に着き、乗船待ちしている3時21分に逮捕されたのである。爆発物取締罰則3条違反容疑であった。この逮捕状が発布されたのは10日私が苫小牧に向かって車を走らせている時であったから、もし9日に尾行をまいたときそのままフェリーに乗ってしまえば逮捕されなかったことになる。捨てなくてはならないものなどもう何もなかった。ご主人との約束とか自然な形で去りたいと思ったことが、逮捕につながったわけである。しかしそれは私にとっても、結果的に幸いしたことになった。 |
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D氏事件以降の私の行動と投棄行動から、私が除草剤を捨てていないことは明らかであろう。もともと持っていなかったのだ。しかし二審は、D氏事件の顛末を彼から電話で知らされてから道警が張り込みを開始するまでの間に除草剤等を処分したことも十分考えられると判示した。これらを批判しておこう。
D氏の事件は7月2日の夜11時前だ。逃走は11時近いだろう。3日は彼は1日中隠れていて身動きできなかった。私の出勤日は7月3日、5日、7日である。朝九時から夜中の1時までの一人仕事である。彼からの最初の電話は5日である。彼はアパートへはかけていない。大家が電話をとるからである。判示によれば非番日の7月6日の全日と8日の半日のうちに除草剤等を捨てたということになるが、大家の奥さんはこの頃私が慌ただしく大きな物などを捨てる行動をしていたとは証言していない。奥さんは専業主婦で買い物に出る以外はほぼ家にいる。居間から玄関は見えるし、玄関の出入りは戸がガラガラ音を立てるのですぐ分かると証言している。峠から押収された木炭は7.7s、硫黄は6.94sであった。混合火薬は除草剤を木炭の5倍、硫黄の7.5倍の量を使って作るから、もし私が除草剤を入手していたと仮定すれば、その量は木炭や硫黄の量から考えて相当大量に持っていたことになる。しかし奥さんはその頃私が慌ただしく物を捨てていたとは思っていなかった。7月4日も含めても同じだ。奥さんは8月に帰宅した後の私の投棄はちゃんと認識しているのである(証言)。
除草剤はゴミステーションに捨てることはできない。捨てるとすれば、しかも大量に捨てるとなれば特別な場所でなくてはならない。幌見峠のような木が茂る深い谷になっているような場所だ。もし私が7月4日、6日、8日に幌見峠以外の秘密の場所に除草剤を捨てたとすれば、私は8月6日以降の消火器や硫黄や木炭もその同じ秘密の場所に捨てたはずだ。一刻も早く捨てたいと急いでいるときにわざわざ2時間余りかけて別の場所を探すのは不合理極まるからだ。すなわち逆にいえば、消火器等を幌見峠に捨てたということは、除草剤をもし捨てていればそれも幌見峠に捨てているということである。そして大捜索しても除草剤は発見されなかったから、私が除草剤を捨てた事実はなかった証拠である。
私が8月7日の朝にダンボール箱に詰めて捨てた混合火薬製造の器具、道具の軍手や網かごやビニールシートやカーテン地やへらや計量カップやコップ洗浄ブラシ等には木炭や硫黄はそのものとして付着していた。もし私が混合火薬を作ったのであれば、その重量比から必ず除草剤はそのものとしてそれらに付着していなくてはならないが1粒たりとも無かった。私の部屋も徹底的に捜索され付着物の鑑定がなされたが、木炭片はいくつか発見されたが除草剤は1粒も発見されなかった。5倍以上の量が有って自然なのに無かったのは、もともと存在していなく混合火薬は製造されなかったからである。
除草剤を扱った器具や道具のみ別のところに捨てたのだという主張も成り立たない。そもそも「除草剤専用器具・道具」と区別する理由が存在しないからである。仮に別の器具・道具で扱っても除草剤は木炭の5倍の量が必要なのである。だが部屋の中からは一粒も発見されなかったのだ。 |
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道警は8月10日に爆取3条違反で私を逮捕した。検察官は拘留満期の8月31日に起訴猶予処分として一旦釈放したが、私は9月1日札幌拘置所の門を出た所で道警に道庁爆破で再逮捕されて拘留満期の9月23日に起訴されたのであった。同日道警本部爆破事件で再再逮捕されたが満期の10月15日に起訴猶予処分になった。私は除草剤を未だ入手しておらず道庁爆破をやっていない。道警が実に多くの証拠をでっち上げたからこそ逮捕・起訴・死刑判決は可能になったのである
道警の立場になって考えてみよう。道警は警察本部を爆破攻撃され翌年には隣接する道庁も爆破されて面目を無くしていた。犯人を逮捕して名誉を回復しなければならない立場にあった。その時に岐阜県内でD氏の遺留逃走事件が発生して、彼の友人同志関係にある私の存在を岐阜県警からの通報で知ることになったのであった。内偵していると私は先に書いたようなものを投棄したのだった。D氏が遺留したものは除草剤、木炭、硫黄という混合火薬の材料であり、乳鉢・乳棒という混合火薬を作る器具であり、東アジア反日武装戦線「狼」が発行した腹腹時計という爆弾教本等であった。道警は別の通報者情報によってD氏が1973年4月から8月にかけて北海道静内町の建築現場で働いていたことをつかんだ。また岐阜県警に照会して、「74年の前半にD氏のアパートでD氏たちの『部族戦線』はアイヌモシリ独立闘争を志向する内容の討論をしていたとみられる情報もある」「大森もそのメンバーである」との回答を得ていた(8月9日付の高山総合捜査報告書)。とすれば道警が「大森は道庁爆破の犯人に違いない!」と考えたことは想像に難くない。
道警はD氏が遺留した除草剤や乳鉢・乳棒、木炭末等は当然大森も持っていると考えた筈だ。それらも幌見峠に捨てられた筈だと必死の大捜索をした。しかし前記したもの以外は発見されなかったのである。道庁爆破の消火器にはリード線を通す直径5ミリの孔があけられていた。だから道警は大森は電気ドリルも持っていて幌見峠に投棄した筈だと探したことになる。しかしこれも見つからなかった。私はそれらを持っていなかった。D氏が除草剤等を私に回す考えがなかった理由は既に彼の証言で明らかにした。しかしそういうことは道警には分からない。道警の立場からすれば「幌見峠に無かったということは持っていなかったということだ(つまり犯人ではない)」とは考えられなかった。彼らはあくまでも大森は犯人に違いないのだと考えようとした。だから発見されなかったものは内偵を開始する前にどこか別の所に捨ててしまったのだ、と考えようとしたのだろう。
逮捕し起訴し有罪に持ち込むための的確な証拠はなにもなかった。だから道警は数多くの証拠をでっち上げていったのである。「犯人を逃がすわけにはいかない。逃がせばまたどこかで爆弾闘争をやっていくことになる」。あるいは「仮に大森は犯人でないとしても、反日爆弾闘争を目指していることは明白だ。そんな人間を逃がしてしまうわけにはいかない」。彼らはこう考えた。これが道警が多くの証拠をでっち上げていった理由であろう。
道警の捜査は憲法、刑事訴訟法、刑法に違反している。だから私の本件での逮捕・起訴は無効である。しかし道警が私をでっち上げ逮捕することで日本社会を守ったことも事実である。また反日亡国の武装闘争を開始していくことから私を守ったとも言い得る。私が左翼思想の誤りを認識して保守主義の立場に転向できたのも、獄中で一人で考えることができたからである。だから私は当時のでっち上げ逮捕を恨む気持ちは全く無い。このことははっきりさせておきたい。もちろんこれは、警察は左翼が対象であれば<法>を否定した捜査をしてもよいという意味ではない。それを許せば<法>自体が破壊されていく。
時間が経過して私は既に完全に転向した。そして再審開始を求めている。私は除草剤を所持しておらず無実である。裁判所は確定判決(一審の死刑判決)の事実認定が捏造・偽造された証拠に基づく誤ったものであることを認めて、確定判決等を取り消して再審開始決定を出さなくてはならなかったが、札幌地裁も高裁も逆に棄却決定をしたのであった。それは<法>の正義よりも裁判所・3審制度という身内の権威≠守らんとする組織益と保身の産物であった。憲法違反の決定である。現在は最高裁判所に特別抗告中である。
以下、道警はどのように証拠をでっち上げていったか明らかにしていく。 |
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道警が8月10日私を苫小牧港で逮捕した令状の被疑事実は、「被疑者は…爆発物製造器具である消火器、セメント、乾電池、豆電球等を所持していたものである」というものである。しかし爆取3条が処罰対象としているものは「爆発物の使用に供すべき器具の所持」であり、「爆発物の製造器具の所持」ではない。この令状は日本の刑罰法規上存在しない構成要件を被疑事実とするものであるから、憲法31条(法定の手続きの保障)に違反した令状であって無効なのである。同日付の大家方の私の居室の検証令状、捜索差押令状も同じ被疑事実になっているから、これも憲法31条違反の無効令状だ。だから警察官が私の居室から押収した「リン止めネジ」(実は警察が証拠を捏造したものだが)は違法な令状に基づく押収品であるから、違法収集証拠であり、証拠排除されるべきものだ。証拠能力が無い。
検察官は「使用に供すべき器具」と書くべきところを「製造器具」と誤記したものであり違法令状ではないと強弁し、裁判所も支持したが全く誤っている。字数も7字と2字で大きく異なり、文意も変わってしまうから「誤記」の概念に該当しない。
ある人がプラモデルに使用するために時限装置を作ったとする。これは当然爆取3条に該当しない。私の場合も、そもそも除草剤が無いのだから爆発物を作れない。少なくとも除草剤、木炭、硫黄の3つの材料が揃っているときに、「爆発物に供すべき器具の所持」は言いうるものである。だから道警は、除草剤の付着反応があったというように、「高山総合捜査報告書」の一部を捏造したのである。
道警は違憲無効令状で離道寸前の私を逮捕し、札幌の中央署へ連行し拘留したのである。 |
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道警は私が8月7日朝に北二十四条のゴミステーションに捨てた軍手や網かごや敷物(ビニールシート)やカーテン地など37点の化学鑑定を実施した。8月8日は日曜日であったが火薬が最も付着していそうだと思われた軍手と網かご3個それと木炭末(0.015グラム)の5点の鑑定を行った。残りの32点は指紋検出を優先させた。もし32点から私以外の指紋が検出されて、それが道庁の現場の遺留指紋や声明文が入れられていたコインロッカーの遺留指紋と一致すれば、その人物は道庁爆破の犯人だと断定され、その仲間の私も犯人と断定されるから指紋検出は最も優先させるべき捜査なのである。指紋検出後にも鑑定は出来るが、鑑定を先にすれば指紋は消えてしまう。警察は共犯の存在も考えるから当然のことである。
軍手からは塩素酸カリウム(マッチの頭薬)と塩化ナトリウム(汗)と木炭と硫黄が検出された。しかし網かごからは木炭しか検出されなかった。32点は翌9日に指紋検出がなされたが、このような8日の鑑定結果であったから、9日は朝早くから汚れが酷い敷物(ビニールシート)とカーテン地から優先的に指紋を検出して終わればすぐに鑑定がなされていったと考えてよい。しかし敷物、カーテン地からは木炭と硫黄しか検出されなかった。塩素酸イオンの反応も無かったのであった。この鑑定結果は除草剤(塩素酸ナトリウム)の不存在を示す。除草剤が存在して混合火薬が製造されれば、その痕跡が必ず混合火薬の製造器具や道具たる37点に現れる。37点は洗浄されることなく汚れたままの状態で投棄されていたのである。しかし除草剤そのものの付着はなく、反応もなかったのであるから、私は除草剤を所持していなかったことが証明されるのである。
高山総合捜査報告書は8月8日の晩から書き始め、徹夜して9日の昼までかかってまとめたものである。爆取3条違反の逮捕状を請求する際の疎明資料のひとつになったものである。核になったものである。3条違反逮捕はあくまでも本命の道庁爆破で再逮捕するための別件逮捕であり、時間稼ぎでもある。私を爆取3条違反で逮捕するためにはありのままに書くわけにいかない。そのため実質的な捜査責任者である石原啓次の指示により、その右腕的存在である高山警部は虚偽の記載をしていったのである。道警は9日の時点では私を逮捕し居室を捜索し居室のゴミや付着物を鑑定すれば、除草剤所持の痕跡を得ることができるだろうと考えていたかも知れない。しかし10日以降に実施しても一粒の除草剤もなく反応もなかった。木炭片はいくつも発見されたのにである。
高山総合捜査報告書には次のように書かれている。「網かご、軍手、敷物カーテン地からは塩素酸イオンを検出」「除草剤については現物の存在は発見できなかったにしろ、除草剤の配合、使用等に用いられたと認められる軍手(鑑定結果、塩素酸塩類イオン検出)が存在していることは所持していたことを裏づける決定的な事実であると認められる」。あたかも網かご、軍手、敷物、カーテン地から除草剤の反応があったかのように意識的に偽造したのである。警察は大森は除草剤を所持していたという高山総合捜査報告書を偽造することで、爆取3条違反の逮捕状を請求し取得していったわけである。 |
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しかし更によく考えてみれば、高山総合捜査報告書は私の無実無罪を証明する証拠である。確定判決の事実認定は、「道警は8月8日山平真によって37点の鑑定を実施して、ビニールシート(敷物)とカーテン地の2点から「塩素酸イオン陽性、ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性」との結果を得た。これにより右2点に除草剤が付着していたことが認められ、大森が除草剤を所持していたことは疑いがない」というものである。もちろんそうであれば高山総合捜査報告書にも同じことが記載されなくてはならない。しかし高山報告書は上記の通りであって全く矛盾してしまっている。陽イオン(ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性)は全く記載されていない。本当にビニールシート(敷物)とカーテン地から「塩素酸イオン陽性、ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性」の結果が出ていれば、まさしくこの通りに記載するのであり、わざわざ陽イオンの結果を捨象してしまうことは絶対にない。高山総合捜査報告書の記述内容が裁判所の認定と敵対していることが、「山平鑑定の不存在」を証明しているのである。同報告書は私の無罪証拠なのである。
偽造証拠が粉砕されたとき、それが無罪証拠に転化することはよくあることなのである。高山総合捜査報告書もそのひとつだ。 |
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道警は8月14日に民間人の書道家金丸吉雄(当時71歳)に声明文の*印と私が投棄した書籍に書き込まれていた*印の異同識別の筆跡鑑定を依頼し、金丸は8月23日付で「同一筆跡である」という鑑定書を作成した。本件での逮捕・起訴を支えた証拠の一つである。
金丸の手法は「伝統的筆跡鑑定」といわれるもので、客観性のない線質とかリズムとか格調あるいは造形性によって異同を識別するものである。彼は声明文はわずか1日、私の書籍も4〜5日間しか見ていない。高齢のため顕微鏡をのぞいたりする作業も大変だし、設備もないと証言していた。声明文の3個の*印のうち一個は台紙にはりつけられたセロテープの上から書かれていることすら見逃している。鑑定人としての資質能力に欠ける人物であるのは明らかである。だからこそ道警は依頼したのであった。彼は造形が共通すると言っていたのだが、法廷で私たちに客観的なデータを基に具体的に追及されると、両者は造形が異なると認めたのであった。
道警はまず8月8日に道警の犯罪科学研究所の木村英一に鑑定を命じたのであるが、4、5日で声明文の*印が3個しかなく特異な筆跡もみられないことから、鑑定困難ないし同筆という結論は出ない旨の中間報告を受けたのであった。それで道警は、これまでにも多数の鑑定依頼をしていて、警察の意にそう鑑定結果を出してくれる民間人の金丸に、同一筆跡であることは間違いない旨種々説明して無理矢理鑑定を引き受けさせていったのであった。検察官は木村筆跡鑑定書は証拠請求しなかった。
筆跡鑑定には金丸の他に、道警が東京の科学警察研究所などを通じて意にそうような鑑定人として捜し出した奈良市在住の馬路晴男の鑑定書(77年3月7日付)がある。馬路も「両者を同一筆跡」と結論付けたが、法廷で具体的に追及されると、造形が異なっていることや縦線の傾きの点で両者は異なっていることを認めざるを得なくなったのである。
木村英一鑑定書(77年4月30日付)は私たちが証拠開示させて証拠請求していったものである。木村は「同一人によって書かれたとする積極的な結果は得られなかった」とはするものの、「いずれも類似の傾向は認められる」と結論づけていた。誤りである。裁判所が鑑定依頼した長野勝弘鑑定人は「同一人によって書かれたものであるかどうかは不明である」との鑑定結果を出していた。確かに、木村、長野両鑑定人は「科学的筆跡鑑定」の手法で行っていたものの、しかし両鑑定人とも一部で測定検査を意図的に誤り、またデータの処理の仕方が恣意的であって、その結論は誤っている。
声明文の*印は3個とも縦線は右に傾斜している。長野氏はこれを癖であることを認めている。一方私が書いた*印139個(1つは縦線が欠如しているので138個)の縦線は多くが左に傾いている。馬路鑑定人が出したデータによれば左に傾いたものが69個、右に傾いたものが3個である。だが私たちが厳密に調べてみると、左に傾くもの98個(71%)、右に傾くもの24個(18.1%)、垂直のもの16個(10.9%)であった。馬路も縦線の傾きの点で両者は相違していることを認めたのであったが、私たちのデータによればその相違性はより確かなものになる。
声明文の*印の最長画は3個とも右上から左下への斜線(第3画)であった。長野鑑定人はこれを癖だと言う。長野鑑定人は私の?印153個(資料が増えたため153個になった)を調べている。第2画(縦線)が最長のものは67個(43.79%)である。第3画が最長のものは56個(36.6%)である。そして長野氏は「検体数が多いから、被告人は第2画を最長に書く傾向がある」と認めたのである。つまり両者は異質ということである。
しかし彼には相違性をなんとか無くしたいという心理が働いて、測定を歪めていた。私たちが正確に測定してみると第2画が最長のものの比率は51%になり、第3画が最長のものは25.5%に低下した。道警の木村鑑定人のデータによっても、声明文は3個とも第3画が最長で、私のものは第2画を最長に書くものが44.4%、第3画を最長に書くものは31.1%である。私が声明文の*印を書いたのではないことは明らかである。
長野鑑定人が20歳以上40歳以下の男性224名を対象に一般調査を行っている。*印を使ったことがある者は79人(35.3%)であった。だから*印を使ったことがない者でも、ほとんどの者は*印は知っているといえよう。
私は押収された『朝鮮人強制連行の記録』の本の中に*印を139個記入しており、他の記号も使うが、*印を使う癖があった。しかし声明文の*印はわざわざテープを右へずらして一字分の空白を作ってそこに記入してあるものである。したがって声明文の作成者は普段自分がよく使用している記号ではなく、別の記号を記入したと認めることができる。指紋を付けないように工夫するのと同様の理由からである。*印を使う癖があった私が声明文を作成したのではないことは明々白々である。しかも筆跡が異なるから私でないことは証明されている。私の無罪の証拠である。
しかし一審判決は、私たちの主張も長野、木村両鑑定人が出した客観的データも一切無視し、さらに金丸、馬路両鑑定人自身が法廷で反対尋問を受けて自らの鑑定書の結果を覆したこと(造形や縦線の傾きが異なっていると)さえも無視して、「その鑑定結果は十分首肯するに値するものというべきである」と判示して、「本件声明文の?印記号は被告人において手書きした蓋然性が極めて大であるというべきである」としたのであった。こういう驚くべき違法な裁判が堂々とまかり通っていったのである。
日本国憲法37条1項は「公平な裁判」を行わなくてはならないと命じている。裁判官は憲法および法律に拘束される(76条3項)。裁判官は憲法を尊重し擁護する義務を負う(99条)。裁判官は「良心に従って独立して裁判する」といっても、それは憲法と法律(刑事訴訟法)に拘束されてである。裁判官は刑訴法317条(「事実の認定は証拠による」)と318条に支配されて公平な裁判をしなくてはならない。318条「証拠の証明力は裁判官の自由な判断による」の「自由な判断」とは、「恣意」ではない。論理法則・経験則に基づいた判断でなくてはならないのである。これが公平な裁判である。317条、318条に違反する裁判は上記の憲法条文に違反して無効である。すなわち「憲法は国の最高法規であり、これに反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為はその効力を有しない」(憲法98条1項)のである。「その他の行為」に処分のひとつである裁判も該当する。
二審判決は私たちの一審判決批判によって、「金丸、馬路の筆跡鑑定の結果からただちに被告人によって記載されたと断定することはできない」と一審の認定を批判し排斥せざるをえなかった。しかし被告人には*印記号を常用する習癖があり、声明文の*印と被告人の*印には、筆順がおおよそ同一のものが多いこと、大きさがだいたい揃っていること、字や行の頭に記入されていることなどの共通性が認められること、被告人の考えと犯行声明文の内容には共通するものがあること、黒ボールペンのインクが類似していることなどを併せ考えると、「被告人が本件犯行声明文の*印記号を記入した蓋然性が高いと認められる」と認定したのであった。
*印の場合に筆順がおおよそ同一のものが多いとの点には希少性などないし、大きさがだいたい揃うのも当たり前すぎることで希少性はない。字や行の頭に記入するのも何の特徴にもならない。造形の相違や縦線の傾きの相違また最長画の相違を一切黙殺した上で、希少性のない類似点のみを採り上げる証拠評価は、刑訴法318条に違反し憲法が命じた公平な裁判の否定である。なお警察が私の居室から押収したボールペンは「青色インク」であったが、黒インクのにすり替えて鑑定資料としたのであった。声明文と私の考え方には共通するものはあるが、明確に相違するものがあるのだ。相違性を黙殺すればどんな考え方でも「共通」になってしまうだろう。 |
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道警は私を爆取3条違反ででっち上げ逮捕した8月10日、大家方の私の居室の捜索を行い布団袋の中から金色のリン止めネジ一本を発見≠オて押収した。里幸夫警部が指揮して行ったものであるが、彼は道警の幹部石原啓次からの指示によってリン止めネジ一本を持ち込んで、さも布団袋の中から発見されたかのように証拠を捏造したのであった。
道警は道庁爆破事件(3月2日)の現場物の捜査によって、本件時限装置(時計)の2つのリン柱にはリン止めネジではないケース止めネジが使われており、従って犯人の元にはリン止めネジ2本が残ったことを把握していた。遅くとも4月中にはつかんでいた。リン止めネジ(マイナスネジ)もケース止めネジ(プラスマイナスネジ)も径は全く同じで互換性があるため、工作の過程でそのようになったわけである。時限装置のネジの使い方としては何ら不自然はない。道警は私の投棄物を押収して見分し、「大森が犯人に違いない!」と考えたのだが、「逮捕し家宅捜索等を行っても5ヶ月以上前の事件の有力な、直接的な証拠が処分されずに残っているだろうか?」とも考えたことは間違いないのである。火薬の主剤の除草剤が発見されたとしても、それは道庁爆破の直接的な証拠ではない。
そこで石原ら幹部は家宅捜索を利用して2本のリン止めネジを私の居室のどこかに紛れ込ませて、さも発見されたかのようにしようと計画を立てたのである。里警部が発見≠オたリン止めネジが捏造物であることを示す証拠を以下に列挙していく。
@居室の捜索を50分以上も遅らせた
里が大家方に到着したのは3時30分過ぎであった。普通であれば奥さんを立会人にして直ちに捜索を開始するが、彼が捜索を始めたのは4時18分であった。里はその日徹夜して翌日8月11日夜が明ける頃には調書を完成させている。このように大変急いでいたのに50分も遅らせて開始したのであった。その理由は苫小牧港にある私の車の捜索状況を見ながら私の居室の捜索をしようとしたためであった。私の車からもしリン止めネジが2本あるいは一本発見されたら、居室内に紛れ込ませるネジは、前者ならゼロ、後者であれば一本にしなくてはならないからだ。里は反対尋問に答えて「苫小牧における捜索差押等の状況についても情報を聞きながら、いつ頃から開始しようかと、警備課の高山警部と連絡しながらやりました」と証言している。リン止めネジ捏造の決定的証拠である。居室の捜索は車の捜索とは全く独立したものであるのに、車の捜索差押状況を見てから開始する方針であったからである。
車の捜索差押を担当したのは木村警部であった。彼は2時30分に道警本部を出発している。高速道路を使用するので3時40分頃には苫小牧港に着くはずであった。彼の車には無線はついていなかった。ところが木村警部は寄り道をしたために苫小牧港には5時頃に着き、5時28分から車の捜索をしたのであった。石原―高山は木村警部には証拠捏造の話は隠していたことがここから分かる。里は上記のいきさつから大家方に着くと警備課の高山へ電話を入れている。4時前にも再び電話を入れている。車の捜索差押え状況を聞くためであった。しかし木村はまだ到着していなかった。そこで里はさらに20分待ったがまだ車の捜索は開始されないために、4時18分から居室の捜索を開始したわけである。
何故4時18分から始めたのか。捜索開始早々にリン止めネジを発見≠オては、奥さん及び他の捜査員に不審がられてしまう。一定時間捜索した後に発見≠ニいうことにしなくてはならない。しかし5時を回ると大家の主人も帰宅して(奥さんからの連絡で5時に退社すると10分以内で帰宅した)夫婦二人で捜索の立合をすることになり、証拠捏造が難しくなってしまうからである。これが理由であった。当初の方針どおりであれば車の捜索が開始された5時28分以降となるはずである。しかしこんなに遅くしたのでは他の捜査員からも不審がられてしまう。里は5時ちょっと前ぐらいに布団袋の中からリン止めネジ1本を発見≠オたのである。2本にしなかったのは、車から1本本当に発見されるかもしれないと考えたからであった。もし木村警部が予定どおりに到着していれば、車からリン止めネジは発見されなかったことが、木村→石原・高山→里と伝えられるから、里は2本を紛れ込ませたはずであった。
A捏造を物語る発見¥況
里の証言によれば発見¥況は次のようであった。布団袋を開けて中の布団、毛布、ロープ、細引きを取り出す。空になった布団袋をのぞき込んではいない。二人の捜査員に布団袋の両端を持たせて畳から上げて、自分が手を布団袋の中に入れて底の中央部をトントンとたたき周辺のゴミを中央に集めるようにした。そして布団袋を畳に下ろして中央部に少したまったゴミを検分したときに金色のネジを発見≠オたのであった。中央部にたまったゴミはごく少なく、杯一杯くらいの量であり、しかも綿ぼこり、髪の毛みたいなもの、ロープの切れ端、ゴミみたいなものであった。布団袋の内側の色は白色で材質はレザーである。
批判していく。
布団袋を持ち上げて底の中央部をトントンたたいた時、誰もリン止めネジを発見≠オていないのである。布団袋は白色レザーであり、2人の捜査員が両端を持って、ある程度張った状態にしてトントンとやったのだから、リン止めネジはハネ上がるし音もでる。前記のようなころがりにくいゴミを中央に集めたというのだから、かなり強く底をたたいたことになる。本当に金色のリン止めネジがこの中にあれば、3人が必ず発見している。人間の視力は動くものには敏感に反応し察知する。無かったことが明白である。
里は「中央に集まった杯一杯ほどのゴミを一見しただけではネジは発見できなかった。それを丹念により分けるような形で見たときに発見した」と証言した。嘘が見え見えだ。リン止めネジはそんなに小さなものではない。頭部の直径は4ミリと大きく、ネジ部の径は2ミリで、ネジ部の長さが2.4ミリである。ゴミは綿ぼこり、髪の毛、ロープの切れ端、ゴミのようなもので固形のものではなく透けて見えるものである。そして杯一杯といってもゴミの種類からいって、かさばっているだけで実質は無いに等しい量だといえる。しかもレザーは白色、リン止めネジは金色だから、もし本当に存在していれば一見してすぐ有ることがわかる。だが他の捜査員も見ていない。
里は発見≠オたとき「あっ!」という声も発していない。里は証拠を発見し保全するために捜索することになったのである。どのようなものを発見したらよいのか十分予備知識を得て臨んだ。本当に発見したのであれば、重要な証拠の発見であるから自然にそういう声が漏れ出るはずである。
しかも発見したとき里は「ネジがあったぞ!」と指さして、他の捜査員にゴミの中に有るリン止めネジを見せてさえいないのである。その状態を写真に撮らせていないのである。里は押収したものを白黒写真で撮らせていたが、リン止めネジについては重要証拠ということでカラー写真で撮らせている。それなのに、リン止めネジに関しては「発見した状態」を写真に撮らせていないのである。里は「ゴミの中のこれがあったぞ」と手の掌にのせたリン止めネジを示して、それをカラー写真に撮らせただけである。誰も里がリン止めネジを拾い上げたところを見ていない。里がリン止めネジを捏造したことは明々白々である。
彼は最初から手の中にリン止めネジを隠し持っていたのである。石原・高山から持たされたのは2本であったが、前述の経過から、協議して一本を捏造することになったわけである
B捏造を隠すための警察の偽装工作
里は「一見して時計などに使われているネジだと思って押収した」と証言した。道警は直ちに押収ネジを、すでに入手済みの本件時限装置と同じ時計(リズム時計製ツーリスト024)のリン止めネジと比較対照させる鑑定をしなくてはならなかったが、やらなかったのである。捜査の実質的な最高責任者である石原は「押収ネジを時計のビスではないかというふうには考えておりましたが、道庁事件の時限装置との結びつきがあるというところまでは考えておりませんでした」と嘘の証言をし、やっと8月15日になって「捜査員に時計屋の関係を捜査させた」と言うのであった。石原のこの証言は、リン止めネジ捏造の事実を隠すための芝居である。だが石原自身も反対尋問で追及されると、5月半ば以前にネジの使われ方が特異であるとの報告を受けていたことを認めたのであった。これは前記証言が虚偽であることを白状したのと同義である。
道庁事件の時限装置の鑑定を実施したのは道警犯罪科学研究所の中島富士雄である。中島は法廷で追及されると、4月中にはリン止めネジ2本が犯人のもとに残ったことを把握しており、爆弾捜査本部に報告していたと証言した。また本件の時計はリズム時計社のシチズンのツーリスト024であるが、リズム社製の旅行用時計のリン止めネジは独自の規格であり、また同社製の全ての機種に共通することも早い段階でつかんでいたことを認めた。
石原は今後の裁判を想定して、里警部の発見押収は真実であると裁判官を欺くための偽装工作を行っていった。もちろん捜査員には芝居であることは隠してである。以下のようにである。
8月15日、石原が押収ネジについて時計店関係の捜査を指示する。
同日、西川警部、鶴原警部補ら三名が押収ネジを持参して、徳永時計店へ行く。同店の専務が4、5個の時計を出してきて、リン止めネジをはずして押収ネジを入れてみると、シチズンの2個(2種類)とぴったり合った。鶴原たちもそのリン止めネジと押収ネジを肉眼で比較対照した。色や形、大きさが一致した。それでそのリン止めネジを借りて、シチズン札幌支店に行く。するとシチズンの時計はリズム時計で作っていることを教えられる。押収ネジは捜査本部に返す。
8月16日、リズム時計札幌支店に行くが休みであった。社長宅へ行くが不在であった。
8月16日から18日、中島富士雄が押収ネジの精密な測定を行う。その結果、ツーリスト024のリン止めネジとぴったり一致する(8月21日付で鑑定書は作成されているが証拠請求されていない)。
8月17日、鶴原ら2名が徳永時計店で借りたリン止めネジ1本を持って、リズム時計札幌支店へ行く。栃木県の益子工場で作っているもので、独自規格であり、修理店には置いていないものであるとの回答を受ける。
8月23日、石原が鶴原に益子工場へ行くよう指示を出す。
8月25日、鶴原が押収ネジ=iこのネジは里警部が押収したネジではなく、傷がついているものにスリ替えたネジである。後述)を持って出発し、翌26日、益子工場に着く。
8月26日、益子工場長吉村が検査する。リズム時計の旅行用時計のリン止めネジである。傷がついていると指摘される。鶴原も傷を確認する。
8月28日、中島が鑑定を実施する。現場物の中にはリン止めネジは存在しない。押収ネジはツーリスト024のリン止めネジと寸法が一致するという内容である。
8月29日付鑑定書で証拠請求される。検201番の鑑定書である。
警察と検察官はこうしたことを証人を立てて裁判で立証した。8月10日の里警部の家宅捜索でネジ一本を発見押収し、以上のような経緯で、それがリズム時計のリン止めネジであること、ツーリスト024のリン止めネジと一致すること、道庁の現場物にはリン柱は2本あるが別のネジが入っており、リン止めネジは存在しないこと、すなわちリン止めネジ2本は犯人の元に残ったことをつかんだのである、と裁判官を騙そうとしたのである。しかし中島証言によって、3月から4月の段階で、リン止めネジ2本が犯人の元に残ったこと、リズム時計のリン止めネジは独自規格のものであり、リズム時計の全ての機種で共通していることを把握していたことが暴露されてしまった。石原も中島証言を突きつけられると認めざるを得なくなった。中島が8月28日に実施した鑑定書の前半部分は、すでに3月から4月に実施済の鑑定なのである。
道警が8月10日、直ちに押収ネジをすでに入手済みのツーリスト024(本件と同じもの)のリン止めネジと比較対照させる鑑定を中島に命じなかったこと、そして前述したような偽装工作をしていたことが、里の「発見押収ネジ」が捏造であることを雄弁に証明している。
C発見押収ネジのスリ替え
道警は里が発見押収したネジを後日スリ替えている。スリ替えたものが証拠物になった。スリ替えた理由は里のネジには工作の痕跡となるはっきり分かるドライバー痕が付いていなかったためである。道警の石原や高山は、犯人の所に残ったリン止めネジには、何度もリンに脱着したはずだから、明確なドライバー痕が付いていなくてはまずいことに気づいて、そのようなネジにスリ替えたのである。発見押収が真実であればスリ替えることはあり得ない。スリ替えた事実が里の「発見押収」が捏造であることの明白な証拠である。以下にスリ替えの証拠を明らかにする。
鶴原は8月26日、益子工場で工場長吉村に押収ネジを検査してもらった。吉村はドライバー溝に傷がついていることを鶴原に告げた。鶴原もその場で確認している。鶴原は法廷で証拠物のリン止めネジを肉眼で見て、すぐに「傷がある」と証言した。このドライバー痕はドライバー溝の片方に1カ所、反対側に2カ所の計3カ所あり、肉眼で十分確認できる大きさである。ところが鶴原は検察官の質問に答えて「傷に初めて気づいたのは8月26日に吉村工場長に指摘された時である」と証言したのである。彼は8月15日、押収ネジを持って徳永時計店に聞き込みにいったとき、ぴったり合った時計のリン止めネジと押収ネジを肉眼で比較対照している。当然、押収ネジの頭、そこのドライバー溝も比較対照したことになる。しかし3人とも押収ネジの傷を認識していなかった。すなわち、この時の押収ネジには肉眼的に分かる傷は付いていなかったのである。益子に持って行ったネジはスリ替えられたものであった。
9月8日付の鑑定嘱託書にもとづいて9月9日から13日に鑑定を実施した工場長吉村は、法廷で検察官から押収ネジについて「何か特徴はありますか」と質問されると、「ドライバー溝のところに3カ所傷がついているところが見覚えがある」と証言している。
ところが8月29日付鑑定書(検201)を作成した中島富士雄は、弁護人から「あなたが8月28日に実施した鑑定の際のネジと今法廷に出ているネジが全く同じかどうかということは、何かそれなりに調べたりした特徴があるというようなことは言えるんですか」と質問されたとき、「それになりますと、ちょっとはっきり言えないですね」と答えたのである。吉村と同旨の答えをしなくてはならないのにである。8月29日付鑑定書にもドライバー痕については記載されていない。この極めつけの不可解さには理由があるのである。
中島が8月16日から18日にかけて実施した「押収ネジ」の精密な測定の鑑定書(それは8月21日付鑑定書であり、本実氏との共同鑑定書になっている。本氏は火薬の付着の有無を鑑定したと思われる)は証拠請求されていない。この鑑定書には「発見押収ネジのドライバー溝にはかすかに一カ所ドライバー痕が付いているが、肉眼的には認めることが困難である」という主旨の記述があるはずである。中島は当初この鑑定書の存在は伏せていたが、法廷で弁護人に追及されて明らかになったのであった。
石原・高山はこの8月21日付鑑定書の後に、押収ネジには肉眼的にもすぐ分かるようなドライバー痕が付いていなくてはならないと気づいたのである。そのようなリン止めネジを用意した上で、鶴原に持たせて益子工場に向かわせたのである。8月23日に指示し、鶴原は25日に出発した。
中島が8月29日付鑑定書であえて傷に触れなかったのは、もし8月21日付鑑定書の存在が本氏の証言等から明らかになって、証拠開示されることになったら矛盾を来してしまうからである。中島はネジがスリ替えられたことを十分認識している。法廷でネジの特徴について口をにごしたのも同じ理由からである。彼は警察の証拠捏造に協力したのである。中島は里の「発見押収ネジ」が捏造であったことも認識していることになる。
事態の進展が急激であったために、石原や高山は十分考えることができず、市内でリズム時計の旅行用時計を急遽購入し、リン止めネジ2本を外して里に持たせたのであろう。しかしドライバー痕を強く付けておくことまで注意が回らなかったのである。
以上のように、リン止めネジは捏造されたものである。違法捜査である。他の証拠の信用性をも失わせるに十分過ぎるものである。これ一事で私は無罪とされなくてはならないのである。ただ私たちは一審、二審当時は、ここに記したように的確に批判していくことができなかったのである。二審判決は「各証言をつぶさに検討しても、本件ネジについて警察官らが何らかの証拠捏造工作をしたなどの証跡は見出すことができない」と判示したのである。 |
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本件爆破の消火器はマスコミでは「初田製DP10型」と報じられていた。私が8月6日に幌見峠に投棄し、道警が8月8日に押収した消火器2本は「初田製10LPT型」であった。そこで石原は中島富士雄と協力して、本件消火器片(胴体部分)にラベル痕を捏造して、「本件消火器は10PLT型である」と証拠を偽造して、消火器の同一型性をでっち上げたのである。以下にそれを証明していく。
本件消火器を初田製10LPT型と特定した中島の鑑定書は、鑑定嘱託日が4月15日で、鑑定が終了したのは5ヶ月後の9月16日である。これひとつを見ても鑑定書が信用できないことが分かる。中島は、私が物を投棄し道警が押収した8月7日以降に4件の鑑定嘱託を受けて4通(証拠請求された分のみ)の鑑定書を作成したが、全て短期間で、最長のものでも18日間で作成を終えている。だから4月15日に鑑定嘱託されたものは、どんなに遅くとも5月中に鑑定書として出来上がっているのである。
5月中に出来上がっている鑑定書には、本件消火器は初田製10LPT型以外の機種であることが明記されていたはずである。そして10LPT型と10LPU型では胴体部分に貼られているラベルを取ってしまえば、全く同じである。犯人は当然「製造番号」「製造年月日」も刻印されているラベルははがして爆体容器に使ったはずであるから、この時の鑑定書には10LPTと10LPU以外の機種であることが明記されていたと認められる。なぜならばもしその鑑定の結論が10LPT型か10LPU型であれば、私の消火器と共通性はあるのだから、危険を冒してまでもラベル痕を捏造する必要性がないからだ。
石原と中島は消火器の同一型性をでっち上げるために、まず5月中までに作成された鑑定書を隠匿し、そしてラベル痕を捏造して9月16日付鑑定書を作ったのである。
ラベル痕について説明しよう。消火器の胴体には縦24センチ、横10センチほどのカラーラベルが貼られている。ラベルには多くの文字と記号が印字されている。中島鑑定書によれば、現場物の胴体部分の破片には、幅1ミリ、長さ22ミリの黄色い水平線が付いていたというのである。位置はラベルの上辺から5センチ下、左側の端から7.2センチの「油」の字の位置にあたる。中島によれば、黄色水平線の中には幅約1ミリの黒色縦線が、約1.8ミリ間隔で3本並んでいる。中島はこの縦線は「油」の字の「由」の部分の縦の3本の線だという。「油」の字は黄色地(インク)の上に黒色インクで印刷されているから、これがラベル痕であるというのである。そして中島は油の字の太さ(幅)から10LPT型であると断じたのである。
これが捏造されたものであることは明白である。油の字であるならば、黄色地の長さからいって必ずサンズイ部分「シ」の黒色も入ってくる。つまり黒色縦線は3つではなく4つでなくてはならない。中島は10LPT型と10LPU型の区別が「由」にあることに気をとられてミスを犯したのである。
そもそも縦24センチ、横10センチの大きなラベルのうち、1ミリ×22ミリだけが胴板にラベル痕として残ったということ自体、絶対にあり得ないことである。
前述したようにラベルには「製造番号」「製造何月日」も刻印されている。はがさなければ捜査側に手がかりを与えてしまうことにもなり得るから、犯人は必ずはがして使用したはずであり、ラベル痕が残ることはあり得ない。
以上により中島が石原の命によりラベル痕を捏造したことが証明されている。山平鑑定もそうであったが、この中島の捏造・偽造鑑定もこれがなければ私を起訴に持ち込めなかった。捏造・偽造が明白になった中島鑑定書は私の無罪証拠である。しかし私たちは一審、二審段階ではこれを粉砕していくことが全くできていなかったのである。 |
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警察は8月17日に、かつて4月10日に供述調書を取ったことがあった根室市在住の藤井昭作を札幌へ呼び出し、8月18日に佐々木警視が直々に藤井と一緒になって事件当日の彼の歩行ルートを歩き、不審人物を目撃した状況を再現した。その後佐々木は中央署で藤井に私の単独面通しを行って供述調書を作っていったのである。「自分が事件当日の3月2日朝に道庁前で目撃した2人連れの男のうちのバッグを持っていたA男と大森はそっくりである」というでっち上げ調書を首尾よく作り上げたのである。この8月18日付員面調書を土台にして、8月30日には水流総務部長検事が直々に藤井から事情聴取して、「中央署で大森を見たときA男だと思った。大森とA男は背丈、背格好、目つき、顔つきなどが非常によく似ていると思った」というでっち上げ調書を作成した。これらが道庁爆破事件での私の逮捕の証拠として利用されていったのである。
藤井は公判において、8月30日付調書に沿った証言(大森とA男は同一人物と思う)をしたのであるが、「4月16日に札幌でA男とB男のモンタージュ写真の作成に協力した」という調書には載っていない新しい証言もした。A男のモンタージュ写真(検1050番)は私に非常に似ているものである。それはそのはずである。このモンタージュ写真は4月16日に作られたのではなく、私の8月11日付被疑者写真(爆取3条違反で逮捕された時のもの)をベースにして捏造されていったものであるからだ。これが捏造であることを示す証拠を以下に述べる。
@A男のモンタージュ写真は私に非常によく似ている。本当に4月16日に作られたものであれば、当然高山の総合捜査報告書に出てこなくてはならないが、出てこない。
A道庁爆破事件の逮捕状請求の疎明資料の中にもない。
B道警は7月20日から私の内偵をしていたが、それは「D氏の立ち回り先」でしかなかった。私に道警爆破の容疑をかけたのは投棄物を押収した8月7日以降であった。モンタージュ写真が真に4月16日に作られていれば、7月20日時点で私に道庁爆破の容疑をかけなくてはならない。道警は7月20日頃に私の写真(運転免許証)を入手しており、この写真はモンタージュ写真に非常によく似ているからだ。
Cこのモンタージュ写真の出来映えはそれほどまでに信用性の高いものであったことになる。しかし道庁等の聞き込みをした警察官は誰もモンタージュ写真を持たされてはいなかった。
Dこのモンタージュ写真は当然公開捜査にも活用されなくてはならないにもかかわらず、されなかった。全く手掛かりはなかったのであるから存在していれば必ず利用する。
E道警幹部は私を道庁事件で逮捕した際に、捜査成果としてこのモンタージュ写真が果たした意義を記者会見で明らかにするはずなのに全く触れられなかった。
Fこのモンタージュ写真は検察官にも当初隠されていた。8月30日付調書を取った水流検事もモンタージュ写真を見ていない。
Gモンタージュ写真が真に4月16日に作成されていれば、8月18日付調書を取った佐々木警視は私の面通しをした結果だけでなく、モンタージュ写真の出来映えなどの供述も必ず調書化するが、モンタージュ写真には一言も触れられていない。
H道警のA男、B男(2人連れのもう一人)のモンタージュ写真の任意提出・領置日は昭和54年11月7日である。藤井証人の尋問期日である67回公判(昭和54年12月19日)の少し前であった。私の逮捕は昭和51年9月1日であり3年以上経っている。道警自身がためらっていたことがここに見てとれる。
I検察官は第3回公判(昭和52年3月10日)で多くの証拠を請求した。藤井が4月10日根室で作成に協力したAB2人連れのイラストもこのとき請求されたが、AとBのそれぞれのモンタージュ写真は請求されなかった。道警が送っていなかったからである。検察官がAとBのモンタージュ写真を証拠請求したのは昭和54年11月27日の65回公判であった。
J藤井が4月10日に協力して作ったA男一人のイラスト(似顔絵)には特徴として「ほほがこけている」とあるが、Aのモンタージュ写真のほほはふっくらしている。イラストには「目が細くて鋭い」とあるが、Aのモンタージュ写真の方は全く違っている。藤井の記憶に基づいて作成すれば6日後のモンタージュ写真も同じようなものになるはずで、この検1050番のモンタージュ写真にはなりようがない。
K藤井は4月12日に釧路でもA男とB男のモンタージュ写真の作成に協力している(このふたつも警察はずっと検察官にも隠してきた)。釧路のAのモンタージュ写真は首が細く、あごも小さく、きゃしゃな顔の形であり、丸顔である。しかし4月16日に札幌で作ったというAのモンタージュ写真の方は、首は太く、あごもしっかりしており、きゃしゃな顔の形ではなく、丸顔ではなくやや面長である。釧路のモンタージュ写真の目はきつい目をしているが、札幌の方はきつい目ではなく優しい印象を受ける。ふたつは全く異なる類型である。人の記憶の原理からいって、釧路のモンタージュ写真と全く異なる1050番のモンタージュ写真が4日後に作られることは不可能である。
以上で「1050番のA男のモンタージュ写真は4月16日に札幌で作った」というのが全くの虚偽であることが証明されている。それは私の8月11日付被疑者写真をベースにして捏造されたものなのである。では何のために捏造したのか。第一には藤井昭作を目撃証人に仕立てあげていく材料として利用するためであった。
藤井は4月10日根室で調書を作り、その後A男のイラスト、B男のイラスト、A男B男2人連れのイラストの計3枚のイラスト作りに協力した。この3枚のイラストはちゃんと4月10日付で任意提出・領置されている。彼は4月12日釧路でA男とB男の一人ずつのモンタージュ写真作成に協力した。しかしこの2枚のモンタージュ写真は任意提出調書も領置調書も作られなかった(その後昭和55年1月になって作成されることになったが)。作られなかった理由は、藤井は様々な要注意人物の写真を見せられてしまったために、A男B男の原記憶が解体してしまい、要注意人物中の2人のそれに取って代わってしまったことを捜査員が認識したためである。釧路で作ったA男とB男のモンタージュ写真は要注意人物と瓜二つであったのだ。藤井は4月16日に札幌で再びA男B男一人ずつのモンタージュ写真作成に協力したが、同じ理由で任意提出調書も領置調書も作成されなかったのである。この2つのモンタージュ写真は隠匿されてしまった。
道警は7月20日から私の内偵を始めていき、8月7日以降には道庁爆破の容疑も出てきたと判断したのだが、私の写真を根室の藤井に見せて「あなたが事件当日に見た人物に似ているのかどうか」と尋ねていないし、藤井を札幌に呼んでひそかに私を見せて、「2人連れの1人かどうか」を確かめようともしなかった。8月10日の逮捕後も8月17日になるまで一切藤井に連絡を入れていない。この事実はもちろん1050番のA男のモンタージュ写真が捏造であることの証拠であるが、それにとどまらず、道警は実は道庁へのしらみつぶしの聞き込みによって、藤井が3月2日に見たA男B男に該当する人物を探し出していて事件とは無関係であることを確認していたことを物語っている。あるいは他の理由(後述する道庁職員S氏やI氏の供述とか)によってA男B男は犯人ではないと確認していたのである。百歩も千歩も譲ってそうではない場合にも、道警は藤井の4月10日の調書やイラストの人物特徴から、大森は藤井が見たA男やB男ではないと確信していたのである。だからこそ藤井に全く連絡をとらなかったのである。
しかし道警幹部は藤井を目撃証人に仕立て上げることができると考えるようになったのである。リン止めネジは捏造したが、除草剤は一粒も発見できなかった。道警は私を本件で逮捕し起訴に持ち込み有罪にしていくためには、藤井を目撃証人にでっち上げていくことが絶対に必要だと考えたのだ。藤井はA男B男のモンタージュ写真を作成したことがある。だから大森の被疑者写真を土台にしてモンタージュ写真を捏造して、「これがあなたが4月16日札幌で作ったA男のモンタージュ写真ですよ」と誘導していけば目撃証人に仕立て上げることは容易だと考えたのである。
道警は8月17日藤井を札幌に呼び出したがホテルも用意した。ホテルで佐々木警視がこんなふうに言ったはずなのである。「あなたも大森の顔をテレビで観て驚かれたと思いますが、我々もあなたの協力で札幌で作成したA男のモンタージュ写真が大森に余りにも似ているのでびっくりしました。あなたには本当に感謝しています。これがそのときのモンタージュ写真です」と。そして藤井は佐々木から、翌朝3月2日のあなたの行動を再現したいと言われて、18日朝道庁の前を佐々木と一緒に歩いている。そしてA男B男を目撃した状況も佐々木に説明したのであった。
この頃には藤井は「自分が3月2日に見た2人連れが犯人であり、そのうちのバッグを持っていたA男が今逮捕されている大森なのだ」と思い込むようになったはずである。計画的な誘導である。藤井の中にあったA男の記憶は消えていき「大森のイメージ」に取って替えられていくことになっていった。その直後に藤井は中央署へ行って私の単独の面通しをさせられた。これによって完全にA男の記憶は私のものにすり替えられてしまったのである。その後佐々木は調書を取った。「バッグを持っていたA男と大森はそっくりである」。目撃証人のでっち上げ成功である。
藤井の4月10日付調書とイラストに描かれたA男の人物像は私と全く別タイプである。
@身長は「藤井(168p)と同じ位かやや大きめであったから168pか169p」とあるが、私は174.2pである。初対面の相手で6pも高かったら一見して自分より随分高いと感じる。実際藤井は法定で口を滑らせて面通ししたときの印象として「自分より大分高いと言うことが分かった」と証言している。
A体格は「きゃしゃな体格をしている」と書かれているが、私は体重が73s位で一見してガッチリした体格である。多くの人の証言や調書また新聞報道にもそう書かれている。
Bほほは「こけている」と書かれているが、私は全く違うし当時の写真で証明されている。
C顔の感じは「横から見た感じではきゃしゃな角顔」と書かれているが、私はきゃしゃな感じではないし角顔ではない。
Dメガネのフレームの色は「上縁とつるが黒でレンズ部分が白のツートンカラーのフレーム」とある。しかし私はずっと黒縁のフレームのメガネをかけていた。大家が証言している。
E髪型はイラストで分かるようにオールバックの肩にかかるほどの長髪である。しかし私は普通のサラリーマンのようにしていてそんなに長くしたことはない。大家が証言している。
Fコートの色は「青みがかった灰色」であるが、私のコートは黒色であり大家の証言で裏付けられている。
G人相はイラスト(A男1人のもの)と私は一見して別人である。
私たちは一審で以上のような主張を展開した。私の尋問に対して藤井は「あなたと特定してないですよ、私は」「似ているということは、あなただということとはこれ違いますから」と述べて、同一性識別を単に「似てる」というレベルにまで大後退させたのでもあった。しかし一審判決はこれらは全て切り捨ててしまうのであった。
藤井は4月10日付調書では、「A男とB男が道庁に入っていき、その後、手ぶらで出てきて自分とすれ違ったが、その時B男が私をジロッとにらむようにして行ったのが印象に残っている」と供述していた。10日に作成したB男ひとりのイラストも目を片方に寄せてにらんだように描かれている。ところが道警はこのイラストも検察庁へ送っていなかった。そのため8月30日に調書を取った水流検事は、藤井にはA男に対する強烈な印象があり、その記憶は忘れられないものとしてしっかり定着していたとするために、藤井に強要して「A男がにらんだ」という調書を作ったのであった。検察官は4月10日付調書添付の図面のA男とB男の文字を、その上から強く書くことでAをBに、BをAに改ざんしている。A男がにらんだようにするためである。
8月30日付調書は書く。「Aと私との距離は60から70センチ位でぶつかりそうになった。Aは立ち止まり、互いに目と目が合った。Aは私の顔をにらみつけ非常にきつい目で見たので、Aが怒っているような感じを受けた。Aから何か因縁をつけられるのではないかという不安な気持ちに一瞬なった。Aは玄関に入る前はメガネをかけていたのに、ぶつかりそうになったときはメガネをかけていなかった」。9月15日付の笹生検事の調書になると更に誇張がピークに達する。「Aは普通とは違った目つき、表情を見せた。よく外国映画などで女の人が殺人現場を見たとき、目を大きく見開いている場面が見られるが、Aのその時の目つきは、まさにそんな大変な事をしでかしてきたという表情の目つきだった。そんな目つきに私は実際にぶつかったことはありません」「Aも私にぶつかりそうになり、一瞬立ち止まって考えるような素振りをした。苦痛を感じているような、そして私を見て困ったという表情をしたのです。私は異常ともいえるAの形相に気づき(中略)私はAから何か言われるかと身構えるような格好になった」。A男B男が犯人ならば、わざわざ印象に残るそんな行動をとることはしない。
しかし一審判決は私たちの主張も藤井証言の大後退も全て切り捨てて、「藤井の態度にはそこに作為を感じさせる何ものもない」「その証言内容は具体的かつ詳細で臨場感にあふれ体験した者でなければ到底供述できないものである」「(ぶつかりそうになった場面は)藤井の目撃体験が記憶の中に消すことのできない鮮烈な印象として刻み込まれていることを如実にしており、同証人の証言の確度は極めて高いというべきだ」と判示し、「藤井証言は信用できるから同証人の目撃したAが被告人であることは疑いを容れないと言うべきだ」と結論づけたのである。
どちらがにらんだかの点については一審判決は、「4月10日付調書を取った遠藤警部がAとBを取り違えて記載したというべきだ」と認定した(二審において定年退職した遠藤氏は「藤井さんは一貫してBがにらんだと供述していた」と証言している)。A男のモンタージュ写真についても「それは4月16日に作られたと認めることができる。右認定を覆すに足る証拠はない」と認定した。
藤井が4月10日に協力して作ったA男1人のイラストは、道庁から出てきたAを描いたものであるが、Aはメガネをかけている。しかしこれは検察庁へ送られなかった。Aが私でないことが一見して判明してしまうイラストであるからだ。そのため水流検事は私がコンタクトレンズを持っていることを知って、犯人らしくしてやろうと考え、藤井に強要して、道庁から出てきて門の所でぶつかりそうになったとき、Aは道庁に入る前はメガネをしていたのに、このときはメガネをしていなかったという調書を取ったのであった。
変装というならば、最初から普段とは違うコンタクトを使うはずである。それはともかく、藤井の法廷証言どおりであれば、メガネをかけている1050番のAのモンタージュ写真にはなりようがないはずである。藤井が正面からAの顔を見たのは門のところでぶつかりそうになった2秒位の時間だけである。メガネをしていないAのモンタージュ写真にならなくてはならない。これに対して一審判決は「メガネをかけていないAのモンタージュ写真を作ったのち、メガネをかけさせただけである」と認定するのであった。遠藤元警部は二審において「藤井さんは終始A男はメガネをかけていたと供述していました」と証言している。
検察官以上に検察官らしい裁判官である。一審判決は藤井の目撃証言を「直接証拠」(犯罪事実=爆弾の装置使用を直接立証する証拠)と位置づけて、この目撃証言だけで私を道庁爆破の犯人と認定した。「藤井の目撃したAが被告人であることは疑いを容れないというべく、被告人が本件爆発物を装置使用した犯人であることは明白である」。デッチ上げ裁判の典型である。法の番人たる裁判官が法を否定しては裁判は成立しない。憲法違反の裁判である。
この一審判決は二審判決によって批判され斥けられた。二審判決はこう判示する。「藤井証言の内容を全面的にそのまま措信し、右藤井証言のみからA男が被告人であると結論づけることは所論の指摘を俟つまでもなく相当ではない」「藤井証言が具体的、詳細で臨場感に富むからといって、同証人の供述内容の確度が極めて高いとは必ずしも言えない」「原判決の藤井証言に対する評価はいささか過大にすぎると言わなければならない」。
しかし二審判決も「藤井証言の根幹部分は一貫して揺らいでおらず、相当高く信用できる」とやはり刑訴法第318条を踏みにじった認定をして、藤井証言を救済したのであった。「A男と大森は非常によく似ている」との証言も一貫して揺らいでいないと強弁したのであった。二審判決は藤井証言を「直接証拠」と位置づけることは断念したが、私を有罪とするための「状況証拠」として救済していったのである。
二審は藤井証言の信用性を本心では認めていないのであるが、信用性なしと排斥してしまえば私を有罪とすることができなくなってしまう。なぜなら、仮に私と「爆発物との結びつき」を認定できたとしても、それが「本件道庁爆破の爆発物であった」と言うためには、その爆発物が道庁に設置された事実、すなわち藤井証言の存在が必要不可欠になるからである。これが藤井証言を救済した理由である。有罪にするとの結論がまずあって、それに基づいて違法な証拠評価をしていったのである。二審判決も1050番のA男のモンタージュ写真は、真正に4月16日に作成されたものだと認定した。なおB男のモンタージュ写真は、私の友人のD氏の「49年1月」とある写真をベースにして私の逮捕後に捏造したものである。道警は「私とD氏が犯人だ」という構図を描いていたのであった。二審においてD氏は事件当日は兵庫県明石市にある飯場で働いていたことが証明され、アリバイが明確になり、B男のモンタージュ写真の捏造が証明された。しかし裁判所はこれを無視して、A男のモンタージュ写真を真正のものだと認定したのである。
目撃証言は裁判の予備知識がない人でも解りやすいと思うので、やや詳しく書いてみた。本裁判の実態はこのようなものなのである。憲法違反の裁判である。 |
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本裁判においては、全てのことがらについて二審判決が改めて事実認定をした。したがって二審のそれが本件の事実認定である。二審判決は本件爆発物の設置時刻について、「A男B男によって本件爆発物入りのスポーツバックが道庁1階エレベーターホールの西側4号エレベーター北側の横の壁際に設置された時間は、8時20分頃から8時40分頃までの時間帯である(右時間帯の後半であった可能性が強い)」と認定した。藤井の当時の行動と目撃状況等から認定したものである。そうであればA男B男は本件犯人ではない。これによっても藤井の目撃証言(A男は私に似ている)が虚偽であることが分かる。以下簡潔に明らかにしていく。
@本件バックの形状
道庁職員が爆発の直前に本件バックを見ているが(調書にイラストを描いている)、山型のボストンバック型であり、黒っぽく見えた。新聞紙が20センチ位見える形で差し込まれていた。バッグの上部はへこんでおらずふくらんだ状態であった。
本件バックの取手は、塩化ビニールパイプの芯が入っているから折れてしまったり、下に垂れ下がったりすることなく立っている。バック本体の色は濃紺である。したがって屋内では黒っぽく見える。販売開始は75年3月であるから、本件まで1年も経っていない新しいバックである。生地はデニムである。側面に図柄はない。
AS氏が8時40分に見たバックの状態
道庁職員のS氏は課の講習が隣のビルであるために、テキスト15冊を束ねたものを両手に提げて西側の3号エレベーターで1階に降りた。そして4号エレベーター前を平行に歩いている。8時40分頃である。彼は2、3メーター手前で(爆発地点と同じ場所にある)バックの存在に気づいている。見ながら歩いている。テキストの底がバックに当たらないかと考えたのでよく見た。バックには新聞紙は差し込まれていなかった。取手は両方とも倒れ横面にくっつく形で垂れ下がっていた。形は山型のボストン型ではなく、円筒形であった。布製バックでうすい色で古ぼけたバックであった。上部は下にたるんでシワになっていた。バックの側面に絵柄が書かれていた。電気工事屋が使うバックのようだと思った。事件後1週間位して道庁に本件バックの写真が掲示されたのを見たが、自分が見たバックとは違うと思った。
以上がS氏の証言の骨子である。彼が見たバックが本件バックとは全く別のバックであることは明白である。A男B男は犯人ではない。
BI氏がS氏の後に見た物体
同じ課のI氏は、S氏の後にテキストを台車に乗せて東側エレベーターを使って1階に降り、西側エレベーターの4号エレベーターを前方に見ながらその北側を通って行った。エレベーターホールの中央部分辺りに来たときに、爆発地点と同じ所に縦長の物体が壁に立て掛けられているのに気づいた。縦の長さが横の4倍も5倍も長い物体でありバックではなかった。バックであればすぐ分かるがそういうものではなかった。I氏は本件バックと同じものを法廷で示されると、そんな小さなものではないと明言した。目撃した時間は8時40分から45分頃の間と思われる。これが証言の要点である。
彼が見たものが本件バックでないことは明らかである。この時間にはまだ本件バックは設置されていなかった。A男B男は犯人ではない。
CO氏は8時45分から50分頃本件バックを見ていない
同課のO氏はテキストを持って庁内の課と隣のビルを2、3回往復した。最後に4号エレベーター前を通った時刻は8時45分から50分の間と思われる。まだ出勤のピーク前で、エレベーター待ちの人をよけて通るという状況ではなかった。そんなに人は多くなかった。O氏は往復で4回ないし6回、4号エレベーター前を通っているが、バックその他を見ていない。彼女自身の証言である。A男B男は犯人ではない。
D工事関係者の持ち物である可能性が大
I氏が登庁した時刻は8時32分から33分である。東玄関から登庁すると、西側4号エレベーターの扉の前に座り込んでいる2人の男が目に入った。2人とも白っぽいレインコートを着ていたように思う。2人とも長い髪だった。道庁職員という感じは全然受けなかった。エレベーターの修理をしている人だと感じていた。というのは4号エレベーターは過去にも何回か故障したことがあったからだ。I氏はこのように証言した。
エレベーターの修理とか何かで来ていた工事関係者だとすれば全て説明がつく。S氏が見たバックは古ぼけたバックで「電気工事屋が使うようなバックのようであった」のである。工事関係者が工具類を入れた古いバックを、邪魔にならないその場所に一時置いてその場を離れた。そこをS氏が通って見たのである。持ち主がすぐ戻りバックを持ち去り、仕事で使う縦長の物体を一時そこに立て掛けてまたその場を離れたところを、I氏が通って見た。また戻った持ち主がその物体を持ち去った後にO氏が通ったのである。何も置かれてなかった。
犯人はその後の出勤がピークになる時間帯に人ごみに紛れて道庁に入り、本件バックを設置したと認められる。人もまばらな8時40分以前に設置すれば不審物として処理され得るからである。
二審判決は「僅か10分くらいの短時間に同じ場所に別々のものがかわるがわる置かれたとは考え難く、S氏が目撃したバック、I氏が目撃した物体は、爆発直前に道庁職員が目撃したバックであったことはほぼ間違いないものと認められる」と認定したのであった。裁判所が行うべきことは、S氏が見たバックの形状から、それは本件バックであるか否かを公平に評価することである。I氏が見た物体が本件バックか否かを判断することである。二審判決の証拠評価が刑訴法第318条を踏みにじる恣意的なものであることは明らかである。私を有罪にするためにはA男B男の2人連れを犯人としなくてはならず、藤井の目撃証言が不可欠であるから、上記のようにでっち上げ認定をしたのである。
大家のご主人の出勤時間は毎日8時15分と決まっていた。私は非番日は言うまでもなく、出勤日もご主人より先にアパートを出たことは一度もなかった。大家が証言している。仮に私がご主人が出掛けた8時15分直後にアパートを出発したとしても、道庁に着くのは8時45分か46分になってしまう。裁判所認定の設置時刻に間に合わず、私のアリバイは成立している。もっと詳細に書きたかったが紙枚の制約があるため割愛する。
私には電気雷管を入手することはできない。本件の起爆装置は工業用電気雷管であったが、私にはこれを入手する手段がない。また警察が私がかって働いたことのある工事現場等も調査したことは明らかであるが、そこで盗難があったというような事実も立証できなかった。また札幌やその他の近郊における未解決の電気雷管の盗難事件の立証もなかった。友人D氏の爆弾事件においても電気雷管は使われていない。私は無実である。
「大森が犯人だ」との予断と結論がまず先にあった裁判であった。1983年3月29日に一審の死刑判決があり、1988年1月21日に二審の控訴棄却判決があり、1994年7月15日に私の上告は棄却されて死刑判決が確定した。
(2008年7月10日記 大森勝久)
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道警は私を本命の道庁爆破事件で逮捕・起訴・有罪にするために数多くの証拠をでっち上げていった。重要な証拠からさほどでもない証拠まで実に多くあるが、紙幅に制約があるから主要なでっち上げ証拠に限定して順次書いていきたい。まずは山平鑑定書である。
確定判決はこの山平鑑定書と山平証言によって私の除草剤所持を認定している。だが後の章で私の再審請求意見書(平成18年10月30日)を掲げることにするが、山平氏は表面的には「鑑定をした」という立場をとりつつも、本質的には「山平鑑定は不存在である」ことを間接的に明らかにしようと努力してきた人物なのである。
8月8日に37点中の5点を鑑定したのは本実氏であり、山平氏は彼の下で非枢要部分の手伝いをしただけに過ぎず、溶液内反応検査にはタッチしていない。9日に残りの32点を検査したのも本実氏他であり、山平氏は一切関与しなかったのである。もしビニールシート(敷物)とカーテン地の2点から除草剤付着の反応が出ているならば、鑑定書の名義は本実氏他になるがそうではなかったのである。山平氏は二審で、道庁爆破事件があったときは北大に研修生として居て捜査(鑑定)には関わっていなかったことや、8月も北大の方の分析の研究論本を一生懸命やっていたため事件の知識がほとんどなかったことを証言した。この証言は最も火薬の付着が期待されるこの37点の鑑定は自分がやったのではないことを間接的な形で明らかにしようとしたものであった。山平氏は本件事件では他の鑑定も一切やっていないのである。
真実はこういうことなのである。この最重要な鑑定を実施したのは道警犯罪科学研究所の化学部門のトップで所長でもある本実氏及び事件の知識も化学的能力も山平氏以上にある吏員である。だが除草剤の付着も付着反応もなかったのだった。だから道警の幹部(石原啓次とか)はまず私の身柄を確保するために高山総合捜査報告書を偽造した。石原らは大家方の私の居室の捜索と鑑定を行えば除草剤そのものや痕跡反応が得られると期待していただろう。しかし8月10日に居室等の検証と押収、12日にも実況見分と領置、16日にも検証と領置を行い、化学鑑定も8月16日と17日に鑑定嘱託して2度実施したが(実施日はそれぞれ18日と20日)、除草剤は一粒たりとも発見できず、付着物を鑑定しても除草剤の反応は無かったのであった。居室、廊下、台所は隅々まで脱脂綿やガーゼで付着物を拭き取ったのである。ポリバケツやほうきはもちろん天井も壁も畳も上げてその下も拭き取っている。
それで石原たち幹部は私を道庁爆破で再逮捕するためには、除草剤が付着していたという鑑定書を偽造するしかないと考えたわけである。そこでは8月8日たまたま日直のために出てきていて本実氏の下で手伝いをした山平氏に白羽の矢が立てられたわけである。山平鑑定書は8月8日から実施して8月20日に終わったことになっている。鑑定書自体の日付は28日付である。普通であれば8月9日には終わる鑑定である。居室等の付着物の鑑定は8月16日に嘱託されたものは18日に実施してその日に終了しているし、8月17日に嘱託されたものは20日に着手して同日に終了しているのである。だから正味13日間もかかっていること自体が不自然極まりない。つまり本実らが行った37点の正式な鑑定書は破棄されて8月20日に山平氏が命ぜられて山平氏名義の偽造鑑定書が作られたことになるのである。
しかし山平氏も石原らが望むような内容の鑑定書は作成しなかった。抵抗したのであった。山平鑑定書の「鑑定経過」にはビニールシートとカーテン地の2点について塩素酸イオンが陽性であったこと、炎色反応検査でナトリウムイオンが陽性であったことは書かれているが、カリウムイオンの炎色反応検査については一切記述がないのである。「鑑定結果」欄は単に「ビニールシートとカーテン地から塩素酸イオンと木炭と硫黄が検出された」と記述されているだけで、ナトリウムイオンの検出は述べられていない。つまり除草剤(塩素酸ナトリウム)の付着を主張していない鑑定書なのだ。塩素酸塩類が付着していたというだけの鑑定書である。山平氏自身が二審の証言で自認している。塩素酸ナトリウムか塩素酸カリウムかは不明という鑑定書である。
それだけではないのである。「鑑定経過」には「塩素イオンは擬陽性であった」(陽性よりももっと弱い反応)と記されている。そうすると、ナトリウムイオンの炎色反応は陽性であったが塩素イオンも擬陽性であるから(ナトリウムイオン反応の方が塩素イオンの反応より敏感なので)、この二つから塩化ナトリウム(つまり汗)の存在が推定され得ることになる。鑑定書は率直に読めばカリウムイオンの炎色反応は行っていないことになるから、もし実施すれば陽性になるかもしれない。そうすると塩素酸イオンの相手の陽イオンはカリウムイオンで、塩素酸カリウム(つまりマッチの頭薬)の存在が推定されることになる。つまり軍手と同じになる。山平氏は37点に除草剤は付着していなかったこと、軍手にのみ塩素酸カリウムと塩化ナトリウムが付着していたこと、そして本実氏たちが偽造鑑定書を作ることを拒んだことを知っているから、軍手と同じ反応になるように意識的に工夫して鑑定書を偽造していったのであった。
山平氏は8月8日には37点の資料中、5点しか来なかったことを知っていた。残りの32点は指紋検出後の9日になることを知っていた。だが彼は鑑定書に37点の検査を8月8日から着手したと記載し、また証言することで、鑑定の信用性を否定しようとしたのであった。さらに8月20日までかかったと記載することでも信用性を否定しようとしたのである。山平鑑定は不存在である。詳しくは私の再審請求意見書を参照していただきたい。
山平鑑定書は前述のような内容であるから、私の無罪証拠である。偽造証拠は粉砕されると無罪証拠に転化する。
道警は高山総合捜査報告書と山平鑑定書をセットにして道庁爆破事件の逮捕状を請求していったから、令状を発布する裁判官もあっさり認めた。私たちも一審、二審当時は高山総合捜査報告書も山平鑑定書もしっかりと粉砕できなかったのであった。 |
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